堕ちた天使 さんより転載です。
請西藩は1万石の小藩ではあるが、林家当主は正月元旦に、江戸城内で将軍から最初に杯と兎(うさぎ)の吸い物を賜 る栄誉に浴する。林家の祖が、戦(いくさ)に敗れ流浪していた徳川家の遠祖を匿った際、貧しくて十分なもてなしができなかった事(こと)から冬の寒中、猟 に出てようやく射止めた兎を吸い物にして饗応(きょうおう)した故事に因(ちな)んでいる。青年大名・忠崇の脳裏には、この故事がうっとりするほどの誇りとなって刻まれていたに違いない。
大政が奉還(1867年)され、時あたかも風雲急を告げていた。藩論は抗戦・恭順両派に分かれ伯仲した。そうした 中、旧幕臣の一軍が合力(ごうりき)を頼みに来るや、藩主自らが藩士70人と共(とも)に脱藩を図り合流した。再び自藩に戻らぬ覚悟で、陣屋を焼き払っての出陣だった。新政府は林家を改易した。
歌には、新政府軍の手先となり、旧幕府軍追討に加担した紀州・尾州・彦根など御三家や譜代筆頭に対する侮蔑と怒り が込められている。忠崇の凄烈でいて廉潔な男振り・武者振りには惚(ほ)れ惚(ぼ)れする。「主権国家の一分」を貫いたパラオにも、同じ爽快(そうかい) さを感じてしまう。
パラオ警察は3月末、自国の鮫(さめ)保護海域で違法操業中の中国漁船を発見し、警告射撃を実施。ところが、不敵にも警告を無視して、漁船から小型艇2隻を降ろして操業を続けようとした。このため、パラオ警察艇が小型艇を追跡、強制停船に向けエンジンを狙い射撃した。その際、中国人1人が被弾し死亡。小型艇に乗っていた残り5人を逮捕したものの、他の20人は証拠隠滅のため、漁船に放火して海に飛び込んだ。最終的には死亡した1人を除き、25人全員が「御用」となった。
小欄は、パラオ政府の決然とした姿勢とは対照的な卑怯(ひきょう)・卑劣な政府を知っている。尖閣諸島近くで領海 侵犯し、あまつさえ海上保安庁の艦船に体当たりまでしてのけた、工作船の可能性すら疑われる漁船の船長を、民主党政府は一地方検事の判断だと、責任をなすりつけた揚げ句釈放。しかも、船長を迎えに来日した中国政府高官のために深夜、石垣空港を開港させる媚(こび)まで振りまいた。
ところで、中国政府では隣国ミクロネシア連邦の大使館から外交官を派遣し、事件の調査を始めた。パラオは台湾を国 家として遇し、外交関係を保つ23カ国の1国で、中国を正統国家として認めていない。従って、大使館を置くミクロネシアの外交官が、特別の手続きを踏んだ 上で入国した。中国を国家と認めぬパラオの姿勢に加え、パラオを取り巻く情勢を考慮すると、日本の卑屈は一層悪臭を放つ。
前述したミクロネシアのヤップ島から米軍事拠点グアムまではわずか700キロ。中国軍は将来、水上艦や潜水艦の補 給基地として、ヤップ島など太平洋島嶼国家を活用する戦略を真剣に描く。台湾や朝鮮半島で危機・戦争が勃発(ぼっぱつ)した際、この海域で米海軍空母打撃 群の西進を阻止する狙いからだ。既にトンガ/フィジー/パプアニューギニアに軍需関連物資を提供し、軍人同士も交流させている。
孤立しつつあるパラオを、中国はどの様に苛(さいな)むだろうか。忠崇の場合、諸侯出身なのに新政府は華族に叙していない。開拓農民や下級官吏、商家の番頭など一介の士族として困窮生活を強いられた。諸侯なら子爵以上だが、1階級低い男爵に列せられたのは、ようやく明 治26(1893)年になってから。中国の陰湿さは新政府のレベルではあるまい。