「政治職と執行職では(責任の)レベル、次元が違う」
こんなことをソフィストの言として、何十年か前には謗っていたと想像がつく人の言。
責任のあり方でもとり方でもなく、レベル、次元と報道されるように発言し、それが(責任の)とカッコ書きで出てくる。
そのカッコ書きをいつ誰が入れたのかもわからない。
唄声が聴こえてくる Smoke Gets In Your Eyes.
毒が集積しては具合が悪いが、読の集積はいずれ何かの役に立つ。
表題を集積読書としなかったのは、読書は書だけではなく、イメージを読む機会が増えてきたからである。
小説を読む人の多くは減点法によっていると貫井徳郎が雑誌の対談で言っていた。
そうか、減点法をとらなければ、もっと読む楽しみが増えるのだ。
わざわざ「訳あり」と名乗って客を呼び寄せる手がある。
「あぶない刑事」「怪しい三兄弟」「不運の方程式」などの題名も似たようなものだ。
訳ありリンゴというのがあって、枝すれによるキズ、日焼け、サビ、色ムラ、ひょう害、軸割れとその訳が並んでビラに書いてある。
「いわくリンゴ・セクステット」だ。
一つひとつの訳を順に見ていく。なかにこれはなんだろうというのがあった。
「サビ」である。
たずねてみると、「サビ」は、世界的にも最も生産量の多い品種の「ふじ」がいちばんかかりやすい病害とのことだった。
ケロイド状のサビが出て、ひどくなると全面に広がってしまう。毎年同じ枝に発生し、次第に他の枝にも拡大していくという。
原因がよくわからず、かかれば治らない。かかった太枝を切り落とすとほかの枝に転移することもあって始末が悪いらしい。
ちょっとしたキズぐらいの訳ならよいが、木の病いという難病もあるから、「訳あり」を逆手に取るのにも、いろいろ苦労があるものと思う。
リンゴ屋さん、ごくろうさま。
有言実行などと、中学生のクラブ活動のようなキャッチフレーズをばら撒いておきながら、その実は幽言先送、とにかく何でも先送りにしてしまう人がいる。
そういう人が要職に就いている組織に属する人々はまことに不幸である。
言葉が肝心なときに出ず、ほかの動作で間に合わしてしまうことはままある。
手まね、目配せでも、通じるときもあるのだが。
車をいったん停止して横断を譲るとき、プップーとクラクションを鳴らす人もいる。
「さっさと渡れ」と言われているようで有難くない。
この方法は、眼の不自由な人には通じない。危ないぞという警笛にも聞こえる。
窓を開けて「お先にどうぞ、渡ってください」とのひと言が出てこないのである。
車というものは、車内外を遮断してしまう。
車の運転中は、外の人とかかわりたくなくなる。
自分のリズムに合わない者はみなバカヤローに見えてくる。たびたびそう叫びながら運転する人もいる。
降りれば人が変わる。乗るとまた変わる。
自動ブレーキよりも、運転者の心を和ませるような装置を積んでいるのがこれからの新しい車なのではないか。
エゴからエコへ、エコから笑みへ、まだまだ車の開発のタネは尽きない。
時期はずれの写真を引きずり出す。
ロッテの優勝を決めた岡田選手が、栃木のさくらの人、とラジオ放送で聴いた。
え、佐倉は千葉ではないか、佐倉~千葉~長嶋~千葉~佐倉と疑問のイメージが繋がっては消えていく。
そのあと、追いかけるように高根沢町の出身とアナウンス。
どうしたことか、こういうときに Google地図はまことに便利。
栃木県にもさくら市があり、高根沢町はその南隣とすぐにわかった。
どうでもよいことなのだが、なぜ「さくら」とわざわざ放送原稿に書いて言わせたのか。
岡田選手の出身校作新学院と引っ掛けたのでもなさそうだが。
気にしなくてもよいことが気になる。これは認知症の初期症状だろうか。
水に流す、どちらかと言えば心が広いようにも聞こえるが、度重なれば何かにつけていい加減にも聞こえる。
とかく水の上で起こったことは水に流れやすい。
どういう状態であったかをとらえるには、録画があればそれがいちばん。
