こうき話十六年本
……次に、十六年本の一つ“桝井本”を紹介いたします。同じようなお話の羅列になりますが、比較されますと、だんだん内容が粉飾されてゆく様子がおわかり頂けると思うからであります。
十六年本の様子につきましては、前にも申しましたように、『復元』第十五号に発表されてありますが、諸本の照合による校正を避けて、桝井本の姿のままを紹介することにいたします。これには他本との間に、御守護の説きわけに、順序を異にしている点がありますので、とりあえずそのままを発表することにいたします。……(「こふきの研究」p107より抜粋)
・データ化について
16年本(桝井本・5)内容
「こふきの研究」p108~140
【註・文中カッコ内は、桝井本(5)に欠けていて、意味が通じ難いので、上田本(20)宮森本(21)梶本本(22)喜多本(23)などによって補いました。の《補・○○本》としてあるのは、補った本を示すものであります。】
(文中の[1]などの数字は「こふきの研究」には無く、資料として使う上に私がつけた。)
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神の古記
[1] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
此の世は、元人間も世界も無く、泥の海ばかり。その中に、神と云うは、月日両人(居たばかり。此月様と云わ《補・梶本本22》)くにとこたちのみことと云う神なり。日様はわおもたりのみことと云う神なり。その中より、月様が先に居てた。国床を見定めて、日様へお談じなされ候には、
「泥の海に、月日両人居たばかりでは、神と云うて敬う者なし、何の楽しみもなく、人間を拵え、その上世界を拵えて、守護をさせば、人間は重宝なる者で、陽気遊山を見て、その他何事も見られること」
と相談定まり、此の人間を拵えるには、種・苗代が要るに、道具雛型なくばいかん事故(註:ことゆえ)、道具雛型を見出すること。
見澄ませば、ぎぎよと云ううをがいる。此うをは人ぎよとも云う魚、人間の顔で、鱗なし。肌は人間の肌。又見澄ませば、みいと云うしろぐつながいる。この者も、今人間の肌にて、鱗なし。この二人とも、心は真っ直で、正直なる者、此の姿、心を見て、これを引き寄せ貰ひ受けて、此の姿をも以て人間拵える種・苗代に貰い受け様と、相談まします。右両人引き寄せて、
「此の度人間と(云者を拵ゑ度ニ付、其《補・梶本本22》)方(註:ほふ)の姿、心を以て、人間の種・(苗代《補・梶本本22》)に貰い受けて、」
仰せられ候えば、両人嫌うて、断りを申上ると言えど、押して貰い、
「人間を拵え、世界を拵えその上は、此の世の一神に授け、人間の親神と拝ますことゝ、」
言うて無理に承知をさせて、貰い受け遊ばされて。
[2] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
それより、なによの道具、人間の魂、五体の道具雛型を見出そふと見澄ませば、泥海中にとじよふばかりおる。この者を貰い受け、食べ、此の味わい心を見て人間の魂とす。又見澄ませば、乾の方にしやちほこがいる。此の者に承知をさせて貰い受け、食べて心味を見るに、しやちほこ云ううをは勢い強く、変にしやくばる者である故に、男の一の道具に仕込みて、人間の骨の守護とす。又、巽方にかめがいる。これ貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は皮強く、倒れぬ者である故に、女の一の道具に仕込んで、人間の皮つなぎの守護とす。又、東の方にうなきがいる。これを貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は勢強く、頭の方からでも、尾の方へも出入りする者である故に、人間の飲み食い出入りの守護とす。これを五体とす。
人間に、息、風を以て物を言わす道具雛型と見澄ませば、坤の方にかれがいる。此の者承知をさして貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は身薄(すき、味よき者で有、丸き《補・梶本本22》)ものや、角なるものでは風が出ず、身薄きもので扇げば風が出るものである故に、人間の息、風の守護とす。尚も人間の楽しみ、食物を第一に拵え置く道具を見澄ませば、西の方にくろくつないる。此の者を引き寄せ、貰い受け、食べて心味わい、姿を見て、此の者は勢強く、引きても切れぬものである故に、食物、立毛、地より生えるものゝ引き出しの守護として、一に使た道具なり。又、人間の生るふ時親子の縁を、死に出直しの時に縁切りの道具、見澄ませば、艮の方にふぐと云ううをがいる。此の者を貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は大食するもので、食べて中(註:あたる)ものである故に、人間の生き死にの時縁を切る守護とす。此の世のよろづ切るものに守護とす。
[3] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
これなる魚、道具とするを嫌う者を無理に貰い受け、人間を拵える相談を定めて、ぎぎよへしやちほこを男一の道具に仕込み、それよりくにとこたちの命との心を入り込み、男神で人間の種なり。みいへかめを女の一の道具に仕込み、それにおもたりのことの心を入り込み、女神にして、人間の苗代となして、此の屋敷のかんろたいのじばを神体(註:神たい)の中央として、北枕に寝て、九億九万九千九百九十九人の人数、三日三夜に南無々々と二人づつ宿し込み給う。此の事を以て、南無とはあうんのことなり。今人間も南無々々として居ることは良ことなり。南無と云うは夫婦のことなり。夫婦とは、天と地を象りて夫婦はじめた事なり。人間と云う名を付けたは、雛形の人ぎよと人間の良き事あれば、これを今にけんと云うことの残り、この二つの理を以て人間と名を付け給う事なり。
[4] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
東西と云う、西東北南と云うは宿し込みの時、北枕の西向きに寝た人間の本芯は目の事故、西向きを西と云う。西より目を東へ送る故に東と云う。ぎ様は先に起きて北向きになる故に北と云う。み様はあとより南向きに起きなされた故に南と云う。
