「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

蔭を落しているのは札幌か平昌か

2017-02-10 06:08:50 | 2012・1・1
インターネットの韓国の聯合ニュース(日本語版)に”影を落とす札幌冬季アジア大会”という記事が流れている。何が蔭を落しているのかと思ったら、すでに解決ずみのアパホテルの問題である。中國がアパホテルの客室に”南京虐殺”など歴史に反する書籍が置いてあるとケチをつけ、そのしり馬に乗った形で”慰安婦”問題を持ち出し、文句をつけていた例の問題である。組織委は”環境浄化”という見地から、アパホテルに宿泊予定の中国、韓国選手団をプリンスホテルに移し,すでに解決済みの問題である。

来年2月、韓国の平昌で開催される冬季五輪のプレオリンピックが日本のマスコミにも紹介されたが、NHKの報道ではソウルでは一向に五輪熱はないという。現地からの報告でもまだ会場への道はガタガタ道だという。開場までには大丈夫なのだろうが、”影を落としている”のは、どちらであろうか。1971年の札幌プレ冬季五輪の時には、すでにメイン開場の真駒内と市の中心部を結ぶ地下鉄はほぼ完成し現在の皇后陛下美智子さまが試乗されている。

日本嫌いが国民性なのだろうが、約束事だけは守って貰いたい。一昨年12月の日韓首脳会談で”最終的、不可逆的”に合意を見た慰安婦問題はどうなったのか。ソウルの慰安婦像は撤去されないどころか、逆に新たに釜山に設置されている。首脳会談の文書に署名した大統領が1年余で職が機能停止されたままである。こんな状態では五輪どころではないだろう。日本から、わざわざ五輪を見学に行きたい気持ちにもならない。聯合ニュースの記者は、札幌雪祭りを見てから記事を書いて貰いたい。蔭などどこにも落ちていない。

自民党議員の定年制と国会解散

2017-02-09 07:14:38 | 2012・1・1
読売新聞の政治面の片隅に”怒るベテラン議員 自民党定年制”という記事が載っていた。自民党の青年局が党の内規となっている衆院比例代表候補73歳、同参院候補の定年70歳を堅持すべきだと幹部に進言したところ、ベテラン議員から強い反対の声が上がったという。自民党は小泉内閣の2000年から比例代表区候補に上記の年齢制限を設定、03年の衆院選挙では、中曽根元総理がこれに抵触、政治から引退している。

今、なぜ、こんな問題が出てきたのであろうか。東京千代田区長選で推薦候補が大敗したり、文科省の大掛かりな”天下り”が発覚、神田法相の国会での謝罪答弁など、自民党に逆風が吹き始めてきた。そして、安倍総理が、入国禁止令を巡って国が二分している米国を訪問、トランプ大統領と会う。米国の今後次第では、安倍総理の責任問題である。総理の頭の中には国会解散、総選挙がよぎり始めてきたのかも。

自民党が比例代表とは言え、定年制を設けた理念の中には政治家の若返りもあったのであろう。しかし、今の党の幹事長二階俊博氏は77歳、総務会長の細田博之氏は72歳と、閣僚年齢に比べて必ずしも若くない。自民党青年局が今なぜ定年制の堅持を進言したのか判らないが、年寄りが多い党内の空気に窒息感があるのかもしれない。

先日、老人学会の提言として「老人」を75歳以上と定義していたが、「一億総活躍社会」とはいえ、「老人」は老人である。比例代表だけでなく、一般選挙区でも75歳以上の老人は立候補しない方がよい。いわんや、党の要職は後進に譲るべきではないだろうか。

"返せ 北方領土”運動と日露共同経済開発との間の距離

2017-02-08 05:15:44 | 2012・1・1
昨日2月6日は「北方領土の日」であった。僕はすっかり忘れていたが、夕刻のテレビ.ニュースで根室で元島民らが集まって、例年のように返還要求大会が催されたのを知った。安倍総理も東京の同じ全国大会に参加したが、こちらの大会の画面はなく、今朝の新聞を見たが、わが家が購読している読売新聞は社説だけで大会の報道はなかった。今、ひとつ国民的な関心が薄いのであろうか。

