箴言集 「人格をつくる言葉」 大川隆法 著
「人格をつくる言葉」㊳ 罪の赦しが、愛の実践なのだ。
コメント
以下をネットで見つけました。
新聞紙面でこんな文章を見つけた。
「ゆるす」という言葉は、漢字では「許」と「赦」の二つがあてられる。前者は許可する意で、後者は本来許可できない悪いことをした相手をせめないことだ。
水に流す、忘れるということではない。私を傷つけたあなたを人間として受け入れるから、あなたも同じ人間として私の痛みを知って二度と痛みを経験する人が出ない未来を一緒に作ってくれ、という相手への突き付けにも似た、最後の祈りなのです。
水に流す、忘れるということではない。私を傷つけたあなたを人間として受け入れるから、あなたも同じ人間として私の痛みを知って二度と痛みを経験する人が出ない未来を一緒に作ってくれ、という相手への突き付けにも似た、最後の祈りなのです。
肉体に宿った魂は、肉体の要求に負けて他人の欲を妨害した時に罪となるのであろう。
ゆえに、誰でも罪を犯すのであるから、その罪を赦そうになるのであろう。
しかし、互いに節度を守り社会を作っているのに、犯罪を犯す人を赦せないことがふつうであり、さらなる犯罪の発生を防ぐためには、罪の償いを要求するのであろう。それが安全な社会なのである。
肉体の要求に負けた魂は許そうではないか。でなければ、自分に同じことが降りかかるのである。
罪を犯して、悔い改めている人を赦すことは簡単であろうが、悔い改めがない人を赦せるかです。
それでも、赦せとは、魂の尊厳を互いに認め合う愛の行為になるのでしょうね。