産経新聞掲載の石原慎太郎氏のコラム「日本よ」(12月19日首都圏版1面)を読んだが論理が判らない。僕がボケた証拠かもしれないが紹介してみよう。石原氏の論理は”下司なメディアが象徴する現代社会にあって、人間として最高の美徳「自己犠牲」を求めるのは砂漠において針を求めるように難しいが、、今年大リーグから古巣の広島カープスに戻って優勝に貢献した黒田は、それを身をもって示した”と称賛、推挙している。黒田博樹投手の大活躍は僕も認めるが、人間として最高な美徳「自己犠牲」の実行者となるとちょっと大げさすぎるのではー。
石原慎太郎氏の言う「自己犠牲」とは、昭和45年、作家三島由紀夫が防衛庁内で自刃する前、石原氏が三島氏との対談で二人が男の最高の美徳として認めあった共通な考え方だという。二人は対談の前に、たがいに入れ札をしたら、二人ともそれは「自己犠牲」であったという。その「自己犠牲」と黒田投手とどう関係があるのか。黒田投手の大リーグからの広島への復帰は、野球人生の最後を華やかに古巣で飾りたいという男の美学だと思うのだが。
今年の重大ニュースの一つには、東京都の舛添前知事から小池知事への一連の騒ぎがあげられるが、その第なん場、第なん幕かの「豊洲市場盛土の場」には石原慎太郎氏は脇役として登場してくる。かっては主役として一世を風靡した石原氏だが、老いぼれた脇役として、僕の目には“憐れ”に映った。人生、最高の美徳が「自己犠牲」ならば、晩年もそれに徹し、世間をあまり騒がさないほうがよいのではと、同じ老人の僕は思うのだが。
石原慎太郎氏の言う「自己犠牲」とは、昭和45年、作家三島由紀夫が防衛庁内で自刃する前、石原氏が三島氏との対談で二人が男の最高の美徳として認めあった共通な考え方だという。二人は対談の前に、たがいに入れ札をしたら、二人ともそれは「自己犠牲」であったという。その「自己犠牲」と黒田投手とどう関係があるのか。黒田投手の大リーグからの広島への復帰は、野球人生の最後を華やかに古巣で飾りたいという男の美学だと思うのだが。
今年の重大ニュースの一つには、東京都の舛添前知事から小池知事への一連の騒ぎがあげられるが、その第なん場、第なん幕かの「豊洲市場盛土の場」には石原慎太郎氏は脇役として登場してくる。かっては主役として一世を風靡した石原氏だが、老いぼれた脇役として、僕の目には“憐れ”に映った。人生、最高の美徳が「自己犠牲」ならば、晩年もそれに徹し、世間をあまり騒がさないほうがよいのではと、同じ老人の僕は思うのだが。
あるのは特攻隊や兵隊だけです。
あとは、忠臣蔵だろうが、三島由紀夫だろうが、男の美学と称するエゴだと思います。
石原さんは、武士道などを言いたいのでしょうか?
今のダレきった社会をみると、言いたい事はわからなくもありませんが、
だったら石原さんは、誰に忠義を尽くし、何に自己犠牲を払ったのでしょうか?
何もせずに吠えているだけなら醜悪なだけです。
人それぞれ人生観は異なるし”、終活”についての考え方も違います。何故か日本では三島文学に対する評価は高いですが、彼の死にざまは、評価できません。自己犠牲というが、彼の自刃によって何かプラスになったものはあっただろうか。石原氏もしかりです。すこし時代がっかっていると思います。
”女の厚化粧”発言しかり。自己犠牲とは、離れすぎています。”終活”は難しいものです。
小池知事からの当時の豊洲新市場関連の事実に関する問い合わせに対しても「自分は全く知らなかった」「覚えていない」「俺も被害者だ」と、自己犠牲の片鱗のかけらもない逃げの姿勢に徹しています。
むしろ、
自己犠牲の美学とは正反対の卑怯未練、無責任の権化といった正体を露わにした感が強く、まさしく、
小池都知事ではないが「晩節を汚している」という見本のような人物に成り下がったと感じます。
石原さんがヨボヨボ姿でジョギングしながら、マスコミに対応している姿を何回もテレビの画面で見ましたが、彼には悪いが憐れを感じました。政治家にも賞味期限がありますね。周囲の人たちまで影響します。