昨年12月、安倍総理はプーチン大統領との日露首脳会談で”自分の世代で懸案の両国間の平和条約を締結し、北方領土を返還させたい”と意気込みをみせた。そして、その第一歩として両国での共同経済開発と現地住民間の往来を拡大することで一致した。これに基づき、両国間での事務レベルでの交渉が開始されたが、昨日の釧路の返還大会の”返せ北方領土”の鉢巻、襷がけの参加者の大会とはあまりにも距離があるように感じた。

僕は1970年代、10年間札幌に在住、根室の納沙布岬にも行き、僅か3キロちょっとの貝殻島を指呼の距離で見たことがある。当時、返還運動のスローガンは”呼び戻そう北方領土”であったが、”呼び戻そう”ではインパクトが弱いと”返せ”と変わり81年には、国民的な運動に高めようと「北方領土の日」が制定された。

日露両国間の共同経済活動は具体化へと前進しており、来月東京で協議も持たれるようだが,これが平和条約締結への道になるのであろうか。平和条約が結ばれなくては領土の返還にはならない。住民間の往来が自由になったからといって島が返還されなければ何にもならない。安倍総理の平和条約締結への思いは理解できるが、返還運動との距離があまりにも大きすぎる。言葉は悪いが、”食い逃げ”されないよう要注意である。

忘れられかけてきたシンガポール上陸作戦

2017-02-07 08:23:00 | 2012・1・1
産經新聞2月6日付首都圏版国際面8面にちょっと変わった記事が載っていた。岡部伸特派員発の記事で見出しには”大戦「シンガポール陥落」 首都では日本領事囲み祝賀会 日本びいきのアイリシュ”とある。75年前の昭和16年2月15日、日本軍が当時大英帝国が東洋のジブラルタルと難攻不落を誇ったシンガポールを陥した時、駐ダブリン日本領事館で別府節弥領事を囲んんで祝賀会が催されたというのである。当時、アイルランドは英連邦ながら中立国で、ひそかに日本に支援を送っていたという。

恥ずかしながら僕は当時の欧州情勢はしらなかったが、この記事から75年前のシンガポール作戦を想い出した。小学校5年生だったが、マレー半島からジョホール海峡を渡り敵前上陸した日本軍(第25軍)が英連邦軍の激しい抵抗にあい苦戦していた。当時はもちろん詳し戦況は伝えれてこなかったが、上陸してから半月後の2月15日深夜、やっと”敵は幾万ありとても”の勇ましい軍歌にのってシンガポールが陥落した事が大本営から発表になった。東京では3日後の18日になって、その祝賀会が開催され、僕も旗行列に参加した想い出がある。

ところが、後年、当時の戦史を調べる機会があり、関係者の本を読むと、陥落後シンガポールでは、日本軍が日露戦争以来常としていた勝利後の落城式も慶祝行事が行われていない。1週間足らずの戦闘で1713人の犠牲者を出しており”勝利はどちらが手をあげてもおかしくない、間一髪の綱渡りの激戦”(国武参謀)で、軍歌”遺骨を抱いて”の入城であったのである。

シンガポールのブキティマ軍事博物館には当時を伝える資料が展示されており、観光地セントーサ島にも僕らの世代なら誰でも知っている”(降伏は)YESかNOか”の有名な降伏式のパノラマがある。軍事博物館では頼めば、当時の日本軍の進撃を伝えるニュース映画も見られるが、靖国神社の遊就館ではどうなのだろうか。今、学校の歴史教科書には、こういった戦史の記述はあるのだろうか。忘れられてきたとすれば残念である。

