すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

改めて、許すこと。

2016-04-06 07:51:01 | ひとりごと
前回紹介したウ・ジョーティカ師の書簡集「許すこと」を何度か読み返して、私なりにこんなことを考えました。

マインドフルを心掛ける時、自分を傷つける人や嫌な気分にさせる人、その人の言葉や行動に対して、人の意識は、こんな風に変化・成長していくんじゃないか、と。

反応する
(責める、仕返しする、怒る、自分を責める等)


離れる


構わない


許す


まずは、「反応する」。怒る、責める等は、いたって普通の反応。負の意味において、相手や相手の言葉、行動に積極的に関わっていく姿勢です。

自分の心には1番負荷の高い意識の状態ですが、無意識に反応し続けると、中々そこから抜け出せません。


そして「離れる」。相手や出来事から自分の心を離していくという意識。避ける、関わらないとも言えます。「嫌いな人とは距離を置きましょう」というフレーズは心理学の本でもよく出てきます。

ただし、距離を置く、避ける、という意識は、その相手や出来事がどうでもよくなったというわけではありません。嫌な人や嫌な環境から逃げ続けることを余儀なくされることもあります。


さらに「構わない」。これが、今、私が一番目指しているというか、気に入っている意識のあり方です。

自分を傷つける人、不機嫌な人、苦手な人、のその言動や態度には構わない。これは、関わらないというのと近いのですが、関わらないのが視界に入れない、そっぽを向くというイメージなのに対して、関わりはあっても、視界に入っても、こだわらない、自分の心にダメージを与えさせない、というイメージです。


最後の「許す」は、自分を傷つけた相手を理解して、慈愛を向け、共感するということを含みます。最初の反応が、負の関わりだとすると、こちらは正の関わりです。相手や内容によっては、簡単にできる場合もありますが、多くの場合は、最難関の道です。


これらの、意識のあり方は、相手や出来事によっても変わりますから、優劣を一概に言えるものではありません。

例えば、誰かにいじめられたら、まずは怒ることが必要な場合もありますし、何より関わらないことが最良な選択の場合もあります。

自分を誤魔化して許すふりをするくらいなら、反応する自分に素直になり、思い切って反論した方がずっといい場面だってあるわけです。


ただ、大ざっぱな言い方をすれば、下の意識に向かえば向かうほど、下の意識が自然になればなるほど、もう誰かに簡単に傷つけられる、傷つけさせる自分ではなくなっているということです。

自分の価値が、他人の言動に左右されない状態、他人に自分の心の平和を奪われない状態です。まさに自由の境地です。


🔸🔸🔸

ところで、
5年ほど前に、私、こんなブログ「許すとか、許さないとか」を書いていました。

結婚してから何年目かの、夫婦の危機があり、「許すこと」が、私にとって、大きなテーマになっていた頃です。

夫がしたことによって、私は傷ついた、傷つけられた、私は被害者なんだ、と大騒ぎしました。反応しまくりました。夫を責めて、責めて、責め倒しました。

夫がしたことは褒められたことではないけれど、世の中には、多分、同じようなことが起きても、それほど反応しない妻だったり、傷つけらたと思わない妻も一定数いるんだろうな、と今になるとわかります。

それなら、私と、その妻と何が違うか。それは、夫のしたことと自分の価値を結びつけるかつけないか、だと思うのです。自分を被害者にするか、しないか、だと思うのです。

もちろん、ある出来事には反応しない人でも、別な出来事になると多いに反応する、ということは普通にありうることだと思いますけどね。


そして、自分の文章を読み返して、はたと考えました。

今なら、今の私ならどうするだろう、夫が同じことをしたらどうするだろう。

まあ、その場にならないとわかりませんが、夫を責めたり、夫に呆れたりはしても、恐らく、私自身、昔みたいな傷つき方はしないだろうな、被害者にもならないだろうな、というのは感じます。

何故か。

それは、夫を含めて、他者の言動は自分の心に致命的な傷を与えられない、と少しは思えるほどに、私の心が強く、しなやかに、変化したからだと思うのです。この変化は、私の5年間の成長です。

この自分の心の変化を辿るとき、許すこと、の本質は、行為ではなくて、あり方なのかもしれないな、としみじみ思うのです。

自分の心を自分で守ることができる人、自分の心の平和を他者の言動に委ねない人は、他者に対して許すことを意識しなくても、すでに許している、許せる人なんですね。


ウ・ジョーティカ師は、「許すこと」の最後の方で、こう書いています。

私は、誰についても、もう許す必要もありません。私はオーケーということができる。

許す必要もないほど、すでに許しているということですね。師の心の境地です。


この人生の中で、とても、そんな境地にまでは辿りつけませんが、少しずつ、一歩ずつ、目指していけたらいいな。これが、私のマインドフルネス道でもあります。








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