「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         スマトラへの郷愁「メダン会」

2011-04-10 07:02:49 | Weblog
東日本大震災の自粛ムードの中、関係している会合のほとんどが中止されているが、昨日乞われて昔の知人が主宰する「メダン会」に出席した。「メダン会」はスマトラ第一の都会、メダンに戦前住んでいた人、戦争中、ここに駐屯していた元軍人軍属、それに戦後アサハン計画などで居住していた人たちの時代をこえた郷愁と親睦の集まりだ。

僕は1997年に約半年間、長期滞在したのを含め66年から前後8回もメダンを訪れている。メダンは19世紀の終わり頃、オランダがタバコ、ゴム。あぶらヤシのプランテーションを始めて急発展した町で比較的新しい。古い歴史的建造物もないし、風光明媚な場所でもない。それなのに僕がメダンに魅かれているのは、明治以後のこの町と日本との関係だ。

古い記録によると明治中期から大正の初めにかけてメダンには500人から600人の”唐ゆきさん”がいた。サンダカンなんかの比ではない。初期のオランダ植民地経営は家族連れが許されてなかったため、独身者が多かった。”唐ゆきさん”は彼らの現地妻やハウスキーパーであった。当時の植民地の現場を書いたオランダの作家のベストセラー「ラバー」(ゴム)にも、この”唐ゆきさん”や関係する日本人が大勢登場してくる。大正に入って”唐ゆきさん”は日本の恥じだということで廃止になったが、昭和の初期メダンを訪れた詩人の金子光晴は、かって”唐ゆきさん”がいた日本旅館に旅装をといている。

時代が移って戦争中にはここに近衛師団の歩兵三連隊の司令部が置かれた。昨日の集まりにも当時の兵隊さんが二人参加したが、話は紘原神社(ひろはら)になった。紘は当時の戦争スローガン「八紘一宇」の紘で、原はメダン(インドネシア語で原の意)からきている。当時オランダ軍の捕虜を使って建てた立派な神社だが、なんと当時の社務所の建物が今でも残っており、地元のお金持ち階級の高級クラブとして使われている。

戦後80年から90年にかけては、メダンは、アサハン・アルミ計画に従事する日本人の後方基地で、日本人学校も設置され、一時は百名を越す生徒もいた。しかし、計画が完了した今、メダンには百名前後の日本人しか滞在していない。日本人学校も10数年前閉鎖された。寂しい限りだが、やがてメダンに郷愁を感ずる日本人もいなくなろう。

(僕の別のブログ「1000都物語」(索引可能)で”こだわりのインドネシア45年”でメダン、北スマトラ、アチェの想い出を書いています)

