1月18日の部内の大祭を終えてから、何かしら書きたくなってきていた。
ところが、コンピュータの調子が悪くなり、初期化したがうまくいかず、結局中古のPCに乗り換えることとなった。
その調整もようやく終わり、通常に使用できるようになった。
その間、フェイスブックに思いをつづってきたものを転記した。
その最後がこれ、2月2日にアルバイトへ向かう地下鉄の中で書き始めたものである。
・・・・・・・
2月2日 2・追記2月3日・追記2月3日2。。。
親神様は、天理王命として、かんろだいの据えられている元のぢばに名付けられ、そこにおられるとして、かんろだいを礼拝の目標とされている。
ところが、元の理からすると、かんろだいのぢばは、人間を宿し込んだ場所、「いざなぎ」と「いざなみ」様が、男女の道具を使い、「いざなみ」様の体内に、人間の種を宿仕込んだ場所。そして人間が生まれでるまでの間、滞在していた場所、地点を現している。
その場所を定めたのが、ぢば定めの時。
親神様のはじめの計画は、この場所に、人間を宿仕込み、育てる上に使った道具衆の魂を持つものを集めて、かぐらづとめをつとめて、不思議な現象を表して、人間の心を変えたいと言うもののだった。
けれども、集まった人衆は思うように仕込めず、不思議なたすけを妨害する者が多くあり、助けたくとも助からない人々が多い状況が露呈した。
つづく
2月3日追記
それ以外にも、せっかく渡したおさづけを自分の欲得のために使うもの、元の屋敷を蔑ろにするものなど、不思議を見せることでおごり高ぶる人間の姿も露呈した。
そして、それに対する対処も、さづけを止めたり、おやさまが自ら出張して取り払ったりと、ひながたに残された。
その一つが、かんろだいの石の没収による、助けの方針の変更である。
天理王命の名が知れ渡り、神名を唱えるだけで不思議が現れ、おやさまがうつしみを隠されて後は、おさづけを頂いた人々が現す、様々な不思議で、不思議な神が現れたとして多くの人々がぢばへと集ってきたが、その集う思いは様々である。
真に人助けを思うもの、欲得で天理教を利用しようとするものなどなど、千差万別な人々が集ってきた。
そして、集った人々を仕込むと共に見定めるために、様々な事柄を始め、また様々な事情が起こり、より信仰を深めるものもあれば、離れるもの、教えや組織を利用して自分で事を起こすものなどが現れての今日である。
なぜかんろだいの石の没収を契機として、道をかえたのか。
私はとても不思議だった。
それが、このコロナの事情、世界の大変動の事象でなるほどと思えた。
「いちれつ澄ますかんろだい」は、おつとめをつとめて、下がった甘露をおやさまから人々に渡すというもので、それを貰うためには心が澄んで誠が使えねばならないと言うものだった。
それを貰いたいと思う人々は、自らで心を澄ます努力をして、貰いに来るであろう。と思って段取りを組んだ。
ところが、余りにも心が澄んだものがおらず、心を澄ますということすら考えない、周囲の圧力妨害、習慣に捕らわれて、親神様の思いを分かろうとするものがいなかった。
これでは、せっかく付け掛けた道が遅くなるとして、おやさまの代わりに広くさづけを渡し、人々の心を澄ましてからかんろだいを建てようと、「あしきをはろうてたすけたまえ 天理王命」「あしきをはろうて 助けせき込む いちれつすまして かんろだい」と変更された。
つづく
2月3日- 2追記
そして、現身を隠されたのちは、真柱様を芯として、本席様を祖神様教祖の思いを伝える道具として、個人の助けに限らず、組織としての進め方などを仕込まれた。
この組織としての内容には、神一条と世上の理との区別と対応、会議など、入り込みについてなどなど多岐にわたる。
これらをどのように悟り、思案をして対処に用いるかは、人間の心にかかっている。
立教依頼187年がたち、教祖が現身を隠されてから140年がたとうとしている。
その間の道の歩みとともに、世界の変化を考える必要があると思う。
みかぐらうたの最後「止は大工」と言われているが、大工も一人ではない。
「大工の人も揃い来た」と複数人が必要となり、その大工に使われる道具もある。
陽気世界を実現することを、「陽気ぐらし建設」と表現することもあるが、これはこうした建築にたとえた表現からである。
重要なことは、陽気暮らしを実現するための人材、道具衆にもいろいろな特性があり、それらの持ち場立場で出来上がっていくのである。
ところが、せっかく誠を尽くして一つの道具として使われるようになったとしても、自分のことばかりに囚われて、自分と同じことをしていない人に不足をする場合がある。
これは厳に気をつけねばならないことである。
「誠の中のほこり」という話でこうしたことは教えられている。
良いことをしても褒められたら帳消しとして、褒められなくても喜んでつとめて陰徳を積むことを教えられたのと同じく、積極的にひな形をたどろうと動き出しても、動かない人を見て「なぜ動かない」と不足をしたならば、それは「誠の中のほこり」となってしまい、親神様の受け取りはほこりとなる。
どうしてこんなにもしているのに。。と思うこともあるだろうが、人それぞれに、前世からの持ち越したものの、重い軽い、多い少ないは異なるのである。
このことをよく思案して、日々努めることが大切だと思う。
掃除をするにしても、掃除の仕方によって使う道具は違うのである。
