8日10日にFacebookへ投稿したものを転記しておく。
・・・・・・
今月の神殿奉仕にて、出直した後の魂の所在について、YouTubeで発信されていた霊能者の話から色々と話し合った。
その霊能者は、「この世に未練を残すと地縛霊となり、思いを残さないと成仏できてまた人間に転生できる」と言っていたそうである。
「魂と心」全く目に見えないことに対しての話である。
様々な霊能関係の発信を見て思うことは、自信を持って発信を出来る人々は、それなりの修行を重ねて、同じような人々と対話を重ねて、それなりの理論を作るあげているということである。
そうした理論を元に、同じような人々や、困っている人々を助けて、讃えられていると思われる。
先の話も、そうした理論の一つだと思う。
お道の上では、「魂」も「心」も「体」についてもまた、「人間を作った神」についても説かれている。
ただ、これらをどのように結びつけ理論付けるかは、これまでのお助け人の話を聞いていると、様々な霊能者のように、色々あるように思える。
また、お助けをしたり身上を、ご守護頂いた経験の差もそうした違いにも現れているように感じる。
そうした霊的に感じるとかある人と、感じない人。また、身上での体験悟りがある人と無い人とでも差が出てくる。
私自身の体験を元に、「教祖も、「霊」と言えば霊ですよね。霊感のある人が甘露台のところに赤い服を来た人がいたと話をしてくれたことがあります。」などと話をしていたところ、突然クーラーが停止した。青年さんが慌てて対応をしてくれて、再度動き出したのだが、今思うととても不思議に思える。
目に見えることだけで物事を考える人と、目に見えないことを感じて判断する人。
また、そうした二つの人々がいることを総合的に考えて判断する人とでは、意見の合意を見ることは難しいかと思われる。
目に見えないことを考えられる人は、目に見えることしか考えられない人に考えを会わせることは出来ても、反対は出来ないのである。
自分の事しか思えない人と、人の事を思える人とでも同じことであろう。
そうした様ざまな考えを持つ人々が同じようにこの世に存在すること。
これにも重要な意味があると思われる。
◆
先の投稿の続きを。。。
(投稿した後に、左耳が痛んだので、誤解の無いように、真実込めて書かねばと思ったので、夕方の地下鉄の中で書いています。)
「霊が見える」のと「見えない」のとでは、見えた方が良いように、見えない人には思われ勝ちである。
先日の神殿奉仕の時の話しでも、そうした意見が多かった。
私も若い頃には、見えたら良いことがあるように思えて憧れた。
しかし、動画で発信されている人たちの生い立ちを聞くと、見えない方がどれだけ楽かと思うようになっている。
「自分の意思に関係なく様々な声が聞こえる」との統合失調症の方々の話を聞くと、そんなのでは心休まらない。叶わない。それと同じだと思ったのである。
ましてや、そうして見聞きすることが本当の事かどうかを確かめるのにも苦労することになるわけで、大変なのである。
親神様のお言葉を昼夜問わずに伝えられた、教祖の様子やご本席様の様子を、教祖伝やおさしづなどから思うと、自分の事を優先する心があっては勤まらないとも思えるのである。
人間に「心の自由を与えた」と言いながらも、「与えられていない」。そのようにまで思えるのである。
ところが、教祖やご本席様は、そうした事を苦にしていないように思われる。
教祖のひな型の中で、井戸や宮池へ身を投げようとした時が、その時であったのだろうと思われる。
ところが、周囲の人々は教祖や本席様から発せられる「親神様のお言葉」に右往左往するのである。
その代表的なものに、こかんさまのお出直しがあげられると思う。
親神様のお言葉に沿えずに、最終的には出直すことになったのである。
親神様のお言葉を出される方が、出直したのである。
重要なのは、見聞きしたことから、その人がどのように思い、心を定めて行うかと言うことだと思うのである。
おふでさきに、「くちでもいわん筆先の責め」とある。
言われると人間は様々な心が働き、悪くすると恨みが出たりするのである。
こうした点を考えたならば、「霊が見えずに、身上や事情から思案して自ら心定めて、試してとおることがどれだけありがたいことか」と思えるのである。
おもうがままに。。。 表示を縮小