そのいちばん確かな情報を、とっておきのものとして重宝がるあまりに隠しても置きたがる。
情報を持っていることが武器になると思っていると、有効なときに出しそびれ、持って隠して置くにつれ価値の下がることもある。
もったいをつけて、ぐずぐずしているうちに、だれかが痺れを切らせて流出させる。
皆でいつ見るか、どこで見るかと悩んでいたことが、まったくの時間のむだ使いということになる。
誰でもが見られるようになってしまうと、こんどはどうして出てきたと騒いでみせる。
流れたと思ってもらえればおめでたいことだが、流したと言われれば怒って見せなければすまなくなる。
削除命令など出したころにはとうに削除されている。
命令も削除実行も、カッコツケだけの効果しかない。
心ある人は、そのころには映像も音声も自分で保存している。
見ることが、ことの本質を見極めるのにどれほどだいじかがわかる。
映像を見れば、ヤンチャな船長の思いつきのいたずらではなく、やらせられていることがよくわかる。
だいじなことを水に流し続けていると、日本の国もまもなくどこかに流れていってしまう。永田町の皆さんには、へらへらしていてもらっては困るのだ。
ふわふわした菓子がおやつに出てきた。
食べるときに挟んだり包んだりはときどきしてみるが、はじめから挟まっているのはあまり好かない。
挟んでいるほうか、挟まれているほうか、どちらかの味にごまかしがあるような気がするから。こういう形の菓子でこれは美味いというものに、めぐり会ったことがまだない。
品名はブッセ、フランス語で bouchee は、ひとくちで食べられるような小さな菓子のことらしいが、このブッセはとてもひとくちというわけにはいかない。
1字違いで boucher という口をふさいでしまう意味の言葉がある。こちらのほうが当たっていそうである。
カール・ヘルマン・ブッセというドイツの作家がいた。
聞いたような名だと思ったら、ヘルマン・ヘッセの詩を好み、詩集の編集などをしていた人だという。
よく知られているのは、上田敏が訳した「山のあなた(Uber den Bergen)」、国語の教科書にも載り、3代目圓歌の噺でまた有名になった。
http://www.youtube.com/watch?v=bcXm_llPIvU
どこか雲のかなたで、うん、これならというブッセを、ゆっくり楽しみながら食べてみたい。
夢に出てきたことを忘れないうちにとメモしてある。
半年ぐらい前だろうか、こんな夢を見た、とメモが残っている。
散歩していると2匹のプードルがあらわれた。
茶色の毛並みが、TVに連れて出てきた女優のペットに似ている。
畠の道で犬と話す。
話し相手は1匹、もう1匹はいつのまにかいなくなっている。
話は母犬のこと、涙が潤んでいるのを見た。
犬の夢のメモから、知人の家で仲良くなった犬を思い出した。
プードルとは違う大型犬、色は艶のよい茶。
こちらの言うことは聞き分けるようになっていた。
もう1年以上も会っていないが、元気だろうか。
宅配便は、小さめの物を送るときには料金がちょっと高いと思う。
郵便なみの大きさのものを扱うメール便というのがあって、電車の最短距離片道運賃ぐらいの送料だから、小物の通販購入にはありがたい。
そのメール便に、さらに付加注文する人が現れた。
メール便の配達は、新聞や普通郵便と同じように郵便受けまでということになっている。
それが届いたら、eメールで知らせてくれるサービスはないのかというご注文である。
福祉温浴に浸り続けていると、郵便受けまで行くのも億劫になるらしい。
宅配便には「e-メールお知らせするサービス」というのがある。それは「お荷物のお届けが完了したことを、ご依頼主様にeメールでお知らせいたします」というものである。
メール便が郵便受けに入っているうちは「お届けが完了」していないのだから、eメール通知は出せないという道理には気付かない。
