あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

三才で出直すのも一生。。。(資料追記)そして、逸話編にあった。。

2023年01月13日 23時37分13秒 | 思った事
「3才で出直すのも一生」という言葉から。。。
近頃、「医者で延命治療をして貰いたくないと遺言をしている」と、良く聞く。
また、医者によっては、「延命治療しますか、自然に任せますか?」と尋ねる方もあると聞く。
ある方がこんなことを言っていた。
「私はおたすけも出来なかった。だから少しでも人のためにと、出直したら献体したい」と。
ところが、その話を聞いた子供たち(嫁や婿を含めて)は大反対をしたそうである。
「お母さんのお陰で今日がある。お母さんの身体をそのようにするのは、嫌だ」というのである。
周囲の心、これも大事である。
・・・
ここまで書いて、
表題とした「三才で出直すのも一生」とこれらがどの様に関連するのか?
と思う方も多いかと思う。
このおさしづを探したがこの言葉のおさしづは無かった。
しかし、以下のおさしづに関係するもので、山名大教会史での言葉であったと思われた。
No.  :(4巻2794頁8行)
明治30年7月16日朝 
『諸井国三郎渡台に付、部下重立ちたる者分教会に集まり御神前に御勤をなし直会頂戴の最中三才の小人身上一時迫りしに付願(十三日夜の事)』
さあ/\尋ねる事情/\、前々事情速やか許したる。だん/\よう/\の道を調え運んで、さあという一時の際、小人身上心得んという。心得んから尋ねる。尋ねるから諭そう。よく聞き取れ/\。国を立つ一時多くの中楽しみもあれば、又中にほっと思う者もある。よう聞き取れ。道のため教一つの理を聞いて定めた精神一つの理は末代という。この理をしっかり心に治め、辺所立ち越す処、勇んで/\どういう事もこういう事も、一度定めた理は末代の理という。さあ/\皆々それ/\治めてくれ。
『永井藤平同行の願』
さあ/\精神さえこうと言えば、明らかなもの。こうという精神あるなら、勇んで勇んで。さあ/\皆んな心に委せ置こう。
・・・・・・
そして、「山名大教会史」(昭和7年発行本)を見たところ、179頁「第10節 山名婦人会の創立と、台湾布教(その2)」にこの時の様子が書かれている。
 
台湾布教を志した 山名初代会長は自分自身で布教へ行くと心定めし、出発間際のお願いづとめをした時に、6女のなつのが突然ひきつけを起こしたのである。
そして、これを受けて、初代会長は
『たとえこの子が死んでも明日は出発するから、あとで葬式をしなさい。またどんな事があっても嘆くでない。定めたからには、台湾へ行って死んだら、また生まれ変わって来ても、台湾で必ず道をつけるから、しっかり心を定めていなさい』
と述べて14日に山名を立ち、16日におぢばで上記のおさしづを願い、おぢばを立ち、18日に日本を出発している。
 
この時にひきつけを起こした子供について出直したという記載はない。
しかし、初代会長の言葉から、生まれ変わりの出直しの教理をしっかりと心に治めておられる事が伺われる。
 
この他に、
子供で出直した事に関するおさしづを探したところ
明治31年10月31日 
『古倉槌蔵小人二才出直しに付、後々心得まで願(樫原所長)』
が見つかった。

No.  :(7巻6043頁8行)
明治31年10月31日 
『古倉槌蔵小人二才出直しに付、後々心得まで願(樫原所長)』
さあ/\尋ねる事情/\、余儀無く事情を尋ねるであろう。一度ならず二度ならず、出越して一つ事情、堪えるに堪えられん理であろ/\。一つ理を諭するによって、心を確に持って聞き取れ。これより先という、先(さき)と前(ぜん)との理を聞き分け。道のため尽して居る中、出越して居る中に一つ事情なあ、と思う。内々もこういう事と思う。よく聞き取れ、前々にもこう、一時こう、世上の人が何と思うやろ、更々思うやない。心沸かすやない。世上の理を見てたんのう。大難小難、道順序あればこそ大難小難。順序の理があるのやで。それ/\にも、その理を諭してくれ。内に居た処が、天災事情がある。前々事情分かりゃせん。前生一つの理のさんげという。これだけ諭す。成らん中、道のため運ぶ尽す理は、日々受け取りてあるで/\。たった一言(ひとこと)が、第一の理であるで/\。

