「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「海行かば」は軍歌ではない

2018-03-03 05:41:26 | 2012・1・1
千葉県八千代市の民間団体「日本の心を歌う集い」が市の後援依頼を申請したところ、歌う曲目の中に軍歌「海行かば」があるとの理由で断られたという。主催者側は唱歌など昔から伝わる美しい旋律を通じて参加者で感動を共にしようというのが開催の企図だったのだが。果たして「海行かば」は、市教委のいうように軍歌なのだろうか。

♯ 海行かば(大伴家持の長歌 信時潔作曲)
海行かば水漬く屍(かばね)山行かば草むす屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ、かえりみはせじ

この歌は、万葉集に出てくる大伴家持の和歌に昭和12年(1937年)11月、国民精神総動員法強調週間にちなんで作曲家の信時潔がNHKの依頼を受けて作曲したものである。戦時中、小学から中学生であった僕らは、戦果を発表する大本営の冒頭曲として耳にしたり、戦死した英霊の遺骨を駅頭に迎える際に歌った。YOU TUBEによれば「海行かば」は準国歌とか第二の国歌で、国民の間で熱狂的に歌われたという解説があるがこれは誤りだ。

戦争中、中学校(旧制)には「教練」という学科があり、僕らは軍隊並みに「軍歌演習」があった。教官を中心に輪になって「抜刀隊」「愛国行進曲」「軍艦マーチ」など勇ましい歌を声張り上げて歌ったが、「海行かば」を歌った記憶はない。

戦後、軍歌は一時右翼の街宣車の歌と化し、カラオケからは毛嫌いされているが、戦時中、銃後の小国民だった僕らには歌は軍歌しかなかった。「海行かば」は僕らにとっては軍歌ではない。英霊への鎮魂歌である。「海行かば」を聞いて戦争賛歌と思う日本人はいるだろうか。

