「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

悪夢の警戒警報サイレンの音

2015-08-18 05:10:13 | 2012・1・1
昨日インドネシアの独立式典に参加した後、大使館近くの母方の実家に立ち寄り当主夫妻と懇談した。当主は僕の従兄の子供に当たり昭和19年生まれの戦前生まれだが、全く戦争の記憶がない世代である。母方の実家は昭和20年、強制疎開で立ち退きを命じられ、疎開した世田谷の梅ヶ丘で空襲にあい、全焼している。その昔話から空襲の際の警戒警報、空襲警報のサイレン話になったが、戦前生まれといっても、僕らと違って、あのサイレンの忌々しい想い出は全くない。

昨日実はインドネシアの独立式典で、このサイレンの音を聞いた。前にも述べたが式典は、独立宣言当時を回顧する形で、一つのプロットで演出されているが、その中でこのサイレンの音が流れてくる。毎年式典に参加して疑問に思っているのだが、まだ、何故なのか確認していないが、多分、独立時の、日本軍政の厳しさを象徴する意味で、このサイレンの音を使用しているのかもしれないが、はっきりしない。

敗戦時、陸軍第25軍政監部の政務班長だった斉藤鎮男氏(戦後インドネシア大使=故人)が書いた「私の軍政記」(昭和50年 日本インドネシア協会)によると、昭和20年8月17日午前10時(日本軍政時間)スカルノ(初代大統領)邸前庭で独立が宣言された時、日本の警官が、スカルノに独立について詰問したが、スカルノらの強い独立への気勢に押され、黙したまま引き揚げた場面がある。

独立宣言文はジャカルタの前田精海軍武官府邸で起草され、一部日本人がこれに立ち会ったのは事実だが、陸軍については、最後まで連合軍との敗戦処理を控えて、その立場上インドネシアの独立にはコミット出来なかった。しかし、斉藤氏の本を改めて読んでみると、陸軍はあらかじめスカルノらの動きをしりながら、あえてこれを実力をもって阻止しなかったのは、軍内部に独立を黙認する黙約があったように思えてならない。あの警戒警報、空襲警報のサイレンの音は当時の日本人にとってもインドネシア人にとっても悪夢の音であった。

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4 コメント

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Unknown (chobimame)
2015-08-18 09:28:46
面白いといっては失礼ですが、インドネシアとサイレンの音の関係は、興味深い事実ですね。
戦争体験者には、サイレンの音は嫌なものだと思います。
私の母も、戦後空襲がないと判っていても、工場のサイレンなどを聞くと、思わず空を見上げたと話していました。
音や匂いは、人間の記憶から一生消えないとの話もあります。
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切羽つまった空襲警報のサイレン (kakek)
2015-08-18 13:33:14
chobimame さん
東京では、近くの学校の屋上などにサイレンの装置がありました。東部軍管区情報で警戒警報が出ると、一本長く音を引いたサイレンが鳴り、これが空襲警報に変ると、サイレンの音は、断続的に切羽つまった音に変りました。70年たっても忘れられません。僕らは勤労動員されるまでは夜間、警戒警報が出ると、歩いて学校の警備に駆けつけました。亡父の日記によると、敗戦後の18日まで警報が出ています。多分、敵機が空襲が目的でなく上空を飛行しても警報を出したものと思います。15日も午前9時半から正午まで警戒警報がせていたため、僕は防空壕のなかで玉音を聞いています。
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陸軍 (朱雀)
2015-08-22 12:18:11
>陸軍はあらかじめスカルノらの動きをしりながら、あえてこれを実力をもって阻止しなかったのは、軍内部に独立を黙認する黙約があったように思えてならない。

納得がいきます。ご指摘のとおりと存じます。
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陸軍の黙認 (kakek)
2015-08-22 15:55:01
朱雀さん
独立宣言前夜の陸軍軍政監部の西村総務部長(少将)とスカルノらとの最後の話し合いで、スカルノは言外に何か陸軍の独立認容を読み取ったのかもしれません。西嶋さんは著書のなかで、斉藤さんのかたくな態度に怒り、ピストルを危うく発射しようかと書いています。多分西村.スカルノ会談に同席した斉藤政務班長は、恐らく軍の原則論を述べたのでしょう。ジャkルタ在勤中、お二人にお世話になっただけに、歴史を身近に感じます。
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