此世と云うは、夜から世ふ照らしなさる月様が先はじめ、夜から始まりた此の理をもって、此の世と云う。これ皆人間の言うことは、元初めの時人間を象りて名を付けた(事を云て居るなり。《補・梶本本22》)
身の内は神のかりものなり。人間守護下さる神は、国とこたちのみ事、おもたりのみ事、この二柱の(神《補・上田本20》)は元の神、あとの八柱の神は人間を拵えるに付き、使うた道具衆に神名を授け給う。この十柱の神は、此の世の元の神なり。
[5] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
此の訳左に
くにとこたちの命は、天にては月様なり。この神は男神にして、御姿は、頭一つ、尾は一条(註:ひとすじ)の大龍なり。此の世界、国床を見定め給う。此の理を以てくにとこたちの命とゝ云う。又国を見定め給う故に国見定めの命と云う。人間を宿し込み給う時に、上より突くが故に月様と云うなり。月様が先に立つ故に日月とは云われず、月日と云う。三十日を又一月と云う。仏法にては、釈迦如来と現れ、仏法を授け給う。又、先に出でて法を始め給うにて、ぜんじゆう様と云う。人間身の内目の潤いの守護の神様なり。則(註:横に?)目は此の神様のかりものなり。
おもたりの命様は、天にては日輪様、此の神は女神、御姿は頭十二の三条(註:三すじ)の尾に三つの剣ある大蛇なり。この神様は人間宿し込みたもう後は、日々に身が重くなる故に、おもたの命と云う。日々に理を増す故に日輪様と云う。尾に三ツの剣ある故に、此の理をあしきな女は邪険と今にても云うなり。頭十二ある一つの頭にて、十二月の間、一月づつ頭代わりて守護を事。日々代わりて守護。又、十二時(註:十二とき)つゝ頭代わりて、目を一時とす守護ある故に一ケ年を十二月と定め、一日を十二時(註:十二とき)と云う。十二支の方頭(註:ほふかしら)を取り巻きありて守護あり。此の理を以て十二支と云うなり。仏法にては三尊(?)(註:三づん)の弥陀如来、又、心澄んだる理を以て、勢至観音、大き見える故に、寛大とも云う。観音と云うも同じ理なり。人間の身の内温みの守護の神、又温みは此の神様のかりものなり。
此の二柱の神様は、此の世の人間の実の親様。人間には此の世御照らしの如く入り込み、御守護なされ、故に、自由自在を叶うことなり。
後なる神様は、此の二柱の神様の守護に依って、御働きあることなり。
国さつちの命、この神様は天にては源助星、女神様なり。御姿はかめなり。かめと云うは、皮強き、地につきても踏ん張り強く、倒れぬ者で、土色なるの故、くにさつちの神と名を授け、女一の道具に仕込んだ故、亀甲(註:かめこ)の理を以て、おめこと云うなり。おなごと云うも同理なり。人間皮繋ぎの守護、仏法にては普賢菩薩、達磨大師、弁天、結びの神、黄檗山(註:おふはくさん)の神の守護なり。此の世の金つなぎ、または、よろづつなぎものは皆此の神の守護なり。人間の身の内皮つなぎは、(此神様の借ものなり。万づつなぎ物は、此神の守護なり。《補・梶本本22》)
月よみの命様は、此の神は、天にては破軍星にて、男神なり。御姿はしちほこと云う。又、鯉のこせたる者も同ことなり。しちほこと云うものは、勢い強く、変にしゃくばるもの故に男の一の道具に仕込み給う。男の道具は此の理を以て、せいのこと云う。又、男と云うは、とこわ宿し込みのとき、突くが故に、此の理を以て月よみの命と名を授け給う。仏法では、八幡様と云う。聖徳太子様、此の神様の御守護なり。人間身の内骨の守護なり。
(雲読之命《補・梶本本22》)、神様は、天にては朝明神の星となり。女の神にして、此の姿、うなぎなり。此の者は、頭の方へも、尾の方へも出入りする者で、つるつくものである故に、人間の飲み食い出入りに使うた道具なり。故に、くもよふみの命と名を授け給う。仏法にては、文珠菩薩、龍王、神農、薬師如来、水神様。此の神、飲み食い出入りは、此の神様のかりものなり。此の五柱神様の守護によつて、これを五体と云うなり。
かしこねの命、此の神様は、天にては未申の方に集まる星なり。男神にて、御姿はかれと云うなり。此の者は身薄き者で、故に、人間の息の、風の道具に使うた。故にかしこねの命と名を授け給うなり。仏法にては、大日如来、円光大師様、此の神様の守護なり。人間の息此の神様かりものなり。息は風、風で吹き分けて物を言わすなり。
人間身の内は、六柱の神が入り込みて守護を下さる故に、自由に叶う事故、これ全く、此の神のかりものなり。此の六柱の神様は南無阿弥陀仏なり。南無と云うは、目、温み。阿弥とは、皮繋ぎに、芯の骨なり。陀仏とは、飲み食い出入りに、息の事なり。南無阿弥陀仏と云うは、人間の身の内の事なり。これで身の内六台と云うなり。火と水は一の神なり。風よりほかに神はなし。息は風なり、風は神なり、如何なあしきも吹き払うなり。
おふとのへの命、この神様は、天にては宵の明神の星なり。男神にて、御姿はくろぐつな也。此の者は勢い強く、引きても切れぬ者故、人間の食物、立毛、万物引き出しの道具に使うた神なり。引き出すには大綱が要る。又、引き出す者は玄人(註:くろと)と云う。何事にても、先立つてする者は、玄人云う名今にあり。此の理を以ておふとのへの命と名を授け給う。仏法にては、不動明王と名を授け給う。尚又、弘法大師、役行者、此の神様の御守護なり。故に百姓の神なり。
たいしょくでんのみことは、此の神様は、天にては艮の方にあつまる星なり。女神にして、御姿ふくと云ううをなり。此の者は、食えば中る(註:あたる)ものである故、人間の死に生き、縁を切り道具に使た。ふくと云うもの、人間も大食すれば、寿命を無くなる。よく中る故に、此の理を以て大食天の命と名を授け給う。仏法にては、虚空菩薩、妙見菩薩、鬼子母、県さん、此の神様の守護に同じ事なり。此の神様は鋏にて、よろづ切る。
(伊邪那岐の命、此《補・梶本本22》)神、天にて、天の川隔てにして現れある星なり。七夕様と云う。げぎよふ、または、人魚とも云ううをなり。此の者は今の人間なる様な姿にて、心も真っ直ぐなるもので、これを雛形として、人間の種に使たもの、これは人間の父様なり。この証拠に、伊勢の内宮様、天照皇太神宮、此の神なり。
