72年前の昭和18年10月5,6日東京で大東亜共栄圏会議が開かれた。史上初の今流でいえばアジア.サミットである。この年の5月、天皇御臨席の下で決定を見た「大東亜政略指導大綱」に基づいて時の東條英機総理が招集したもので、アジア諸国から中華民国(南京)汪兆銘、満州国張景恵、フィリピン.ホセ.ラウエル、ビルマ.バー,モウ、タイ.ワンワイ.タヤコン、それにインド自由政府からチャンドラ.ボース、6人の首脳が参加した。
しかし、同じ大東亜共栄圏でもインドネシア(蘭印)マラヤ(英領マレー)からの参加はなかった。その理由は「大東亜政略指導大綱」によって”マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオは帝国(日本)領土と決定し、重要資源の供給源として極力,之が開発並びに民心の把握につとめる”と決定されていたからである。だが、会議には参加しなかったが、インドネシアからは、独立運動の指導者、スカルノ(初代大統領)とハッタ(同副大統領)別途、東條首相に招かれ訪日、天皇陛下にも謁見している。
この時スカルノ、ハッタに通訳として同行した寺田喜市氏(故人、元ジャカルタ総領事)が、「友愛だより」という戦前蘭印に居住した方々の集まりの機関誌(平成11年8月号)に次のように書かれている。「一行は東京で東條首相にお目にかかったが、そのとき、同首相はインドネシアの独立には一言もふれなかった。会談後、スカルノさんもハッタさんもイライラして顔色もさえなかった。(中略)スカルノさんは何か気にいらないことがあると、ちょっと横をむいて、チェつと舌うちする癖がある方だったが、帰国後、日本側から「独立準備調査会」の提案を聞いて,チェつと舌打ちをされた」
その後、昭和19年7月、東條内閣にかわって小磯内閣が誕生「大東亜政略指導大綱」も見直され、インドネシアの独立も認められた。準備調査会の計画案で20年9月7日、独立することに決定されていたが、8月15日敗戦となり、インドネシアは17日、独自に独立した。今、思えば「大東亜政略指導大綱」は、日本の大東亜共栄圏構想にとって瑕瑾であった。
しかし、同じ大東亜共栄圏でもインドネシア(蘭印)マラヤ(英領マレー)からの参加はなかった。その理由は「大東亜政略指導大綱」によって”マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオは帝国(日本)領土と決定し、重要資源の供給源として極力,之が開発並びに民心の把握につとめる”と決定されていたからである。だが、会議には参加しなかったが、インドネシアからは、独立運動の指導者、スカルノ(初代大統領)とハッタ(同副大統領)別途、東條首相に招かれ訪日、天皇陛下にも謁見している。
この時スカルノ、ハッタに通訳として同行した寺田喜市氏(故人、元ジャカルタ総領事)が、「友愛だより」という戦前蘭印に居住した方々の集まりの機関誌(平成11年8月号)に次のように書かれている。「一行は東京で東條首相にお目にかかったが、そのとき、同首相はインドネシアの独立には一言もふれなかった。会談後、スカルノさんもハッタさんもイライラして顔色もさえなかった。(中略)スカルノさんは何か気にいらないことがあると、ちょっと横をむいて、チェつと舌うちする癖がある方だったが、帰国後、日本側から「独立準備調査会」の提案を聞いて,チェつと舌打ちをされた」
その後、昭和19年7月、東條内閣にかわって小磯内閣が誕生「大東亜政略指導大綱」も見直され、インドネシアの独立も認められた。準備調査会の計画案で20年9月7日、独立することに決定されていたが、8月15日敗戦となり、インドネシアは17日、独自に独立した。今、思えば「大東亜政略指導大綱」は、日本の大東亜共栄圏構想にとって瑕瑾であった。
戦争によって変わるのか、変わることによって戦争が起こるのか。
まさに激動の時代ですね。
大東亜共栄圏の会議の席上,フィリッピンのホセ.ラウレル大統領から、何故蘭印、英領マラヤの独立を認めないのか質問があったそうです。当時、日本政府の本心は石油など資源の豊かな地域は、領土にしたかったようですが、一度燃え盛ったインドネシア住民の独立運動は、激しく抑えきれなかったようです。東條首相の判断の誤りです。