すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

いじめの特番

2006-11-13 22:42:10 | ひとりごと

先週、心の病を持つ団塊ジュニアの女性と、
歌の歌詞を集めた本を読みながら会話をした。

【若者たち】という歌の歌詞の、
「歯を食いしばり君は行くのかそんなにしてまで」とか、
【送る言葉】の
「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうがいい」
「求めないで優しさなんか、臆病者のいいわけだから」
とかは、なんだか苦しいよね、と。

「でも、私たちは、こういう生き方をしないといけない、って、
教えられて素直に生きてきた気がするな。
でも、その結果がこの病気だもんね・・・。
今はこんな生き方がすべてじゃないって思えますけどね」

彼女がそう呟いたとき、
私は、ふっと、
自分の小学校の校訓となっていた、
「他人にやさしく 自分に厳しく」
を思い出した。
この言葉も、“苦しい”の仲間だ。
小学生だったあの頃、私は、すでに違和感を感じいていた。
自分に優しく、はだめなの?
他人に厳しく、も時にはあるでしょ、と。
(それを先生にはもちろん言えなかったけど・・・)

女性と会話をして数日だった先週土曜日、
フジテレビで放映していた「いじめの特番」を見た。
司馬遼太郎が小学生の国語の教科書用に書いたという
【二十一世紀を生きる君たちへ】という文章が紹介されていて、
その中にも
「他人にやさしく 自分に厳しく(逆かも)」
というフレーズがあって、
あら~、と思った。天下の司馬先生もそうくるのね。

番組では、小学生のときにこの教科書での授業を受け、
今は成人した男性のインタビューがあって、
「今思うと、優しさっていっても、
時には怒ることも優しさなわけだから、
そう考えると、何が優しさなのかわからないですよね」
というようなことを発言していた。

素直な意見だと思った。
そうなのだ。
他人にやさしく、
というのは実にあいまいで、
大人になれば、例えば、
「お年寄り席をゆずる」的な優しさだけが、
優しさじゃないことに気づいたりして、
そのさじ加減が難しかったりする。

今になって思うのは、
「自分にも他人にも、時に優しく、時に厳しく」
が本当だし、
この言い方のすわりが悪ければ、
「自分にも、他人にも、愛情をもつ」
と言うほうが胸にすっと降りる。
愛情は、とりもなおさず、
優しさであり、厳しさでもあるから。

揚げ足取りになってしまうかもしれないが、
「相手には優しく」が時に依存を生んだり、
「自分には厳しく」が時に自分を燃え尽き状態に陥れたりする。

言い切り型の言葉は聞いていて気持ちがいい。
だから、心に残ってなかなか抜けない。
親や先生に刷り込まれた“正しさ”が、
大人になってからも人を苦しめることは多かったりする。

あと、番組のなかで、
どこかの家族の家訓として紹介されていた
「働かざるもの食うべからず」というのも気になった。
古くから伝わる教えではあるけれども、
これもなかなかどうして。
この言葉を聞いて、
身につまされる思いをした人は、大勢いただろう。
言葉の意味を表面的にとれば、
これもずいぶん残酷な表現だ。

「他人にやさしく 自分に厳しく」も、
「働かざるもの食うべからず」も、
目くじらを立てるほどの話ではないのかもしれないが、
自分に厳しくしすぎた結果、病気になってしまった人、
働くことのできない現実に後ろめたさを感じている人。
そんな人々と日々関わっている者としては、
どうしてもこだわりたくなってしまう。



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