広島、長崎に原爆が投下された頃、僕は両親と3人で東京に住んでいた。中学3年で、多摩川べりの軍需工場へ学徒動員されて機銃弾を作っていた。父は定年後の仕事だが、都心の大東亜省関係の団体で嘱託勤務していた。その父の広島原爆投下の6日(月)の日記「いよいよ本格的な夏(連日の空襲警報で)寝不足ながら6時に起床。朝食。出勤間際に空襲警報発令(午前7時48分)同解除(10時15分)そのまま在宅、午後出勤、8,9月分の俸給支給される。4時終了、近くの「源来軒」(国民酒場)へ行くが籤で外れ、6時半帰宅、配給の焼酎に蘇生の思い」
9日(木)の長崎投下の日の日記「亡父の命日、仏前に礼拝す。10時半出勤そこそこに帝国ホテルに外務省岡崎勝男調査局長(戦後外相)の講演会へ行く。席上、日ソ開戦、容易ならぬ事態発生の発表に、憂鬱の気に閉ざされる。4時半帰宅。行水。夕食」(長崎への原爆投下は6日午前11時02分、岡崎氏の講演直前だった)
亡父は仕事の関係で11日の日記には,「今日も引き続き不快な情報を聞く」と敗戦情報を聞いているが、父の日記には広島、長崎の”新型爆弾”への言及はない。広島原爆投下が初めて国民に知らされたのは7日午後の大本営発表で、一般国民は8日付の朝刊だが、新型爆弾で被害が甚大というだけで詳細は明らかにされていない。僕が新型爆弾の惨状を知ったのは敗戦後ではなかっただろうか。父は敗戦を事前に知り、僕も父から聞いていたが口外はできなかった。そんな日々なのに、父は11日の日曜日には逗子の友人宅を訪ね海水浴をして“爽快を覚ユ”などと記している。
9日(木)の長崎投下の日の日記「亡父の命日、仏前に礼拝す。10時半出勤そこそこに帝国ホテルに外務省岡崎勝男調査局長(戦後外相)の講演会へ行く。席上、日ソ開戦、容易ならぬ事態発生の発表に、憂鬱の気に閉ざされる。4時半帰宅。行水。夕食」(長崎への原爆投下は6日午前11時02分、岡崎氏の講演直前だった)
亡父は仕事の関係で11日の日記には,「今日も引き続き不快な情報を聞く」と敗戦情報を聞いているが、父の日記には広島、長崎の”新型爆弾”への言及はない。広島原爆投下が初めて国民に知らされたのは7日午後の大本営発表で、一般国民は8日付の朝刊だが、新型爆弾で被害が甚大というだけで詳細は明らかにされていない。僕が新型爆弾の惨状を知ったのは敗戦後ではなかっただろうか。父は敗戦を事前に知り、僕も父から聞いていたが口外はできなかった。そんな日々なのに、父は11日の日曜日には逗子の友人宅を訪ね海水浴をして“爽快を覚ユ”などと記している。
しかも敗戦が決定的になった攻撃ですから、尚更正しくは伝わらないでしょうね。
恐ろしいですね。
昨日はNHKで原爆投下10年後の広島の姿を描いたドラマを放映したそうです。
昨今は、戦争を題材にしたテレビ番組もありませんから珍しいです。
広島、長崎に次いで第三、第四の投下地が決まっていたそうですが、敗戦により悲劇が起こらず人類にとって本当に良かったと思います。庶民は新型爆弾といっても、その脅威など理解していませんでした。被災地近辺以外は、ノホホンとした生活をしていました。
ソ連は広島投下で、参戦に踏み切った。ずるこしい国です。改めて怒りを感じます。
広島、長崎に次いで第三、第四の投下地が決まっていたそうですが、敗戦により悲劇が起こらず人類にとって本当に良かったと思います。庶民は新型爆弾といっても、その脅威など理解していませんでした。被災地近辺以外は、ノホホンとした生活をしていました。
ソ連は広島投下で、参戦に踏み切った。ずるこしい国です。改めて怒りを感じます。
いま 1954年生まれの吉田 裕さんの書いた「日本軍兵士ーアジア・太平洋戦争の現実」(中公新書 2017年12月初版)を読んでいるところです。戦後73年が経過しました。これからの若い世代の方々による新しい視点での戦史研究もっとやって頂きたいと思います。
戦後生まれが8割だそうです。そのうち戦争の記憶がある世代はどれぐらいでしょうか。歴史の証人として正しく戦争を伝えたいものです。石破茂さんは昭和32年まれ、自分の娘より若いのです。感無量