千代田区長選の自民党の惨敗と石原慎太郎父子の責任

2017-02-06 10:48:34 | 2012・1・1
東京の千代田区長選挙は大方の予想通り、小池百合子知事が推す現職の石川雅巳氏(75)が自民党推薦の与謝野信氏(41)に1万票以上の差をつけ圧勝した。与謝野氏の獲得した票は、無所属で地元に地盤もない新人の五十嵐朝青氏(41)との票も僅か592票という敗北だ。国会で圧倒的な与党が推薦する候補の負け方ではない。

今回の選挙は。小池知事の「都民ファースト」対自民党都議団の7月の都議選の前哨戦で、その”代理戦争”と位置づけられていた。そのため、東京の一区長選挙なのに知事が表面に出て応援、自民党は現閣僚の石原伸晃経済担当相や丸川珠代五輪担当相まで表面に出し応援させた。しかも戦術なのか都議会自民党前幹事長でマスコミで”ドン”と悪名高い内田茂氏を選挙の表面に出すのを避けた。そこまでするのなら、小池知事と対立軸と見られがちな石原、丸川両氏を選挙の正面に引っ張りだしたのであろうか。

この大敗を受けて都内選出の自民党代議士の一人は”体制を一新しない限り7月の都議選でも大敗し、次期衆院選にも波及してこよう”(読売新聞}と嘆いていたが、戦術の誤りである。なぜ、マスコミにあまり人気のない、石原、丸川大臣を応援に起用したのであろうか。それに与謝野氏には悪いが、なぜ人気のない”世襲”候補を擁立したのであろうか。

石原慎太郎元知事が4年ぶりにツィツタ―を復活、その中で”豊洲市場問題については誠意を持って答えている。世の中には今なお私が小池知事に対して、何故回答しないのかといわれているが、それは違っている”と回答している(産経新聞)わざわざ千代田区長選挙にツィツターを復活したとは思わないが、石原慎太郎氏が発言すれば、今はそれだけで、小池知事にとって有利になる構図がマスメディアには出来ている。昨年の都知事選のさい、”年増の厚化粧”とか”うそつき”など必要もない誹謗を小池知事にしたツケである。これが自民党都議団にも回り、ひいては自民党にも響いていると思うのだが。




心配なトランプの対イスラム偏見

2017-02-06 06:19:47 | 2012・1・1
トランプ米大統領の中東アフリカ7か国からの入国禁止令はワシントン州連邦地裁の憲法違反抗告による仮処分でで暫定的ながら入国が許されることになった。連邦地裁抗告に対して大統領は不服として控訴したが、控訴裁判所もこれを却下した。結局、この問題は最高裁の決定に委ねられることになったが、大統領は強硬な姿勢を崩しておらず、泥沼化の様相を呈している。

トランプ大統領は就任後、選挙中での公約を矢つぎ早やに実行に移しているが、昨年12月のウェブサイドで”包括的完全なイスラム教徒の入国禁止を考えている”と述べていることだ。まさか、そんなことはありえないと思うが、大統領の発言からは、まんざらとは思えない。最高裁の良識ある決断に期待せざるを得ない。

世界のイスラム人口は16億人といわれ、数字上は4人に1人である。幸い、問題の入国禁止令は7か国に限られているが。もしもこれが”包括的完全な”イスラム教徒への禁止令となったら大混乱である。米国内のイスラム教徒は255万人、全人口の0.8パーセントと世界的には少数だが、この人たちにも影響してくる。

オバマ前大統領と違って、経歴を見ると、イスラム世界とは全く無関係な人のようである。今、世界が直面している最大の問題は「イスラム」をめぐる対立といっても過言ではない。それなのに、逆にこれに”火をつける”な言動は怖い。全世界のイスラム教徒を反米一つに団結させ、ジハード(聖戦)の旗を掲げて戦火に発展するとも限らない。過去に、欧州を席捲した「十字軍」の戦争が事実あった。

