富士見という地名があちこちにあります。
都会の富士見から、富士山はほとんど見えません。
古い好い町の名を、味も素っ気のない名前に換えても、富士見だけは残っています。
見えないけれど見たいのです。見えなくなっても、見えていたことが何か心を動かしてくれるのです。
なかには、大きな建物が建ってしまったから見えなくなったのではなく、富士山が遠くに行ってしまったところもあるようです。
そこでも、人々の目がよい時分には、きっと見えていたのでしょう。
アフリカの人を呼んでくれば、よく見えると言ってくれるかもれません。