心の掃除の仕方も、され方もしっかりと学び思案をする必要があるだろう。
陽気ぐらし実現の道具となるか、ならないか。
また、良い道具となるか、悪い道具となるか。
それはそれぞれの心次第。
すべては、教祖が通られた道の中に、先人が通られた道の中に、ヒントが隠されている。
思うがままに。。。。
ところが、元の理からすると、かんろだいのぢばは、人間を宿し込んだ場所、「いざなぎ」と「いざなみ」様が、男女の道具を使い、「いざなみ」様の体内に、人間の種を宿仕込んだ場所。そして人間が生まれでるまでの間、滞在していた場所、地点を現している。
その場所を定めたのが、ぢば定めの時。
親神様のはじめの計画は、この場所に、人間を宿仕込み、育てる上に使った道具衆の魂を持つものを集めて、かぐらづとめをつとめて、不思議な現象を表して、人間の心を変えたいと言うもののだった。
けれども、集まった人衆は思うように仕込めず、不思議なたすけを妨害する者が多くあり、助けたくとも助からない人々が多い状況が露呈した。
つづく
2月3日追記
それ以外にも、せっかく渡したおさづけを自分の欲得のために使うもの、元の屋敷を蔑ろにするものなど、不思議を見せることでおごり高ぶる人間の姿も露呈した。
そして、それに対する対処も、さづけを止めたり、おやさまが自ら出張して取り払ったりと、ひながたに残された。
その一つが、かんろだいの石の没収による、助けの方針の変更である。
天理王命の名が知れ渡り、神名を唱えるだけで不思議が現れ、おやさまがうつしみを隠されて後は、おさづけを頂いた人々が現す、様々な不思議で、不思議な神が現れたとして多くの人々がぢばへと集ってきたが、その集う思いは様々である。
真に人助けを思うもの、欲得で天理教を利用しようとするものなどなど、千差万別な人々が集ってきた。
そして、集った人々を仕込むと共に見定めるために、様々な事柄を始め、また様々な事情が起こり、より信仰を深めるものもあれば、離れるもの、教えや組織を利用して自分で事を起こすものなどが現れての今日である。
なぜかんろだいの石の没収を契機として、道をかえたのか。
私はとても不思議だった。
それが、このコロナの事情、世界の大変動の事象でなるほどと思えた。
「いちれつ澄ますかんろだい」は、おつとめをつとめて、下がった甘露をおやさまから人々に渡すというもので、それを貰うためには心が澄んで誠が使えねばならないと言うものだった。
それを貰いたいと思う人々は、自らで心を澄ます努力をして、貰いに来るであろう。と思って段取りを組んだ。
ところが、余りにも心が澄んだものがおらず、心を澄ますということすら考えない、周囲の圧力妨害、習慣に捕らわれて、親神様の思いを分かろうとするものがいなかった。
これでは、せっかく付け掛けた道が遅くなるとして、おやさまの代わりに広くさづけを渡し、人々の心を澄ましてからかんろだいを建てようと、「あしきをはろうてたすけたまえ 天理王命」「あしきをはろうて 助けせき込む いちれつすまして かんろだい」と変更された。
つづく
2月3日- 2追記
そして、現身を隠されたのちは、真柱様を芯として、本席様を祖神様教祖の思いを伝える道具として、個人の助けに限らず、組織としての進め方などを仕込まれた。
この組織としての内容には、神一条と世上の理との区別と対応、会議など、入り込みについてなどなど多岐にわたる。
これらをどのように悟り、思案をして対処に用いるかは、人間の心にかかっている。
立教依頼187年がたち、教祖が現身を隠されてから140年がたとうとしている。
その間の道の歩みとともに、世界の変化を考える必要があると思う。
みかぐらうたの最後「止は大工」と言われているが、大工も一人ではない。
「大工の人も揃い来た」と複数人が必要となり、その大工に使われる道具もある。
陽気世界を実現することを、「陽気ぐらし建設」と表現することもあるが、これはこうした建築にたとえた表現からである。
重要なことは、陽気暮らしを実現するための人材、道具衆にもいろいろな特性があり、それらの持ち場立場で出来上がっていくのである。
ところが、せっかく誠を尽くして一つの道具として使われるようになったとしても、自分のことばかりに囚われて、自分と同じことをしていない人に不足をする場合がある。
これは厳に気をつけねばならないことである。
「誠の中のほこり」という話でこうしたことは教えられている。
良いことをしても褒められたら帳消しとして、褒められなくても喜んでつとめて陰徳を積むことを教えられたのと同じく、積極的にひな形をたどろうと動き出しても、動かない人を見て「なぜ動かない」と不足をしたならば、それは「誠の中のほこり」となってしまい、親神様の受け取りはほこりとなる。
どうしてこんなにもしているのに。。と思うこともあるだろうが、人それぞれに、前世からの持ち越したものの、重い軽い、多い少ないは異なるのである。
このことをよく思案して、日々努めることが大切だと思う。
掃除をするにしても、掃除の仕方によって使う道具は違うのである。
心の掃除の仕方も、され方もしっかりと学び思案をする必要があるだろう。
陽気ぐらし実現の道具となるか、ならないか。
また、良い道具となるか、悪い道具となるか。
それはそれぞれの心次第。
すべては、教祖が通られた道の中に、先人が通られた道の中に、ヒントが隠されている。
思うがままに。。。。