いざなみの命は、此の神様は、天にては天の川隔てにしている七夕様という星なり。女神にて、御姿は白くつななり。しろくつなと云うは、此の者も人間の肌にて、綺麗なる者、心も真っ直ぐなるもので、これを人間の苗代に使うた。これは人間の母親なり。此の証拠に、伊勢の外宮様、天照大神宮様は此神なり。
[6] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
天輪王命は此の十柱の神の総名なり。此の神様は無い人間拵えるに付使た道具なり。此の者を神となして、人間の身の内、此の神様の守護なり。此の外に、何の処つても、(何処を尋ても《補・梶本本22》)身の内より外に神はなし。此の世の神や仏と云うて拝ましていたれとも、皆人間が、紙や金や木をもつて拵えたものばかりなる故に、どうも紙や金や木の中へは神が入り込むことは出来ずもの、人間には皆神が入り込み、何の守護もする故に、人間に勝れる神がない事なり。
此の度、天輪王の命と名を授け給うは、当年八十六才になる中山みき、此の者も、前部にある通り、若い時より、ただ、人をたすける心一条の者、此の心を月日しかと受け取り見澄ませば、此の者の魂と云うは、いざなみの命の魂を生まれさせおきた事故、四十六年以前に天降り、体内(註:しんたいとルビあり)を月日の社に貰い受け、心を天理に叶た故に、みきの代わりに此のやしきに天輪王の命と名を授け、又屋敷は人間宿し込み元のぢばの事故に、地め名に授け給うなり。
此の事、皆(取次ゑ《補・梶本本22》)聞かし下さる話と云うは、右みき人間の心なく、何の覚えもなく、月日様入り込み刻限をみて四十六年以前より今日に至りても、神の御話ある事を取り次ぎのものへと(聞かせ被下事なり。《補・梶本本22》)元十柱の神の魂を、一に人間に生まれさせておきて、それに月日入り込み、人間月日の使うた一の道具なる。
[7] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
此の度迄は此たすけ、教える事出来ず、故に、これ迄世界中に、拝み祈祷や、易判断、医者薬、これは皆人間の修理肥に教えある事なり。
これ迄に、人間の宿し込み相済み、又、人間生み出(したる《補・梶本本22》)人数の年限相過ぎ候。(故、元の神々の魂を《補・上田本20》)此のやしきへ生み出している。此のやしきは、人間宿し込み、三年三月留まりて、此のやしきより生まれ出るなり。此の世人間の親里なる故に、道具を貰い受けたる時に、人間の年限を経ちたならば、元の屋敷へ連れ帰り、陽気遊山を見て、楽しみ遊びをさせますとの約束ある故の事なり。故に、元の親を生まれさせおきて、その者を月日の社として入りこみ、たすけ教えるも、無い人間、無い世界を拵えたも、何の形もなくに拵えたは、六ツかしいことである。
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又、此の度たすけ始め教えるも同じ事にて、神の言う事は、これ迄に書き物にあることや、人間の知りてる事は言わん。これ迄ある事は、言うて教えるには及ばず。書き物にても無い事、人間も知らぬ事を言うて教えること故に、これ又むつかしい筈の事。
此の世は月日両人の身体なり。天地抱き合わせの世界。人間は、月日懐に住ま居して居るものなり。それ故に、人間のする事に、月日の知らん事はなし。人間は皆神の子なり。身の内は神のかしものなる故に、他人と云うは更になし。皆兄弟なり。
これ迄は、人間に病と云えば、医師、薬、拝み祈祷と云うていたれども、人間には病ないものなれど、人間には八つの心得違いの道がある故に、病の元は心からと云うなり。この八ッ心違いと云うは、ほしひ、おしみ、(恨み《補・梶本本22》)はらたち、かわひ、にくい、よくに、こふまん。これ八つの心得違いは身の内のほこりとなり、十五歳になる迄の子供のあしきは親のほこりを子に現れて意見する事なり。十五歳以上はあしき病や、不時災難、これ皆、その者は第一、家内中のほこり積もり重なる故、意見立腹。此の意見も憎さではなし、たすけたいから、心直す為に意見する事なり。此の親にたすけを頼むことならば、親の教えの道家内残らず、十五歳よりの、右八ッの心得違いを真実よりさんげして、此の後は、虚言(註:きよふげん)とついしょふ、よくにこふまんなき様にして、人をたすける心と入れ替えて願えば、その心を神が受け取りて、よろつたすけをするなり。
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尚、此の度かくらつとめを教えるは、これも、これ迄ないこと始めかけ、これは元十柱の神の姿の形を以て、かくら両人は、国常立之命に面足の命なり。男神、男の面を冠り、女神は女の面を冠り、つとめ手振りも、元の道具の雛形、形を学びをし、陽気遊山踊りをする事なり。この人衆十人、鳴物数九ツ以て神をいさめる事なり。人衆都合十九人にて、よふきつとめなり、よふきつとめをしてたすかると云うは、陽気遊山を見ようとて人間を拵えたる世界なり。依って元の姿を寄せて、共々勇むるに付、たすけるものは、たゝ、人間はそれを知らずして、人はどうでも、我が身さいよくばよき事と思う心は違うから、此の度のたすけ教えるは、あしきを払いて、陽気の心になりて願えば、神の心も人間の心も同じ事故、人間の身の内は神のかしものである故に、人間心を勇めば神も勇んで守護すれば、身の内あしきことはつとめ一条で、よろづたすけすると云うは、願い人は勿論、つとめの人衆も真実よりたすけたいとの心を以て願う事なり。
[10] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
人間、神のかしもの、身の内は、神の自由はおびやのたすけで思案してみよ。産の許しは此のやしきへ願い出るなら、腹帯要らず、凭れ物要らず、七十五日の毒忌みも要らず、身の穢れなし。常の通りに許す事、おひやたすけは、人間を拵えた神の証拠に、よろづたすけの道開けなり。
[11] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
