大阪の86歳のおばあちゃんから礼状が届いた。先日彼女からジャワ地震の
義援金をインドネシア大使館へ届けてくれ、と依頼があった。彼女の
亡くなったご主人が関西の日イ友好団体関係者だったので、挨拶かたがた
大使館へ届けてきた、その礼状である。
礼状に同封して一枚の新聞コピーがあった。戦争中フィリピンの戦争に
まきこまれた彼女自身の体験を紹介している記事である。昭和19年9月、
ジャワへ軍属として赴任途中、彼女が乗っていた瑞穂丸が潜水艦の攻撃を
受けて沈没、6,000人の乗客のうち半数が亡くなった。
幸い彼女は僚船に救助されてマニラへ運ばれたが、まもなく連合軍の再上陸
に遭遇、こんどはアシン峡谷地帯の山中を仲間の女性十人とともに昆虫
やアブラムシを食べ、病魔と闘いながら敗戦までさまよった。
彼女はこの記録を「生きる限りルソンへ」という題の私家本として数年前
出版したが、部数に制限があってすぐ絶版になった。ところが、これを
読んだ僕の知人が感激して自費でこれを再版、まわりまわってその一冊が僕の
手元にある。あの時代を生きた当時20代の大和撫子の心を打つ記録である。
義援金をインドネシア大使館へ届けてくれ、と依頼があった。彼女の
亡くなったご主人が関西の日イ友好団体関係者だったので、挨拶かたがた
大使館へ届けてきた、その礼状である。
礼状に同封して一枚の新聞コピーがあった。戦争中フィリピンの戦争に
まきこまれた彼女自身の体験を紹介している記事である。昭和19年9月、
ジャワへ軍属として赴任途中、彼女が乗っていた瑞穂丸が潜水艦の攻撃を
受けて沈没、6,000人の乗客のうち半数が亡くなった。
幸い彼女は僚船に救助されてマニラへ運ばれたが、まもなく連合軍の再上陸
に遭遇、こんどはアシン峡谷地帯の山中を仲間の女性十人とともに昆虫
やアブラムシを食べ、病魔と闘いながら敗戦までさまよった。
彼女はこの記録を「生きる限りルソンへ」という題の私家本として数年前
出版したが、部数に制限があってすぐ絶版になった。ところが、これを
読んだ僕の知人が感激して自費でこれを再版、まわりまわってその一冊が僕の
手元にある。あの時代を生きた当時20代の大和撫子の心を打つ記録である。