道徳という言葉は、アラビア語、ヘブライ語、ペルシャ語には見つかりません。
言葉がないのは、生活にそういう概念が要らないということでしょう。
逆に、言葉はあっても、人びとの行動の多くが道徳とは無縁な国もあります。
その国では、生活習慣にも教育にも道徳に沿ったことがらがなく、文字と声にだけは存在するという、不思議な状態になっています。
言葉と行動とは、両方揃って当たり前のことであるのに、行動がまったく見られない理由には、その行動をされることが不都合な権力者がいて、それを禁じてしまっているということが考えられます。
人間として普通の行いを、しばりによって禁じられるという無法な状態が続けば、普通でないことどもが生活習慣として根づいてしまいます。
道徳が命令の体系ではなく禁止の体系であるという説もあるようですが、生活習慣は繰り返し教え込まれて身についていくもので、二つの体系のどちらか一方に属するようなことではありません。
道徳を縛り方に見立てた是非論争は、あって当たり前の普通のことを、暫定的に禁じてしまった法律を、裏をかいくぐりながら何十年もの間持ち続けてきている"あのこと"と、一本のつながった縄か、あるいは目には見えないエアロープによる自縄自縛なのだと言えないでしょうか。
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