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11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Suara angin)
2018-03-04 10:16:53
驚きですね。
役所、市役所は市民のためにあるのではあるので
は。。。。
「海ゆかば」は日本の心を歌ったうた。
只、戦時中に国民の心を引くために軍の首脳部が使用したと私は思っております。
もし「海ゆかば」が軍歌であれば、戦時中に歌われた「懐メロ」と言われる歌も軍歌になると思います。
ブロガーのご親友のインドネシア・中部ジャワ在住の高齢の方も「海ゆかば」を愛唱されており、日本の心と理解されている。お宅に伺ったときに先ず最初に歌われる歌です。
外国の方も愛されている歌がお役所では日本お心を歌った歌ではなく、「軍歌」との判断。
日本のお役所がこのようなこと理解できません。
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大平洋行進曲 (kakek)
2018-03-04 13:52:53
Suara angin 様
出陣する兵士が「海行かば」を歌った話など聞いたことがありません。”勝ってくるぞと勇ましく”と小旗を振って兵士を送りました。戦争です。当然です。
僕個人は子供だったこともあり、旋律が寂しく好きな歌ではありませんでした。
半世紀前、インドネシア各地を旅行した時は、人々が当時僕が忘れかけていた歌、例えばスマトラ.シボルガで,"海の民なら男なら”で始まる大平洋行進曲を知っていたのに驚きました。戦争中、シボルガには海軍の陸上基地があったのです。
あの時代子供だった世代は、カラオケで歌える曲が少なく困ります(笑)
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Unknown (Liberty HillのPaman)
2018-03-19 01:24:06
初めまして。 マカッサル等で検索以来、時々拝読させていただいております。
さて、標記の「海行かば」ですが、所謂軍歌の範疇には入らないと思います。
昭和四十年代に内藤清五や河合太郎が指揮した旧海軍軍楽隊曲集のライナーノーツには
「戦いに臨む武人の凛子たる気概を謳い上げた『海行かば』は、いつの間にか鎮魂歌に
なってしまったが、、云々」との記述があり、父もあれは軍人の覚悟を詠ったものだと。
一方、母は最初は神宮外苑競技場で雨に打たれながら聞いたので壮行の曲だったようですが、
その後はこのメロディーがラヂオから流れてくると転進・玉砕の話なので、追悼曲と
感じていたようです。先年行われた海上自衛隊の日本海海戦111周年の追悼式でも演奏されて
いましたので、今は立派に鎮魂歌でしょう。
軍歌か否かについては、役所云々もさることながら、売られている軍歌のCDに原因がある
のではと思っています。昨今の軍歌集には大概収録されています。最近出たものに至っては
「日本の軍歌アーカイブス(海編)」のタイトルが「海ゆかば」です。ちなみに(陸編)は
「戦友」です。軍歌の代表のような扱いですが、どちらも銃後の国民ではなく、戦地で兵隊
が歌ったものと考えておりますが、いかがでしょうか。
以上、ついつい長々と書いてしまい、失礼いたしました。
頓首
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軍歌演習 (kakkek)
2018-03-19 11:11:45
loberty Hill のParman 様
僕自身は従軍世代ではないので解りませんが。Suara angin 様と共通のインドシアの共通の友人、元義勇軍氏は今失明して病床にありますが、Suara anginn 様が贈ったカセットのなかで「海ゆかば」が一番好きだそうです。おそらく義勇軍時代教わったもんでしょう。1964年モロタイ島で発見された台湾のアミ族出身の元日本兵、李光輝氏も発見の際「海行かば」を歌ったそうです.。
しかし、僕は学校の教練の”軍歌演習”で歌った記憶はありません。
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Unknown (Liberty HillのPaman)
2018-03-20 02:52:11
皆さん、曲への想いは様々ですね。父も思い出すことが多かったようです。「慰霊祭では歌ってもクラス会では、、」とも云っていたので、最後は 喇叭奏・水漬く屍、江田島健児の歌、命を捨てて、國の鎮め で送りました。三回忌も終わったので、詳しく聞くことができなかったマカッサル上陸からチビナンを経て復員までの九年間を調べ始めたところでした。いろいろと教えていただき、ありがとうございました。
九品仏川緑道の桜も、そろそろの様です。                 頓首
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軍歌は否定すべき歌なのか (日本ミツバチ28号)
2019-11-04 12:58:29
「海ゆかば」が軍歌なのか、そうではないのかは軍歌をどう定義するかにもよるのでしょうが、手元の『日本の唱歌【下】学生歌・軍歌・宗教歌篇』金田一春彦・安西愛子編・講談社文庫 昭和57年』では軍歌に分類され、そして軍歌も広い意味で唱歌に含めています。
「海ゆかば」が軍歌であるとして、市の後援依頼を断ったことで八千代市は平和主義の市政を行なっているとでも錯覚しているのであろうか。軍歌を歌ったり、聞いたりすることは否定されるべきことで、そうすることが、平和主義と考えるのは根本的に間違っている。
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 (kakek)
2019-11-04 16:12:35
日本みつばち28号 様
僕ら銃後の小国民は英霊の遺骨の出迎いに駅まで行き、海征かばを合唱しました。しかし、本土への空襲が激化した昭和19年11月ごろからは、出迎いもできなくなり敗戦を迎えました。従軍世代の中には、戦争で屍になるのは当然と、この歌を嫌っていた人もいました。戦争を謳歌する歌ではありません。
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信念 (日本ミツバチ28号)
2019-11-05 10:34:10
KaKeK様 コメントを拝見して「海ゆかばは軍歌ではない」と云う強い信念をお持ちであるということは、よく理解できました。 『渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集』(ポリドールレコード SMRー1008)に「海ゆかば」は収録されています。ライナーノートで、八巻明彦氏は「昭和12年10月、日本放送協会で作られた作品ですが、大東亜戦争中は”第二の国歌”として儀礼曲風に使われ、隣組の常会では必ず歌うこととされたほど。大本営の玉砕報道の前奏曲に使われたりして、当時を記憶する人には、あまりいい想い出はないはずです。しかし、本当は、出陣する武人が、身命を捨ててもかまわぬ―という決意を示した、堂々たる軍歌だったのです。」と書いている。
また、大野敏明氏著「軍歌と日本人 国民を鼓舞した197曲」(産経新聞出版)には、、第四章 陸軍の儀礼の歌で「儀式、儀礼で歌われる軍歌を紹介しよう。まずは『海ゆかば』である。『海ゆかば』は陸海軍共通である。本来は将官への儀礼歌であったが、出征兵士を送ったり、英霊を迎えたり、さらには戦いの覚悟や鎮魂の意味を込めて歌われるようになり、第二の国歌としての性格をもつに至った。」とある。
念のため申しておりますが、私は「海ゆかば」が軍歌であることを主張するために、このコメントを書いたのではありません。前回も書きましたが、「軍歌」をどう定義するかによるのではないでしょうか。
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大本営発表 (kakek)
2019-11-05 14:23:04
日本ミツバチ28号 様
大本営の”玉砕”発表は海征かばでした。しかし、勝利の陸軍(敵は幾万)海軍(軍艦行進曲)がやはり耳に残っています。当然ですが。
僕ら銃後の青少年にとっては、当時歌う歌はすべて軍歌でした。最後の軍歌は”いざコイ二ミツ、マッカサーで始まる「比国決戦の歌」”出てくりゃ地獄へ逆落とし”さすがに街宣車も流しませんね。
老人の集まりでは最近、軍歌は歌いません。戦後生まれの年寄りが多くなりました。、
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軍歌を差別するな (日本ミツバチ28号)
2019-11-06 10:13:57
KaKeK様 おっしゃる通り『日本の唱歌 下』に「敵は幾万」は「第二次世界大戦のころ、この旋律はラジオで陸軍関係のニュースが入る場合、テーマ音楽として用いられ」たとあり、「軍艦行進曲」は、第二次世界大戦、日本軍が戦果をあげた二ュースの時にいつも演奏されて馴染み深い曲。」とありました。
「比島決戦の歌」が出来たとき、「愛国の花」を作詞した福田正夫が「こういう歌を作ることは日本武士道精神に反する」と言って、情報局へ申入れを行なったことが、『日本の唱歌 中』(講談社文庫 昭和54年)に書かれています。この様に、福田氏が高貴で勇気を持った詩人であったので「愛国の花」の様な素晴らしい詩を書くことが出来たのでありましょう。「比島決戦の歌」の作詞は西條八十ですが、歌詞に人名を入れるように、ある軍人の横槍が入ったとき、反対し抵抗するのですが、押し切られてしまったといいます。大東亜戦争の敗戦直後アメリカ軍が上陸してきたら、あの歌を書いた西條は絞首刑にされると噂され、西條自身覚悟していたといいます。
ところで、大岡信は「折々のうた」で鉄道唱歌をとりあげたとき、「詞章すぐれた唱歌や軍歌は・・・地歴教育・情操教育に大きな役目をはたした」と解説しています。 


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