「世上の理をみてたんのう」などの言葉から、いんねんの上に出直している事を思って、心治めて欲しい。と言われているように思える。

「大難小難、道順序あればこそ大難小難。順序の理があるのやで。それ/\にも、その理を諭してくれ。内に居た処が、天災事情がある。前々事情分かりゃせん。前生一つの理のさんげという。これだけ諭す。」といわれる、順序の理。さらには家の中にいても天災に合う事を思ったならば、すべては前生のいんねんによる事であり、こうした事をたんのうして順を追う事で結構になって行くと諭されていると思う。

さらには、

「成らん中、道のため運ぶ尽す理は、日々受け取りてあるで/\。」と、そのような大変な中でも、お道のためにと、心を運び身を運ぶ尽くす理は、親神様は毎日受け取っていると明言されている。

・・・・

上記の事を確認してから、ひょっとしてと「逸話編」を検索してみた。
すると、ここにあったのである。
以下に記しておく。
 
187
『ぢば一つに』
 明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀(ひで)が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい。」とお願いしたところ、教祖は、
「さあさあ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」
と、お言葉を下された。

 ここでは「三才も一生」とあるが「三才で出直すのも一生」と理解できる。

そして、前出の明治30年に、山名初代会長が台湾へ出発する際に、子供の身上を見ても「台湾で出直しても」と心定めた事を実行する信念は、親神様教祖に対して、またぢばに心を寄せる心の現れとして、この「一生三才の心」を貫かれたもののように思えた。

 ・・・ 

また、子供の身上について、「15才までは親の心の現れ」といわれるお話は有名である。
また、三才で物を言い始めというのも、三才までと三才からとの違いを現していると考えた時に、
出直しには、本人の意志とは関係なく訪れるものがあると言える。
また、今世で悪事を働き、牛馬として生まれる事、その後人間へと生まれ変わるまでの事。そうした魂が次に人間に生まれた時の状態を説かれた、生まれ変わりの話を思案すると、早く出直すことが一概に悪い事ではないと思えるのである。
エビや小魚に生まれたものに対する教祖のお言葉からも分かると思うが、おいしいと喜ばれれば人間に近くなるのである。
そして、こうしたモノたちの寿命は短いのである。
また、出直した後はどうなるかと言えば、物心ついて使う心は、その者の魂に徳不徳として、いんねんの元がついて行く。
先ほどのエビや小魚は「喜ばせたならば、その理で」というのがこれに当たるだろう。
つまり、この三才までの子供に関して言えば、そうした心も使わずに出直すことは、来生悪くなる事は無いはずである。
反対に親が、「お前のお陰でと」感謝をしたならば、よりよい魂となって帰ってくるのである。
先ほど、検体の話を書いたが、本人の意志とは異なった周囲の思いがある。
三才の子供に意思は無くとも、周囲の親親の心に思いがあり、その思いに対する出直しなり、身上であることを考えたならば、出直したことを喜び、来生素晴らしい人生を歩んでくれることを願う事が大切ではないかと思うのである。
人間は自分の考えで物事を見る。
本人と同じ思いになる事もあるだろうが、本人とは違った思いを周囲は思うのである。
そして、それに関わる人々が多ければ多いほど、様々な心が使われて、様々な問題が起きたりするのである。
大切なのは「心静めて思案する事だろう」
些細な事で、すぐに腹を立てる。
いんねんからなることを悟らずに人を恨む。
これは親神様から戒められている「ほこりの心」である。
親神様のご理想である「神人和楽の陽気ぐらし・陽気世界」を実現するには、どれだけ物が豊かになっても、それを扱う人間の心がそれを喜べなければ実現はしないのである。
今の与えを喜ぶ心。
人を思い、届かぬ人を届くように育てる心。
これを親神様から求められているように思える。
 
また、
私たちは、自分の希望ばかりを思って、親神様にお願いをする。
 
ところが、心のほこりが払われて、誠真実の心ばかりが使えるようになったならば、自分で願わずとも、思った事が思ったようになってくると教えられる。
 
この心のほこりを払う一連の工程、これが教祖のひながた、先人のひながたにあるのではないかとも思う。
 
 
 
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