資料として、書換えておく。
「医者も薬も神の教え」 『正文遺韻抄』232頁
医者、薬、拝み、祈祷も、易、判断も、皆、これまで人間の修理のために、神が教えておいたという。
けれども、これは一時的な理で、神の教えておかれた守護で、その場その場は助かったであろう。
しかしこれでは、心を直すことは出来ないため、また、元に戻るか、そのまま治ったとしても、またいつか理が現れて、身上に迫る。
例えるならば、飯の上のハエを、追い払うのも同じことである。
一時はいなくなるけれども、追わなければ、また寄ってくる。
そこで、この飯を、他のところへ動かしてしまえば、ハエを追わなくても、ハエは来ないようなものである。
この度は、神が表へ現れて、何かいさいを説いて聞かすという。
それ、聞かして頂いた話の理によって、心を今までと切り替えて、今までの心は、ハエが付く飯のようなものなので、これを他へどかしてしまって、切り替えた良い心を、また、元の心に変えないようにすれば、それ、医者や薬、拝み祈祷、易判断、全てこれはいらない。
以上。
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