亡父の日記によると、昭和21年(1946年)夏は"餓死”寸前、進駐軍司令部(GHQ)の”お助け米"でやっと生き延びえた日々であった。7月、8月の日記の補遺欄には”毎日、三度の食事に口にするのはGHQの”お助け米”だけ、内地のものは一粒”もない。”お助け米”がなければ、餓死したのではないかと慄(りつ)然とすると、同じようなことを書いてある。8月配給になったのは、ソーセージ1ポンド、アップルジュース,小麦粉4キロ、玉蜀黍粉3キロで、主食の米の配給はは一回もなかった。
当時、父は61歳だったが、若いころには18貫(67キロ)あった体重が12貫に減り、栄養不足から神経衰弱気味だと日記の隅々に書いている。僕は15歳の育ち盛り、栄養不足と関係あるかどうか不明だが、国立病院で鼻の手術をしている。一番大変だったのは、母であったと思う。三日に明けず、電車に乗って近郊の農家に野菜の買い出しに行き,時には箪笥の奥から自分の着物を持ち出し、いざという時の備蓄米を買っていた。
東京ではどこの家庭も粉食が中心で、ニクロム線を買ってきて即席のパン焼き器をつくり、重曹を入れて膨らましパンを作った。亡父の8月29日の日記には”終日、米、麦、小麦粉なく三食とも玉蜀黍粉が主食とある。都市ガスもなく、薪割りが日課だった当時から73年経っても昨日のように過酷な日々が想い出される。
この映画は、淡々と1人の女性の日常が描かれていているだけなのですが、胸に迫るものがありました。
その話の中に、戦後の配給がない日に闇市で米軍の残飯を煮たものに美味しいと感嘆する場面がありました。ラッキーストライクの包装紙が一緒に煮込まれいました。今なら誰も食べません。
戦争は酷いなとつくづく思いましたが、同時に人は力強いとも思いました。
食べるものがついになくなり、衾だけの日もありました。芋の芋茎まで食べました。戦争は撃ちあいだけではないのを後世に伝えたいです。73回目の原爆忌がやってきます。