又この先は、人間の心澄まして、何時迄居りても、病まず死なず、弱らずのたすけを教える。おびや自由、早めなりとも、延ばしなりとも、願い通り叶うようの守りだす。疱瘡せぬようの請け合いの守り、又は、悪難除けの守り出す。百姓のたすけは、萌え出(註:はゑで)の札、虫払い札、成熟の札、肥のさつけの札。肥やしのさづけと云うは、糠三合、灰(三《補・梶本本22》)合、土三合、都合九合調合して、肥一駄のたすけなり。これ皆守りは、千宛てつゞ、つとめにかけて出す。札は千枚つゝ一つとめにかけて出す。肥は百駄つゞ一つとめにかけて出す。これ皆かくらほんつとめなり。
[12] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
老母に赤き着物は、天照の如く、月日、天に現れて照らすは、両人の目なり。目は開く故に世界中明らかなり。それ故に、やしろの赤き故に、世界中は明らかなり。それ故にやしろ何の事でも見いるなり。それ故に他なる着物は着れば身が暗し故、着て居る事は出来ぬ事。此のやしろも同じ人間に候らえども、此の者は、元の親のいざなみの命之魂なる故に、何の処の者でもたすけたい、可愛いばかりの心なり。此の者を雛形として月日入り込み、たすけ教える事であるから、世界中の者、親里参り、親にたすけて貰おと思うて願うなら、又、此の親の心を雛形として心入れ替えば、たすけは勿論、善悪とも神より返しをする事間違いなし。
[13] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
人間拵えたのは此のやしきの中央にて、前の部にある通り、いざなぎの命へしやちほこを男の一の道具に仕込み、それに国常立之命を入り込み、どじよふ人間の魂として、いさなみの命へかめを女の一の道具に仕込み入れた。おもたるの命を入り込み給うて、人間の苗代として九億九万九千九百九拾九人の人数を南無々々と二人宛三日三夜に宿し込み、三年三月留まりて居りて、それより今の奈良、初瀬七里四方の間七日かゝり産み下ろし、此のぢばが神かたと云うのは此の処なり。残る大和の国中四日かかりて産み下ろし、これで十(一《補・梶本本22》)日がおびやあけと云う。山城、伊賀、河内、三ケ国十九日かゝりて産み下ろし、これ三十日をはんみやと云う。残る今の日本中四十五日かゝりて産み下ろし、都合七十五日の間かゝりて産み下ろし、これ故に七十五日の間はおびや中と云うなり。即ち、産み下ろし毎に親の息をかけて産み下ろしおく。このぢばは今の宮地の地場となりてある処なり。これにていさなぎ様は死亡する。
此の人間生まれ出しては、五分より生まれて九十九年目に三寸迄成長して、皆死亡す。又、元の人数を同じ胎内へ宿り込み、十月目より、又、諸処へ産み下ろし廻り、この地場は今の墓所なりてある処なり。此の人間も五分から生まれて、九十九年目には三寸五分迄成長して、皆死亡す。一度教えたる守(護で、元の人数同じ胎《補・梶本本22》)内へ三度宿り込み、又、十月目より、以前の諸処へ産み下ろし、此の地場は今のはらてらの詣り所なり。これを一みや、二墓、三原(註:三はら)と云う参り所なり。
此の人間も五分から生まれて、九十九年目に四寸迄成長す。いさなみ様はこれを見て、こゝ迄成長するならば、五尺の人間になると喜こんで、にいこり笑うて死亡なされ、また四寸の理と、につこり笑うた理を以て、生まれ出るところも二寸に四寸、死に行く穴も二尺四寸と云うなり。
又、此の人間も親の後を慕うて、残らず死亡す。それより、鳥類、畜類、虫螻(註:むしのら)異形の者と八千八度生まれ替わりた。故に、今人間は何もの真似でも出来る事なり。
此の年限は、九千九百九十九年目に死亡す。又、さるが一人残りいる。これはくにさつちのみことなり。此の胎内に、男五人、女と十人づゝ生まれ、此の人間も五分から生まれて、五分々々とだん/\成長して、又、八寸迄成長した時に、泥水、高低出来かけ、一尺八寸迄成長したに、子が親(となりて、元の人数生揃ひ《補・梶本本22》)水土分かりかけ、これより男一人、女一人と二人つゝ生まれて三尺迄成長した時に、天地海山分かりかけ、人間物を言いかけ、それで、今人間は三才で物を言いかけるなり。五尺成長する迄は水中に住ま居。五尺になる迄に、人間の成長に応じ、天地海山、水土速やかに分かりあり。
人数九億九万九千九百九十九人の内、大和の国へ産み下ろしたる人間は日本の地に上がり、外の国へ産み下ろしたる人間は食物を食い廻り、唐、天竺の地上がり行きたものなり。
此の年限九千九百九十九年之間水中の住まいす。地に上がりたるより四十六年以前迄の年限九千九百九十九年なり。此の内、六千年の間人間に神が入り込み、何事も教え来たる事なり。人間のする事を神が教えたる事は誰も知りたる者はない筈の事、人間を拵えても、これ迄人間に入り込んで、口を借りて教えたことは今初めの事故に、実に承知する者少なし。虚言(註;きよふげん)と思えば虚言となる。真(註;まこと)と思えば真なる。神の言う事は真実と思て願えば、拝み祈祷や、薬飲まいでも、話一条で皆たすかる事、これ証拠なり。
[14] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
又、かんろだいを建てておくは、人間宿し込みたるじばの証拠に、元の十柱の神の謂うわれ形を以て建ておくなり。又この先は、世界中の心澄みたるうえは、かんろふだいの上に平鉢に食物を供え、それにかんろふを与え、これは人間の寿命薬となる、との御はなしなり。
人間には病なく、薬なく、毒もなくして、此の元は皆心から。人間は死に行くと云うていれども、死に行くでなし。身の内は神が退く事なり。死ぬると云うは、衣服を脱ぎ捨ているも同し事なり、神が教え給うなり。
(終わり)
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【データ入力にあたって】
(註1;文字をデータ化するについて、ひらがなの横に漢字を書くような書き方は出来ないため、横に書かれている漢字を用いて入力をする。また「ゑ」という表記は「へ」「え」に、「よふ」などの「ふ」も「よう」などの「う」に、「へ」も必要に応じ「え」とし、「ハ」「バ」は「は」「わ」「ば」とし、「わ」も必要に応じて「は」と書き換えた。)
(註2;文中の各註は漢字があてられた元の読み方又は字)
(註3:本文中に《重複》とあるものは削除した)
(註4:本文中に下線があるものには下線を施したが、傍点のあるものは傍点を附けられないので字の色を緑に変えて表示した)
