3月26日、ご本部の月次祭は雨の中だった。
中庭には沢山のパイプ椅子が並べられていたが、ほとんど座る人は無かった。
いつもは、祭典講話が終わると、北礼拝場前の賽銭箱へお供えをして、パイプ椅子でおつとめをして、教祖殿・祖霊殿の前で参拝をして境内地を後にする。
今回は雨で、パイプ椅子の置いていない場所で立って参拝をした。
そして、パイプ椅子でおつとめが出来ないので、礼拝場へ上がる事にした。
今回は、子供たち5人と共に参拝できたのだが、子供たちは礼拝場へは上がろうとせず、その場で立っておつとめをして車へ戻った。
夫婦二人で北礼拝場へ上がっておつとめをした。
久々に上がってみたところ、参拝者はソーシャルディスタンス関係なく、それぞれにおつとめをしている。
結構な事だと思った。
教祖殿に上がっても、同じ事、肩寄せあいながら、それぞれに教祖に御礼を申し上げている。
私はずっと「良い人が助かりますように」とお願いし続けてきている。
「コロナの終息や世界平和を願わないのか!」という方もあるだろう。
コロナも戦争も治まる事に越した事は無い。しかし、それは一時の形の治まりにすぎず、この事情を通して心を切り替えて、陽気ぐらしの出来る心に代わる事。
そうした事情や身上にあっても、大難にならずに、物事について学び悟りがつく事の方が何よりも重要だと思っているからである。
すべては、いんねんによってなってくるのであるから、それが分かり、自分の助かりだけではなく、周囲の人々の助かりを願い、そのための行動が出来る人が増える事が、何よりも大切だと思うのである。
さて、
世界情勢をずっと追い続けて来て、どれだけ情報に惑わされて来たか良く分かった。
さらに、もう気がついているだろうと思っていた人々が、情報に操られていく姿も感じた。
そこにあるのは、人間の深層心理にあるスイッチが、冷静な判断を出来なくしている原因であろうと思うようになった。
つまり、
今ロシアとウクライナの関係で大騒ぎになって、ロシアを悪として、日本の保守系の人々がそれに賛同している。
それまで、保守系の人々は、大手マスメディアのウソを仕切りに発進していたのに、大手マスメディアの報道を鵜呑みにしている。
そこには、日本国を守ろうという意識が働き過ぎて、これまでに領土をロシアに取られた、ロシアは悪という意識が自然と働いているように思えるのである。
それによって、意識が偏り、その奥にあるものが感じられなくなっていると思える。
これは私の経験であるが、
ある方の息子さんをお世話した時の事である。
そのご夫婦がとても気になった。
その息子さんの事よりも、夫婦の事が大切だと話をしたが一向に耳に届かなかった。
その方の兄弟の年祭の時にお会いして、その奥さんに「息子さんは元気でしょうか?」
と話しかけたら、突然、顔色が急変して、言動が変わった。
そして、ご主人が間に入って下さった。
息子さんに対する愛情がすごくある事は良く分かっていたが、それが異常すぎて、息子さんの名前を聞いただけで周囲が見えなくなるのだと初めて理解が出来た。
この方の言動は以前にも、普通と違うと感じていたが、そんなに会う人でもなく深く考える事もなかった。
その奥さんの様子と、今の人々の心理が重なって感じたのである。
このような事は、自分にもある。それは以前自分自身でも自覚して、そうならないように気を付けている。
自分の場合は、人に助かってもらいたいという思いが強すぎて、心配になると常にその人の事が頭から離れずに、常時その様子を見たくなるのである。
そうなると、他の事が手につかなくなる。
これでは自分自身の生活もままならなくなり、私自身の精神もままならなくなるのである。
そして、自分が良かれと思っても、反対になる事もある事を知った。
この事に気がついてから、自分ですべてを世話できるわけではないので、それぞれにはそれぞれのいんねんがあり、会わせて頂いた時に助かって頂けるお世話をさせて頂ければ結構。
と割り切り、朝夕にそうした方々が「良いように導いて頂けるように」とお願いだけする事にしたのである。
それからだと思うが、広く大きく人々や物事を見ることが出来るようになったと思っている。
そしてより一層、すべてはそれぞれのいんねんにより、親神様がそれぞれの成人の上に、事情身上をお見せ下さっていると感じるようになり、「私は周囲の人の成人を手助けする、一時的な一つの道具に過ぎない」とも思うようになった。
話を26日の事に戻す。
今回、ワゴン車の一番後ろの座席に、夫婦で初めて座った。
運転席助手席とその後ろの座席には、子供たち5人が乗っている。
後ろから見ながら、夫婦で子供たちの様子を見ながら、
「こんな日が来るとはね。あんなこともあったね。こんなこともあったね。」
と話し、
「今日まで30年余り、本当にありがたかったね。」
と話をした。
子供たちが大きくなり、それぞれに考え始めて、その考えで行動する姿を見るようになって感じる事である。
まだまだ、自分たち夫婦も成人途中である。
しかし、自分たち夫婦で四苦八苦しながら道中の経験があるから、子供たちの様子も冷静に見て、微笑ましく見れるのだと思った。
これから先が楽しみである。
私の望みは、長兄を中心に兄弟たちがまとまり、そこから周囲へとまとまる輪が広がって欲しいというものである。
形はどうなるか分からないが、
ブドウの房のように、丸い心でつながって欲しい。