「築地市場の誇りと涙」 昭和初期の活気

2017-02-05 07:27:02 | 2012・1・1
昨日インドネシア関係の集まりがあり、会員の一人で一族が築地の仲卸し一家であるAさん(90)から頂戴物をし,夕食にそれを頂きながらテレビのNHK.BSプレミアムを見たら、豊洲市場移転で揺れる築地市場の1年をカメラでおった”魚河岸の誇りと涙”が放映されていた。世の中にはこういった偶然がよくあるものだ。画面ではAさんの甥子に当たる方が市場の伝統行事を守るリーダーとして紹介されていた。Aさん一家は市場が日本橋にあった頃から三代続く仲卸一家で、Aさんの実兄(故人)は、戦争中ジャカルタのパサール.イカン(魚市場)に動員された方だ。

築地市場が日本橋から移転してきたのは昭和10年(1935年)で、市場へのアクセス勝鬨橋が完成したのは15年であった。当時橋が可動で開閉するのが、珍しく、小学生であった僕はそれを見ながら市場も見学した想い出がある。子供だったので知らなかったが、この辺一帯は関東大震災(1923年)からの復興事業計画の一環で、戦争で中止になったが15年には月島で万国博覧会も開催される予定になっていた。

関東大震災からの復興は震災後7年目の昭和5年、帝都復興祭が賑やかに開催された。しかし、東京では次の目標である皇紀2600年(昭和15年)に向けて五輪、万博を開催するなどのインフラ整備が行われていたのだ。”レバタラ”になるが、昭和12年の日支事変、次いで16年に大東亜へ戦火が拡大したため、すべて計画は水の泡に帰してしまった。

豊洲への市場移転問題は依然として先が見えない。2020年の五輪までに解決されるのだろうか、”魚河岸の誇りと涙”の番組を見て家康入府400年来の、江戸っ子の食文化と伝統を守る意味でも早期の解結を期待する。




金融封鎖から71年 戦中より苦しかった戦後の食生活

2017-02-04 07:52:26 | 2012・1・1
昨日、節分の事を書くに当たって、僕の記憶から戦中戦後節分の記憶が欠落しているので、亡父の残した日記帳に何か書いていないか調べて見た。改めて気が付いたのだが、大正時代からつけている父の日記帳は、昭和19年から23年までの5年間、愛用していた博文館の当用日記が入手できず、チャチな装幀の日記帳を使っている。そのため毎日を記すスペースが少ない。そのせいか、父の日記にも節分についての記述は昭和21年2月3日に”けふは節分。敗戦後の事でて豆撒きの豆もなし”とあるだけだった。

亡父の日記を読み直してみると、敗戦の20年から21年にかけてが食糧難のピークであった。粗末な日記帳のため、父は工夫して毎日の欄で書けなかった分を月末に一括して「補遺」として書いているが、21年2月の「補遺」には”農家の米の供出進まず、米の配給10日も遅れる。それも代替えの小麦、三食とも粗末な手製のパンばかり。体重減が心配”とある。この2月、当時の弊原内閣は、天井知らずのインフレ対策として銀行の予算封鎖の措置に出て、国民は世帯主月300円、世帯員一人100円の新円しか使えなくなった。僕も旧円札にシールを張った旧円札を憶えている。

亡父は当時60歳代。定年を終え浪人生活だったが、今と違って年金はなく、余生のために準備した家作も物価統制令で家賃が抑えられて僅かな額。一家は近くの工場の下請けとして手動のプレス器で内職をした。停電を縫って暗い電灯の下で僅かな現金を稼いだ。
旧制中学性だった僕の学校は21年5月から午前中だけの授業になった。戦争中の食生活も緊迫していたが、戦後すぐのこの時代がわが国にとって一番の危機だったのではないだろうか。

