2月7日
支部例会に配る印刷物の準備が終わった。
今日はなぜかイライラしている。
なんだろう?
午後から支部例会。
今朝、おふでさきを読みながら、親神様の「ざんねん」「親神様にほこりがたまる」という言葉が頭に浮かんで、離れない。
「くにとこたちのみこと」は、水の守護でとても冷たい。理の道理。これが曲がったならば、そのときその時の気持ちで変わったならば、理の筋道、真理というものも無くなる。絶対に曲がらぬから、人間もすべての物がこの地球上で生きておられる。
ところがその理を、自分の都合で曲げようとする者がいる。知恵を得た人間である。その者たちは自分の都合で自然を破壊し、無理なことを平気でする。そしてそれを咎められると、そんなことを言っても。。と聞き分けるどころかへ理屈を言って聞き分けようともしない。
「おもたりのみこと」は、ぬくみで火の守護。温かくなるのもこの神様がなければ成れない。
そして、元始まりの時、「くにとこたち」の相談を受けて、沿った神様であり、人間宿仕込みの時、「いざなみ」に入り込み、母親の役目をした神様でもある。
父親よりも母親の方が情に厚く、子供の悪さの肩代りをしてくれて、辛い中をも通ってくれたりする。
その母親の情に甘えて、子供が改心しないと、母親は疲れて寝込んだり、病んだりする。
すると、父親からの爆弾が落ちることになる。
はじめは口だけが、それでも直らねば手が出る。それでも直らねば勘当となる。
子供が大人になり、子供を育てて親の苦労が分かる。自分がしてきたことを振り替えれれば、そして反省をして改めれば、子供も変わり、良い親子となれる。。。
しかし、振り返らずに、親や子供を悪くしておれば反省はなく、その子供たちはその環境で育ち、その文化が出来てくる。
つまりは、元が狂えば、先も狂い、本来楽しく過ごせるものが、出来ない文化に生活をすることになってくる。
元は一つでも、何千年何万年と積み重ねてきた文化に、大きな違いが出てくる。
これは、表面的な事柄での、国のなりたちを考える一つの考え方。
元始まりで、ぢばで宿仕込まれた魂は、ぢば周辺へ段々と産み下ろされて、3度の生まれ変わりをしている。その内、ぢばから遠く離れたところに産み下ろされた者は、食い物を求めて遠くの地へ上がり、近くの者は日本に上がった。
ここに、日本に住むものと外国に住むものとの違いを示されている。
けれども、何千回何万回の生まれ変わりを出かわりで、それぞれの国に住める魂と住めない魂と、いんねんによって分けられて、生まれ変わっての今日である。
親を思う心が自然と使えるものと、使えないもの。
人の事を思いやれるものと、思いやれないもの。
などなど、簡単には分類出来ない人間となっている。
そして、それらの間での気付き会いの中である。
ましてや、地球に憧れて、人として生まれた魂もあるやも知れない。
すべては親神様の見分けによって。。。
こうした理の話を、人の上に立つものたちに納得させたい。
そして後に繋がる人々を育てて欲しい。というのも親神様の思いでもある。
上に立つものは、ここまで様々な経験をして、物ばかりを求めても幸せには成れないことを知ったはずである。
しっかりと心せねば、上に立つもののために、多くの者が苦しむ事になる。
上の者は自分さえいれば大丈夫と思っているだろうが、下の者がいなくなれば、上に立つものは生きて行けなくなるのである。
上に立つものに信頼がなくなれば。。。下の者は従わない。
この生まれ変わりの理を、多くの人々が知ったならば、従うことはなくなる。
しっかりと上にたつ役目を果たさねば、いくら可愛いと思っていても、その子供達が可哀想なことになりかねない。
親神様は、慈悲深くもあるが、理にも厳しい。
しっかりと心する必要があるだろう。
思うがままに。。。
今日も一日よろしくお願いいたします。
追記。。
思い浮かぶままに書いたら、イライラが無くなった。
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