人間は、幾万回と生まれ変わりを繰り返している。
その度ごとに、記憶は新しくなり、前生の記憶は覚えていない。
そして、その生れ落ちた境遇は、皆一応ではない。
様々な親の元に生まれる。
裕福な家に生まれる人もあれば、貧しい家に生まれる人もある。
ましてや、生まれながらにして親を亡くす人もある。
これらの境遇はすべて、生まれ変わり出変わりを重ねた時に積み重ねた「いんねん(心の積み重ね)」によってであると言われる。
このいんねんも「悪」もあれば「白」もある。
不思議なもので、「善と悪」「白と黒」とは言われずに、「悪いんねん」「白いんねん」と教えられている。
また、この「悪・白いんねん」混在している。
こうした心に、貸しものとして「身体」を与えられて、この世で生活をしているのである。
そして、その心を見定めて、親神様は様々な事をして導かれる。
人の身上を助ける上に、「ごくさん」を教祖はお渡し下さった。
これも、「はったいこ」から「金平糖」にそして現在の「お洗米」へと変えられている。
「お洗米」に変わったのは、不思議な御守護が現れる「ごくさん」に対して、医薬妨害としてあらぬ疑いがかかったからである。
「金平糖」の時には、金平糖のとげを心のとげに例えて、心のとげを溶かすようにと話された。
親神様の何とか助けてやりたいとの、心の籠った「ごくさん」である。
その間に「おさづけ」を渡されるようになった。
最初は教祖が見定めた方々に渡されていたが、最終的には9度の別席を運んだ人が頂けるようになった。
この「おさづけ」でも不思議が現れた。
おさづけは、我が身には使えない。
人のためにと思う心と、本人の助かりたいという心とが親神様に通じて不思議が現れる。
先日ある先生と話しをしていて、「おさづけをさせて頂く時に、自分の体が熱くなるような感じがする。そうした時には不思議を見せて頂けるのだが、そうでない時は不思議が見えない。」と聞かせてもらった。
おさづけを取り次ぐ方は、同じように「何とか助かって貰いたい」と思っても、身上の人に「疑いなどの心」があるからだろうと思った。
こうした疑いを持つ者たちでも、少しでも病が良くなればと、その時の対処として、薬や医学を教えられたとも聞かせてもらう。
信心していなくても、良い医者に、また良い薬に巡り合う人もあれば、懸命に良い医者をと探しても、巡り合わない人もある。
この差は何だろうか?と疑問に思う人がどれだけいるだろうか。と思う。
この疑問を思う人は、いんねんを理解しやすいかもしれない。
すべての元は、それぞれの心にあり、その心を受け取って親神様が様々な働きを見せて導かれる。
「かしもの・かりものが分からねば何も分からん。」
「かしもの・かりものが教えの台」と言われるが、正しくと思う。
思うがままに。。。
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