……次に、十六年本の一つ“桝井本”を紹介いたします。同じようなお話の羅列になりますが、比較されますと、だんだん内容が粉飾されてゆく様子がおわかり頂けると思うからであります。
十六年本の様子につきましては、前にも申しましたように、『復元』第十五号に発表されてありますが、諸本の照合による校正を避けて、桝井本の姿のままを紹介することにいたします。これには他本との間に、御守護の説きわけに、順序を異にしている点がありますので、とりあえずそのままを発表することにいたします。……(「こふきの研究」p107より抜粋)
・データ化について
16年本(桝井本・5)内容
「こふきの研究」p108~140
【註・文中カッコ内は、桝井本(5)に欠けていて、意味が通じ難いので、上田本(20)宮森本(21)梶本本(22)喜多本(23)などによって補いました。の《補・○○本》としてあるのは、補った本を示すものであります。】
(文中の[1]などの数字は「こふきの研究」には無く、資料として使う上に私がつけた。)
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神の古記
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此の世は、元人間も世界も無く、泥の海ばかり。その中に、神と云うは、月日両人(居たばかり。此月様と云わ《補・梶本本22》)くにとこたちのみことと云う神なり。日様はわおもたりのみことと云う神なり。その中より、月様が先に居てた。国床を見定めて、日様へお談じなされ候には、
「泥の海に、月日両人居たばかりでは、神と云うて敬う者なし、何の楽しみもなく、人間を拵え、その上世界を拵えて、守護をさせば、人間は重宝なる者で、陽気遊山を見て、その他何事も見られること」
と相談定まり、此の人間を拵えるには、種・苗代が要るに、道具雛型なくばいかん事故(註:ことゆえ)、道具雛型を見出すること。
見澄ませば、ぎぎよと云ううをがいる。此うをは人ぎよとも云う魚、人間の顔で、鱗なし。肌は人間の肌。又見澄ませば、みいと云うしろぐつながいる。この者も、今人間の肌にて、鱗なし。この二人とも、心は真っ直で、正直なる者、此の姿、心を見て、これを引き寄せ貰ひ受けて、此の姿をも以て人間拵える種・苗代に貰い受け様と、相談まします。右両人引き寄せて、
「此の度人間と(云者を拵ゑ度ニ付、其《補・梶本本22》)方(註:ほふ)の姿、心を以て、人間の種・(苗代《補・梶本本22》)に貰い受けて、」
仰せられ候えば、両人嫌うて、断りを申上ると言えど、押して貰い、
「人間を拵え、世界を拵えその上は、此の世の一神に授け、人間の親神と拝ますことゝ、」
言うて無理に承知をさせて、貰い受け遊ばされて。
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それより、なによの道具、人間の魂、五体の道具雛型を見出そふと見澄ませば、泥海中にとじよふばかりおる。この者を貰い受け、食べ、此の味わい心を見て人間の魂とす。又見澄ませば、乾の方にしやちほこがいる。此の者に承知をさせて貰い受け、食べて心味を見るに、しやちほこ云ううをは勢い強く、変にしやくばる者である故に、男の一の道具に仕込みて、人間の骨の守護とす。又、巽方にかめがいる。これ貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は皮強く、倒れぬ者である故に、女の一の道具に仕込んで、人間の皮つなぎの守護とす。又、東の方にうなきがいる。これを貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は勢強く、頭の方からでも、尾の方へも出入りする者である故に、人間の飲み食い出入りの守護とす。これを五体とす。
人間に、息、風を以て物を言わす道具雛型と見澄ませば、坤の方にかれがいる。此の者承知をさして貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は身薄(すき、味よき者で有、丸き《補・梶本本22》)ものや、角なるものでは風が出ず、身薄きもので扇げば風が出るものである故に、人間の息、風の守護とす。尚も人間の楽しみ、食物を第一に拵え置く道具を見澄ませば、西の方にくろくつないる。此の者を引き寄せ、貰い受け、食べて心味わい、姿を見て、此の者は勢強く、引きても切れぬものである故に、食物、立毛、地より生えるものゝ引き出しの守護として、一に使た道具なり。又、人間の生るふ時親子の縁を、死に出直しの時に縁切りの道具、見澄ませば、艮の方にふぐと云ううをがいる。此の者を貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は大食するもので、食べて中(註:あたる)ものである故に、人間の生き死にの時縁を切る守護とす。此の世のよろづ切るものに守護とす。
[3] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
これなる魚、道具とするを嫌う者を無理に貰い受け、人間を拵える相談を定めて、ぎぎよへしやちほこを男一の道具に仕込み、それよりくにとこたちの命との心を入り込み、男神で人間の種なり。みいへかめを女の一の道具に仕込み、それにおもたりのことの心を入り込み、女神にして、人間の苗代となして、此の屋敷のかんろたいのじばを神体(註:神たい)の中央として、北枕に寝て、九億九万九千九百九十九人の人数、三日三夜に南無々々と二人づつ宿し込み給う。此の事を以て、南無とはあうんのことなり。今人間も南無々々として居ることは良ことなり。南無と云うは夫婦のことなり。夫婦とは、天と地を象りて夫婦はじめた事なり。人間と云う名を付けたは、雛形の人ぎよと人間の良き事あれば、これを今にけんと云うことの残り、この二つの理を以て人間と名を付け給う事なり。
[4] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
東西と云う、西東北南と云うは宿し込みの時、北枕の西向きに寝た人間の本芯は目の事故、西向きを西と云う。西より目を東へ送る故に東と云う。ぎ様は先に起きて北向きになる故に北と云う。み様はあとより南向きに起きなされた故に南と云う。
