「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

101歳 長田周子さんのスマトラ軍政秘録

2016-08-20 05:37:56 | 2012・1・1
先日、朝日新聞の”幻の「スマトラ新聞」の記事に関連して小ブログが一文を書いたところ、ジャカルタ在住の女医、サルミヤ.ウスマン博士から、日本軍政初期、博士の父親、マジッド.ウスマン氏(故人)が経営していた、インドネシア紙(「Padan Nippo」)についての貴重な資料を頂戴した。博士の母親,長田周子さんは、日本人で101歳でご健在、今なお、博士と一緒にジャカルタで暮らされている。資料は長田周子さんが、すでに上梓した秘録(未発表)によるものだ。

「Padan Nippo」 は昭和18年6月、「スマトラ新聞」創刊と同時に、マジッド.ウスマン氏が所有していた、インドネシア語の新聞‘ラジオ新聞」を改題して発足、マジッド氏は主幹として健筆をふるっていたが、和蘭時代の年金が日本軍政下、未払いになっている問題を社説で取り上げたところ、第25軍軍政監部の矢野兼二市政長官からクレームがついた。これがきっかけでマジッド氏は「Padan Nippo」を退いた。

サルミヤ博士のご両親のインドネシア独立期の数奇な半生については、小ブログ(2011年6月19日―21日)に3回にわたって書いているが、父親のマジッド氏は”ジャワのスカルノ、スマトラのウスマン”(第25軍史「富の歩み」)と呼ばれたほど有名な独立運動の志士であった。しかし、インドネシアの独立を認めぬとした大本営の「大東亜政略指導大綱」(昭和18年3月)の大波に揺さぶられ吞みこまれてしまった。

長田周子さんの秘録には、二人が戦前東京で、学生運動を通じて結婚、マジッド氏の故郷に帰り、戦争に巻き込まれて和蘭に逮捕されて投獄され、日本軍の上陸によって解放された体験。その後、故郷のスマトラに進駐してきた第25軍の軍政顧問として協力したが、「大東亜政略指導大綱」によって、マジッド氏の考え方が日本の政策に悖るとして、日本に”追放”された経緯などが記されている。インドネシア語で書かれた秘録を現在、サルミヤ博士が日本語に翻訳中とのことである。


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