昭和天皇香淳皇后御歌「ララの品、積まれたるを見て、とつくにのあつき心に涙こぼれる」香淳皇后は天皇陛下と共に21年11月、ララ(米国のアジア民間救援団体)から贈られてきた食糧を横浜港へ視察したさいの御歌。横浜新港のはずれに建っている。僕もララの缶詰ソーセージやチーズで救われた一人である。







恵方巻 ”折り節の移り変り”

2017-02-03 07:30:17 | 2012・1・1
節分に恵方巻きを食べる習慣は東京首都圏でも定着してきた。今朝配達されてきたわが家の新聞(2紙)の折り込み広告にはなんと5枚も恵方巻きが目玉になっていた。今夕、出来上がった恵方巻きを買ってきて食べるか、それとも材料を買ってきて自家製のを作るか目下、老妻は思案中のようだが、古い日記を調べると、わが家で節分に恵方巻きを食べるようになったのは。せいぜい21世紀になってから最近の事だ。

僕が子供だった昭和10年代初めの頃、東京では節分の夕方になると、各家々から”鬼は外、福は内”の豆撒きの声がこだましたものだ。そして残った豆や座敷に散らばった豆を拾って食べた。せいぜい、そんなことが楽しみであって、とくにご馳走を作って食べた記憶はない。想い出にあるのは、町内にあった稲荷神社で大人たちが大きな鍋に甘酒を作り、これをリヤカーに積んんで太鼓を叩きながら町内の子供たちに配って歩いたことだ。今でもあの甘酒の味が忘れられない。

ずっーと遡って800年前の徒然草の兼好法師の時代には節分は追儺と呼ばれていた。その第19段「折り節の移り変り」にはこんな記述がある。「追儺より四方拝(元旦)に続くこそ面白けれ。晦日はいとう暗きときから松などともし、夜半すぎから人の門を叩き走り}、なにごとかと、ののしりて足を空に惑う」。兼好法師の時代には節分は旧暦の大晦日から四方拝にかけて行われていた、今思うと人迷惑な奇祭だった。

年々、昔からの伝統行事に代わって「バレンタイン」など横文字の他国の行事が盛んになってきた。その中で恵方巻は、数少ない昔の行事の掘り返しだ。商魂でもよい。忘れかけてきた伝統故事へのへの着目も満更意味のない事ではない。


産經では判らぬアパホテルの「極右文書」の結末

2017-02-02 06:05:09 | 2012・1・1
札幌冬季アジア大会(2月19日―26日)の選手団宿舎の一つに予定されていたアパホテルが、どうやら中韓両国の抗議によって他のホテルに変更になるようだ。理由はアパホテルが室内に「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を否定する、同ホテル経営者が書いた書籍に対して、両国からイチャモンがつき、結果として組織委員会がこれに応じたからだ。

小ブログは1月27日更新のブログで産経新聞が大きく報じたこの問題を取り上げた。産経は1面に論説委員が書いた”極限御免”の中で、アパホテルに”声援”を送り、数面を使い大きく報道した。この記事の中で、著者の経営者は”日本は押されれば引く”国だと反省し、ホテルは部屋から撤去しないと語っていた。僕も民間のホテルのやることにイチイチ文句をつけるのはおかしいと思い、ブログを書いた。

この問題がその後どうなったのか、2月2日現在、産経は報じないが読売新聞などの報道によると、結局アパホテルはアジア大会組織委員会の勧告を入れる形で書籍を一切部屋から撤去したうえ、中国選手団はすべて他のホテルに移すことになったという。なんのことはない。大山が鳴動しただけだ。産経を見ているだけでは結末がどうなったのか判らない。論説委員の記事は、委員自身の言うように”声援”にすぎなかったのだろうか。無関係と信じたいが、産経の1日付け首都圏版朝刊にはアパホテルの新富町完成の広告が1ページを全面を使って大きく掲載されていた。つまるところはアパホテルの経営戦略にすぎなかったのだ、