此世と云うは、夜から世ふ照らしなさる月様が先はじめ、夜から始まりた此の理をもって、此の世と云う。これ皆人間の言うことは、元初めの時人間を象りて名を付けた(事を云て居るなり。《補・梶本本22》)
身の内は神のかりものなり。人間守護下さる神は、国とこたちのみ事、おもたりのみ事、この二柱の(神《補・上田本20》)は元の神、あとの八柱の神は人間を拵えるに付き、使うた道具衆に神名を授け給う。この十柱の神は、此の世の元の神なり。
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此の訳左に
くにとこたちの命は、天にては月様なり。この神は男神にして、御姿は、頭一つ、尾は一条(註:ひとすじ)の大龍なり。此の世界、国床を見定め給う。此の理を以てくにとこたちの命とゝ云う。又国を見定め給う故に国見定めの命と云う。人間を宿し込み給う時に、上より突くが故に月様と云うなり。月様が先に立つ故に日月とは云われず、月日と云う。三十日を又一月と云う。仏法にては、釈迦如来と現れ、仏法を授け給う。又、先に出でて法を始め給うにて、ぜんじゆう様と云う。人間身の内目の潤いの守護の神様なり。則(註:横に?)目は此の神様のかりものなり。
おもたりの命様は、天にては日輪様、此の神は女神、御姿は頭十二の三条(註:三すじ)の尾に三つの剣ある大蛇なり。この神様は人間宿し込みたもう後は、日々に身が重くなる故に、おもたの命と云う。日々に理を増す故に日輪様と云う。尾に三ツの剣ある故に、此の理をあしきな女は邪険と今にても云うなり。頭十二ある一つの頭にて、十二月の間、一月づつ頭代わりて守護を事。日々代わりて守護。又、十二時(註:十二とき)つゝ頭代わりて、目を一時とす守護ある故に一ケ年を十二月と定め、一日を十二時(註:十二とき)と云う。十二支の方頭(註:ほふかしら)を取り巻きありて守護あり。此の理を以て十二支と云うなり。仏法にては三尊(?)(註:三づん)の弥陀如来、又、心澄んだる理を以て、勢至観音、大き見える故に、寛大とも云う。観音と云うも同じ理なり。人間の身の内温みの守護の神、又温みは此の神様のかりものなり。
此の二柱の神様は、此の世の人間の実の親様。人間には此の世御照らしの如く入り込み、御守護なされ、故に、自由自在を叶うことなり。
後なる神様は、此の二柱の神様の守護に依って、御働きあることなり。
国さつちの命、この神様は天にては源助星、女神様なり。御姿はかめなり。かめと云うは、皮強き、地につきても踏ん張り強く、倒れぬ者で、土色なるの故、くにさつちの神と名を授け、女一の道具に仕込んだ故、亀甲(註:かめこ)の理を以て、おめこと云うなり。おなごと云うも同理なり。人間皮繋ぎの守護、仏法にては普賢菩薩、達磨大師、弁天、結びの神、黄檗山(註:おふはくさん)の神の守護なり。此の世の金つなぎ、または、よろづつなぎものは皆此の神の守護なり。人間の身の内皮つなぎは、(此神様の借ものなり。万づつなぎ物は、此神の守護なり。《補・梶本本22》)
月よみの命様は、此の神は、天にては破軍星にて、男神なり。御姿はしちほこと云う。又、鯉のこせたる者も同ことなり。しちほこと云うものは、勢い強く、変にしゃくばるもの故に男の一の道具に仕込み給う。男の道具は此の理を以て、せいのこと云う。又、男と云うは、とこわ宿し込みのとき、突くが故に、此の理を以て月よみの命と名を授け給う。仏法では、八幡様と云う。聖徳太子様、此の神様の御守護なり。人間身の内骨の守護なり。
(雲読之命《補・梶本本22》)、神様は、天にては朝明神の星となり。女の神にして、此の姿、うなぎなり。此の者は、頭の方へも、尾の方へも出入りする者で、つるつくものである故に、人間の飲み食い出入りに使うた道具なり。故に、くもよふみの命と名を授け給う。仏法にては、文珠菩薩、龍王、神農、薬師如来、水神様。此の神、飲み食い出入りは、此の神様のかりものなり。此の五柱神様の守護によつて、これを五体と云うなり。
かしこねの命、此の神様は、天にては未申の方に集まる星なり。男神にて、御姿はかれと云うなり。此の者は身薄き者で、故に、人間の息の、風の道具に使うた。故にかしこねの命と名を授け給うなり。仏法にては、大日如来、円光大師様、此の神様の守護なり。人間の息此の神様かりものなり。息は風、風で吹き分けて物を言わすなり。
人間身の内は、六柱の神が入り込みて守護を下さる故に、自由に叶う事故、これ全く、此の神のかりものなり。此の六柱の神様は南無阿弥陀仏なり。南無と云うは、目、温み。阿弥とは、皮繋ぎに、芯の骨なり。陀仏とは、飲み食い出入りに、息の事なり。南無阿弥陀仏と云うは、人間の身の内の事なり。これで身の内六台と云うなり。火と水は一の神なり。風よりほかに神はなし。息は風なり、風は神なり、如何なあしきも吹き払うなり。
おふとのへの命、この神様は、天にては宵の明神の星なり。男神にて、御姿はくろぐつな也。此の者は勢い強く、引きても切れぬ者故、人間の食物、立毛、万物引き出しの道具に使うた神なり。引き出すには大綱が要る。又、引き出す者は玄人(註:くろと)と云う。何事にても、先立つてする者は、玄人云う名今にあり。此の理を以ておふとのへの命と名を授け給う。仏法にては、不動明王と名を授け給う。尚又、弘法大師、役行者、此の神様の御守護なり。故に百姓の神なり。
たいしょくでんのみことは、此の神様は、天にては艮の方にあつまる星なり。女神にして、御姿ふくと云ううをなり。此の者は、食えば中る(註:あたる)ものである故、人間の死に生き、縁を切り道具に使た。ふくと云うもの、人間も大食すれば、寿命を無くなる。よく中る故に、此の理を以て大食天の命と名を授け給う。仏法にては、虚空菩薩、妙見菩薩、鬼子母、県さん、此の神様の守護に同じ事なり。此の神様は鋏にて、よろづ切る。
(伊邪那岐の命、此《補・梶本本22》)神、天にて、天の川隔てにして現れある星なり。七夕様と云う。げぎよふ、または、人魚とも云ううをなり。此の者は今の人間なる様な姿にて、心も真っ直ぐなるもので、これを雛形として、人間の種に使たもの、これは人間の父様なり。この証拠に、伊勢の内宮様、天照皇太神宮、此の神なり。