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13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
バタックの歌声に感銘 (kitakasihmura)
2011-04-10 09:29:24
 昨日のメダン会に同席させていただいた元ジャカルタ駐在員(通算7年)です。早速、メダン会がアップロードされていることに驚嘆かつまことに嬉しい限りです。インドネシア第4位のメダン市で今現在、在留されている邦人が百人前後とは
・・・アサハン・プロジェクトを現地で見た者として寂しいですね。それにしても昨日、ラグラグ会と一緒に歌ったバタックの青年男女の歌は素晴らしかった。トバ湖の再緑化のため5月にチャリティーコンサートを開くプルマータ・サクラ(バッタク民族の会)にリソイ(乾杯)!老人タイムス、スマンガット(幸あれ)!
シンシンソン (kakek)
2011-04-10 12:08:22
kitakashimura さん
早速、コメント有難うございます。時代の流れとはいえ寂しいです。JICAのプロジェクトが減っているのが原因のようです。トバ湖畔で聞いたバタックのシンシンソンの合唱が忘れられません。元気があったらまたトバ粉へ行きたいと思っているのですが。
調べてみたい (chobimame)
2011-04-10 15:22:10
メダンのことは訪れたこともなく、まったく知識もありません。
しかし唐ゆきさんは知っています。
学生の頃に何冊か本を読んで衝撃を受けたことがあります。
なので当時の話をメダンの面影から探ってみたいような気持になります。
とても興味のあるお話です。
唐ゆきさん (kakek)
2011-04-10 17:47:31
chobimame さん
「明治40年代には蘭印(現インドシア)のスマトラ・メダンには五、六百名、ジャワのバタヴィア(ジャカルタ)百余名、スマラン六十余名、スラバヤ二百余名、遠くロンボク(バリ島の隣り島)には実に四、五百名の紅裾が活躍していた」(ジョホール河畔 岩田喜雄 南方録)アジア出版 1985年)ほとんどの女性は長崎からシンガポール経由で売られてきています。
歴史を感じます (現メダン日本人会理事長)
2011-12-09 00:11:25
通りがかりの者です。
現在、確かにメダンは邦人企業も数社しかなく、日本人も100名もおりません。以前の賑わいを知っておられる方には寂し限りかもしれませんが、少ないは少ないなりにそれなりに愉しく活動しております。そう、寂しがらないでください。
メダンには、インドネシアで最大の日系人社会があり3千人超の2~4世の方がおられますし、最近のインドネシアは、世界で日本語教育人口3番目と、とても日本語教育熱が高く、日本に関心をもった学生さんも沢山おられます。
そういう方々のお力を借りながら、メダンでの日本のプレゼンスを落とさない様に色々と努力しております。
下記は、先月あった北スマトラ大学の日本文化祭の盆踊りの様子です。ご参考までに。。。
http://www.youtube.com/watch?v=42F0YhdMMpg
http://www.youtube.com/watch?v=3eGtFvE0A1Q
微笑みで拝見 (kakek)
2011-12-09 18:14:34
メダン日本人会理事長さん
早速、youtube楽しく微笑みながら拝見しました。ジャカルタをはじめ東南アジア各地で盆踊りが日イ友好親善で催されているのは、知っていましたが、僅か百人ちょっとの在留邦人のメダンでは、関係者のご努力は大変ですね。
東京のメダン会は、10年ほど前までは姉妹都市の市川市も参加していましたが、やはり関係者の老齢化で今ひとつ盛り上がりがありません。僕は個人的に北スマトラ大学の講師だった「メダン史」の著者、トンクー・ルクマン・シナール(セルダンのサルタンの後裔)と親しくさせて貰っています。お会いする機会があったらよろしく。また浜田総領事にもよろしく伝えてください。小嶋元総領事の友人です。
メダン会についてお教え下さい (uchida)
2013-04-12 16:37:11
来月、メダンへ長崎の方の依頼で未帰還者を捜す旅をして参ります。
私の父もインドネシアで戦っておりますが、メダンには縁あって1回行っております。当時の日本人学校の校長先生の家に泊めて頂いたのです。(20年ほど前です)
さて、メダン会というものがある事を先日バリ島日本人会事務局からの連絡で初めて知りました。
どのような活動をされていますか? また未帰還者についてお調べ頂くことが可能でしょうか。
尚、メダン福祉の友の会には名簿記載があり、昭和30年くらいまでご存命との事です。それ以降の足取りが掴めず捜しております。(捜しているのは兄弟の方です)
メダン会の消息 (kakek)
2013-04-13 09:29:51
uchids  さん
残念ながらメダン会は会長の渡辺さん(戦前メダン生まれ85歳)が高齢のため開店休業です。僕は1998年の長期滞在を含めメダンには8回旅行しています。とくに戦後北スマトラに残留した人たちの消息は、大概わかります。
福祉友の会の亡くなられた乙戸さんとも親しくさせていただきました。たまたまuchida さんというお名前からメダンの福祉友の会にはいっていなかった内田さんの事を思い出しました。
なお、20年前お泊りになった日本人学校の校長先生
と思われる方は健在で連絡がつくと思います。
メダンのタイトルに惹かれて (911luca)
2013-05-08 01:22:22
初コメ、失礼いたします。
メダンのタイトル(&”唐ゆきさん”)に惹かれて、本プログへ投稿させていただきます。

本年の3月に死去した母の部屋から、1925年時のスマトラ島、メダンと想しき写真のあるアルバムを発見しました。
スマトラ島生まれの父が戦後日本に引き揚げて来て(オーストラリアの収容所に居たそうだ)1947年に母と結婚(日本国籍取得はその6年後となる)GHQに勤務した母が労して厚生庁を介してスマトラ島でヘービング姓で暮らしていた日本出身らしい父の母の出生に係わる長崎の家系からの戸籍編入を遂げ、母国で暮らす人となったそうだ。。

生前の母よりわずかに聞かされた、メダン出の父親(ピーター・ヘービング)と母親(トシ,1957年単独日本に連れて来て3年後に81才で死亡)の話などの記憶より、僕の家系のルーツを知るべしっと思ふうち、本「老人タイムス私説」なるブログを知りました。
僕の亡き父母と同世代の執筆者の様々な思考の綴る興味深い内容とインドネシアに関わる広い噌旨に惹かれるところ多く、また その界隈の活動「メダン会」など更に検分もしてみたいと思いました。49日の法要を済ませたところなのでこれから寫眞の整理ファイリングをして行こうと.. .. ..

未知の者のブログへの投稿、大変失礼しました。
今後もインドネシアに関連することなど挙げていただけたら幸甚であります。
宜しくお願いいたします。啓白
協力出来れば (kakek)
2013-05-08 09:46:52
911uca さん
小ブログお立ち寄りくだされ有難うございます。戦争を挟んでご苦労されたご先祖の事が拝察できます。メダン会会長の渡辺千鶴子さん(1927年メダン生まれ)は、高齢で今年は会が開催できるかどうか不明です。渡辺さんの御親戚にもオランダ名の方がおります。
戦争勃発とともに当時蘭印滞在の日本人は逮捕され、オーストラリア西部砂漠地帯のLoveday の収容所に敗戦まで収容さました。昭和21年に高栄丸という引揚船で帰国しています。
戦後も混乱の時代、苦労されています。関係者が高齢化していますが、私が協力できる話があれば、どうぞご連絡ください。

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