宅配便とメール便の料金を比べてみれば、そこまでの要求は、普通ならずうずうしいと思うのだが、欲望細胞が卓抜増殖すると、こういう欲求も自然に湧いてくるらしい。
コスト感覚のしびれた人にとって、カウチ・ウエイティングを実現する方法もないわけではない。
1.ときどき郵便受けを見に行く人を雇う。
2.ときどき郵便受けを見に行くロボットを置く。
3.郵便受けにブザー釦をつけ、「入れたら押してください」と書いておく。押してもらえないリスクもある。
4.メール便でなく宅配便を指定する。ただし玄関までは行かなければならない。
3.4.は1.2.との組み合わせもある。
さすがの不精人も、ときには暇をもてあますことがあるはず。郵便受けまで歩くのが面倒と言いながら、そのときは電動ウォーカーやサイクルマシンで汗を流しているのではないだろうか。
ブログに載った写真から、ものがたりの聴こえてくることがある。
雨に濡れた地面、それを泣き顔に観た方がおられた。
目で見るのでなく、眼で観なければそういう発見はできない。
http://trackback.blogsys.jp/livedoor/yamato_onoko/52703818
このBGMがまたよい。「ああこれか」で切らずに、じっと終いまで、音が絶えるまで聴く。
半世紀、いや、もっと前まで、とろけかけたあたまを連れ戻してくれる。
にじると書いたが、煮汁の話ではない、膝をにじり寄せる、その姿態の話である。
電車の空席に坐るとき、ガラガラにあいている場合でも、混んできたときに皆が坐りやすいようにきちんと腰を下ろす人と、広いんだからどこでもと、身を投げ出すように坐る人がいる。
通勤慣れした人には前者が多く、ふだん電車で出かけない気ままなお嬢様には後者が多い。
多少カッコつけて膝を斜めに坐り、ケータイを取り出してメールか Web の記事を読んでいる。
ほかの人が乗ってきて右隣に坐る。
左側に隙間があるのに腰を浮かして左に寄ろうとはしない。
太ももの下側を支点に尻だけを左に寄せる。まだ右側は窮屈、仕方なげに太ももを浮かせて左に寄せる。どうしても足の位置は変えたくないらしい。
足を先にずらせてちょっと腰を浮かせ、サッと左に寄ればなんということはないのにそれをしない。
にじり寄りの好きな人は、きっと何をしても腰が重く、一緒に生活する人にいらいらのタネをこしらえて差し上げるのがうまいのではないかと思う。
「消しポン」と名づけられた印刷機がある。
言葉と実態をピタッと合わせない。これも一つの強調方法。
「ヤバイ」と言いながら味が気に入ってパクついている、あの感覚に似ているか。
住所氏名が印刷されて来た封筒は、ゴミ袋用にリサイクルするにもそのままでは嫌なので、マジックインクで消していた。その消し方では、斜めにすかしてみると元の印刷文字がまだ読み取れる。
ダーマトグラフなら消え具合はよいが、ゴシゴシ塗りつけている自分のさまが、狂態のように思えてきて、あまり気分がよくない。
知人の人形作品の展示会に招かれて行ったら、お土産に「消しポンよ」と至極簡単な説明付きで頂戴したのがこれである。
しばらくお江戸から遠のいて、伊東屋の冷やかしにも行ってないので、新しい文具の名前を知る機会がなかった。
帰って早速開けてみる。
これは機能論理から言えば消す道具ではなく、塗る道具でもなく、超小型の印刷機である。
頭のてっぺんのボタンを押してから転がすと、黒色の小さい連続文字が帯状に印刷される。
こういうふうに印刷されますという見本までついている。
印刷後のインクの乾きが、インクジェットプリンターに慣れきった者にはちょっと遅く感じられるが、読むための文字印刷ではないから多少こすれてもどうということはない。
これはちかごろなかなかの優れものである。
贈り主がわざわざ銀座までお出かけになったのか、娘さんを派遣したのかと思ったら、横浜にも店が出ていたのを知らなかった。
横浜駅で時間調整の場所が一つ増えた。