いざなみの命は、此の神様は、天にては天の川隔てにしている七夕様という星なり。女神にて、御姿は白くつななり。しろくつなと云うは、此の者も人間の肌にて、綺麗なる者、心も真っ直ぐなるもので、これを人間の苗代に使うた。これは人間の母親なり。此の証拠に、伊勢の外宮様、天照大神宮様は此神なり。
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天輪王命は此の十柱の神の総名なり。此の神様は無い人間拵えるに付使た道具なり。此の者を神となして、人間の身の内、此の神様の守護なり。此の外に、何の処つても、(何処を尋ても《補・梶本本22》)身の内より外に神はなし。此の世の神や仏と云うて拝ましていたれとも、皆人間が、紙や金や木をもつて拵えたものばかりなる故に、どうも紙や金や木の中へは神が入り込むことは出来ずもの、人間には皆神が入り込み、何の守護もする故に、人間に勝れる神がない事なり。
此の度、天輪王の命と名を授け給うは、当年八十六才になる中山みき、此の者も、前部にある通り、若い時より、ただ、人をたすける心一条の者、此の心を月日しかと受け取り見澄ませば、此の者の魂と云うは、いざなみの命の魂を生まれさせおきた事故、四十六年以前に天降り、体内(註:しんたいとルビあり)を月日の社に貰い受け、心を天理に叶た故に、みきの代わりに此のやしきに天輪王の命と名を授け、又屋敷は人間宿し込み元のぢばの事故に、地め名に授け給うなり。
此の事、皆(取次ゑ《補・梶本本22》)聞かし下さる話と云うは、右みき人間の心なく、何の覚えもなく、月日様入り込み刻限をみて四十六年以前より今日に至りても、神の御話ある事を取り次ぎのものへと(聞かせ被下事なり。《補・梶本本22》)元十柱の神の魂を、一に人間に生まれさせておきて、それに月日入り込み、人間月日の使うた一の道具なる。
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此の度迄は此たすけ、教える事出来ず、故に、これ迄世界中に、拝み祈祷や、易判断、医者薬、これは皆人間の修理肥に教えある事なり。
これ迄に、人間の宿し込み相済み、又、人間生み出(したる《補・梶本本22》)人数の年限相過ぎ候。(故、元の神々の魂を《補・上田本20》)此のやしきへ生み出している。此のやしきは、人間宿し込み、三年三月留まりて、此のやしきより生まれ出るなり。此の世人間の親里なる故に、道具を貰い受けたる時に、人間の年限を経ちたならば、元の屋敷へ連れ帰り、陽気遊山を見て、楽しみ遊びをさせますとの約束ある故の事なり。故に、元の親を生まれさせおきて、その者を月日の社として入りこみ、たすけ教えるも、無い人間、無い世界を拵えたも、何の形もなくに拵えたは、六ツかしいことである。
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又、此の度たすけ始め教えるも同じ事にて、神の言う事は、これ迄に書き物にあることや、人間の知りてる事は言わん。これ迄ある事は、言うて教えるには及ばず。書き物にても無い事、人間も知らぬ事を言うて教えること故に、これ又むつかしい筈の事。
此の世は月日両人の身体なり。天地抱き合わせの世界。人間は、月日懐に住ま居して居るものなり。それ故に、人間のする事に、月日の知らん事はなし。人間は皆神の子なり。身の内は神のかしものなる故に、他人と云うは更になし。皆兄弟なり。
これ迄は、人間に病と云えば、医師、薬、拝み祈祷と云うていたれども、人間には病ないものなれど、人間には八つの心得違いの道がある故に、病の元は心からと云うなり。この八ッ心違いと云うは、ほしひ、おしみ、(恨み《補・梶本本22》)はらたち、かわひ、にくい、よくに、こふまん。これ八つの心得違いは身の内のほこりとなり、十五歳になる迄の子供のあしきは親のほこりを子に現れて意見する事なり。十五歳以上はあしき病や、不時災難、これ皆、その者は第一、家内中のほこり積もり重なる故、意見立腹。此の意見も憎さではなし、たすけたいから、心直す為に意見する事なり。此の親にたすけを頼むことならば、親の教えの道家内残らず、十五歳よりの、右八ッの心得違いを真実よりさんげして、此の後は、虚言(註:きよふげん)とついしょふ、よくにこふまんなき様にして、人をたすける心と入れ替えて願えば、その心を神が受け取りて、よろつたすけをするなり。
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尚、此の度かくらつとめを教えるは、これも、これ迄ないこと始めかけ、これは元十柱の神の姿の形を以て、かくら両人は、国常立之命に面足の命なり。男神、男の面を冠り、女神は女の面を冠り、つとめ手振りも、元の道具の雛形、形を学びをし、陽気遊山踊りをする事なり。この人衆十人、鳴物数九ツ以て神をいさめる事なり。人衆都合十九人にて、よふきつとめなり、よふきつとめをしてたすかると云うは、陽気遊山を見ようとて人間を拵えたる世界なり。依って元の姿を寄せて、共々勇むるに付、たすけるものは、たゝ、人間はそれを知らずして、人はどうでも、我が身さいよくばよき事と思う心は違うから、此の度のたすけ教えるは、あしきを払いて、陽気の心になりて願えば、神の心も人間の心も同じ事故、人間の身の内は神のかしものである故に、人間心を勇めば神も勇んで守護すれば、身の内あしきことはつとめ一条で、よろづたすけすると云うは、願い人は勿論、つとめの人衆も真実よりたすけたいとの心を以て願う事なり。
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人間、神のかしもの、身の内は、神の自由はおびやのたすけで思案してみよ。産の許しは此のやしきへ願い出るなら、腹帯要らず、凭れ物要らず、七十五日の毒忌みも要らず、身の穢れなし。常の通りに許す事、おひやたすけは、人間を拵えた神の証拠に、よろづたすけの道開けなり。
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又この先は、人間の心澄まして、何時迄居りても、病まず死なず、弱らずのたすけを教える。おびや自由、早めなりとも、延ばしなりとも、願い通り叶うようの守りだす。疱瘡せぬようの請け合いの守り、又は、悪難除けの守り出す。百姓のたすけは、萌え出(註:はゑで)の札、虫払い札、成熟の札、肥のさつけの札。肥やしのさづけと云うは、糠三合、灰(三《補・梶本本22》)合、土三合、都合九合調合して、肥一駄のたすけなり。これ皆守りは、千宛てつゞ、つとめにかけて出す。札は千枚つゝ一つとめにかけて出す。肥は百駄つゞ一つとめにかけて出す。これ皆かくらほんつとめなり。
