亡父の71年前、昭和20年8月9日(木)の日記の欄に次のような記述があった。「午前10時半、大東亜省に寄って出勤、昼食そこそこに帝國ホテルの岡崎勝男氏の講演会に行く。席上、日ソ開戦。容易ならざる事態発生、憂鬱の気に閉ざされる」。これまであまり、気にしていなかったが、ちょうど岡崎氏の講演会の直前の午前11時2分、長崎に原爆が投下されていたが、亡父の日記は岡崎氏が原爆に触れたかどうかを含めて一切記述はない。岡崎勝男氏(戦後外相)は当時外務省調査局長で、父は大東亜省外郭団体の嘱託をしており、その団体会員だけの講演会であった。
ソ連の対日布告は8日午後5時(日本時間11時)、モスクワでモロトフ外相から佐藤尚武大使に通達され、その僅か7時間後に9日午前零時(日本時間午前6時)ソ連は満州(中国東北部)、樺太(サハリン)朝鮮など国境を接する地域から一斉に侵攻している。対戦布告を受けても日本側は、これに対応できない一方的なものであった。しかも、モロトフ外相は佐藤大使に対して、布告を暗文で送るのを許可したといわれているが、外務省にはその暗文はないとされている。
一方的な”火事場泥棒”で参戦を布告、戦勝国として巨利を得ながら、戦後70余年たっても”御託”をならべ、わが国固有の北方領土を返還しようとしない。日ソ(露)両国は60年前の1956年12月、戦争終結と国交回復をうたった共同宣言に調印し、条約締結後は歯舞、色丹を返還すると明記している。自分の勝手のよい時は一方的、悪い時は文句をならべて引き延ばす。ずる賢い国である。交渉に当たっては要最大の注意である。
ソ連の対日布告は8日午後5時(日本時間11時)、モスクワでモロトフ外相から佐藤尚武大使に通達され、その僅か7時間後に9日午前零時(日本時間午前6時)ソ連は満州(中国東北部)、樺太(サハリン)朝鮮など国境を接する地域から一斉に侵攻している。対戦布告を受けても日本側は、これに対応できない一方的なものであった。しかも、モロトフ外相は佐藤大使に対して、布告を暗文で送るのを許可したといわれているが、外務省にはその暗文はないとされている。
一方的な”火事場泥棒”で参戦を布告、戦勝国として巨利を得ながら、戦後70余年たっても”御託”をならべ、わが国固有の北方領土を返還しようとしない。日ソ(露)両国は60年前の1956年12月、戦争終結と国交回復をうたった共同宣言に調印し、条約締結後は歯舞、色丹を返還すると明記している。自分の勝手のよい時は一方的、悪い時は文句をならべて引き延ばす。ずる賢い国である。交渉に当たっては要最大の注意である。