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老母に赤き着物は、天照の如く、月日、天に現れて照らすは、両人の目なり。目は開く故に世界中明らかなり。それ故に、やしろの赤き故に、世界中は明らかなり。それ故にやしろ何の事でも見いるなり。それ故に他なる着物は着れば身が暗し故、着て居る事は出来ぬ事。此のやしろも同じ人間に候らえども、此の者は、元の親のいざなみの命之魂なる故に、何の処の者でもたすけたい、可愛いばかりの心なり。此の者を雛形として月日入り込み、たすけ教える事であるから、世界中の者、親里参り、親にたすけて貰おと思うて願うなら、又、此の親の心を雛形として心入れ替えば、たすけは勿論、善悪とも神より返しをする事間違いなし。
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人間拵えたのは此のやしきの中央にて、前の部にある通り、いざなぎの命へしやちほこを男の一の道具に仕込み、それに国常立之命を入り込み、どじよふ人間の魂として、いさなみの命へかめを女の一の道具に仕込み入れた。おもたるの命を入り込み給うて、人間の苗代として九億九万九千九百九拾九人の人数を南無々々と二人宛三日三夜に宿し込み、三年三月留まりて居りて、それより今の奈良、初瀬七里四方の間七日かゝり産み下ろし、此のぢばが神かたと云うのは此の処なり。残る大和の国中四日かかりて産み下ろし、これで十(一《補・梶本本22》)日がおびやあけと云う。山城、伊賀、河内、三ケ国十九日かゝりて産み下ろし、これ三十日をはんみやと云う。残る今の日本中四十五日かゝりて産み下ろし、都合七十五日の間かゝりて産み下ろし、これ故に七十五日の間はおびや中と云うなり。即ち、産み下ろし毎に親の息をかけて産み下ろしおく。このぢばは今の宮地の地場となりてある処なり。これにていさなぎ様は死亡する。
此の人間生まれ出しては、五分より生まれて九十九年目に三寸迄成長して、皆死亡す。又、元の人数を同じ胎内へ宿り込み、十月目より、又、諸処へ産み下ろし廻り、この地場は今の墓所なりてある処なり。此の人間も五分から生まれて、九十九年目には三寸五分迄成長して、皆死亡す。一度教えたる守(護で、元の人数同じ胎《補・梶本本22》)内へ三度宿り込み、又、十月目より、以前の諸処へ産み下ろし、此の地場は今のはらてらの詣り所なり。これを一みや、二墓、三原(註:三はら)と云う参り所なり。
此の人間も五分から生まれて、九十九年目に四寸迄成長す。いさなみ様はこれを見て、こゝ迄成長するならば、五尺の人間になると喜こんで、にいこり笑うて死亡なされ、また四寸の理と、につこり笑うた理を以て、生まれ出るところも二寸に四寸、死に行く穴も二尺四寸と云うなり。
又、此の人間も親の後を慕うて、残らず死亡す。それより、鳥類、畜類、虫螻(註:むしのら)異形の者と八千八度生まれ替わりた。故に、今人間は何もの真似でも出来る事なり。
此の年限は、九千九百九十九年目に死亡す。又、さるが一人残りいる。これはくにさつちのみことなり。此の胎内に、男五人、女と十人づゝ生まれ、此の人間も五分から生まれて、五分々々とだん/\成長して、又、八寸迄成長した時に、泥水、高低出来かけ、一尺八寸迄成長したに、子が親(となりて、元の人数生揃ひ《補・梶本本22》)水土分かりかけ、これより男一人、女一人と二人つゝ生まれて三尺迄成長した時に、天地海山分かりかけ、人間物を言いかけ、それで、今人間は三才で物を言いかけるなり。五尺成長する迄は水中に住ま居。五尺になる迄に、人間の成長に応じ、天地海山、水土速やかに分かりあり。
人数九億九万九千九百九十九人の内、大和の国へ産み下ろしたる人間は日本の地に上がり、外の国へ産み下ろしたる人間は食物を食い廻り、唐、天竺の地上がり行きたものなり。
此の年限九千九百九十九年之間水中の住まいす。地に上がりたるより四十六年以前迄の年限九千九百九十九年なり。此の内、六千年の間人間に神が入り込み、何事も教え来たる事なり。人間のする事を神が教えたる事は誰も知りたる者はない筈の事、人間を拵えても、これ迄人間に入り込んで、口を借りて教えたことは今初めの事故に、実に承知する者少なし。虚言(註;きよふげん)と思えば虚言となる。真(註;まこと)と思えば真なる。神の言う事は真実と思て願えば、拝み祈祷や、薬飲まいでも、話一条で皆たすかる事、これ証拠なり。
[14] [ 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14 ]
又、かんろだいを建てておくは、人間宿し込みたるじばの証拠に、元の十柱の神の謂うわれ形を以て建ておくなり。又この先は、世界中の心澄みたるうえは、かんろふだいの上に平鉢に食物を供え、それにかんろふを与え、これは人間の寿命薬となる、との御はなしなり。
人間には病なく、薬なく、毒もなくして、此の元は皆心から。人間は死に行くと云うていれども、死に行くでなし。身の内は神が退く事なり。死ぬると云うは、衣服を脱ぎ捨ているも同し事なり、神が教え給うなり。
(終わり)
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【データ入力にあたって】
(註1;文字をデータ化するについて、ひらがなの横に漢字を書くような書き方は出来ないため、横に書かれている漢字を用いて入力をする。また「ゑ」という表記は「へ」「え」に、「よふ」などの「ふ」も「よう」などの「う」に、「へ」も必要に応じ「え」とし、「ハ」「バ」は「は」「わ」「ば」とし、「わ」も必要に応じて「は」と書き換えた。)
(註2;文中の各註は漢字があてられた元の読み方又は字)
(註3:本文中に《重複》とあるものは削除した)
(註4:本文中に下線があるものには下線を施したが、傍点のあるものは傍点を附けられないので字の色を緑に変えて表示した)
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