第2章に入りますが、この第1節では、第2回目のおぢばがえりの様子が書かれています。
この中で私が気になるところを書いてみます。
①34頁後ろから3行目に
かくして、講社の激増するにつれて、講元はさらに深い十分なる教理と、「12下り」のおつとめの手の仕込みを受ける必要を痛感され、第2回目のおぢば登参をされるに至った。(読みやすく書き換えました。)
とあります。不思議な働きにより信者さんが増える中に、ただ助かればよいというだけではない、初代会長さんの心がここに分かると思います。
②34頁後ろから1行目に
明治16年8月29日に自宅を発足し、あらかじめ約束をしてあった木村林蔵氏、(後に山名大教会役員)と、浜松で落ち合って、この日は舞坂まで行って一泊した。(書き換え)
とある。この中の木村林蔵という方は、後の山名大教会役員でもあるが、愛知大教会においては、土岐分教会が設立される時に、初代会長になられた方でもある。(愛知大教会史第1巻 268頁)
②35頁は、とても不思議な事が書かれている。ご本席様に親神様が入り込まれてお話を下さる様子である。読みやすいように書き換えておく。
月を越して9月の3日に庄屋敷へ到着し、豆腐屋こと村田長兵衛氏方へ宿った。翌日から、高井、宮森の両氏が暇を見ては、るる豆腐屋へ来り、種々と深い教理を伝えては帰られるのであった。こうして教理の仕込みを受ける一方に、講元は村田幸助氏のご家内おすま様を師として、「12下り」のおてふりの稽古に力を注ぎ、わずか4日間にて全部を習得された。
この時のおぢばご滞在中に、講元は神様から、非常な結構なお言葉を頂いたのであった。
講元がおぢばへ着いて5日目、すなわち7日の夕方、飯降伊蔵氏(後のご本席)は、豆腐屋の前で、涼み台に腰を下ろして、夕涼みをされていた。するとにわかに、非常な腹痛が起きて、お苦しみの様子である。驚いて人々は小二階へお連れ申し、夫人のおさと様は直ちにこの事を、教祖に申し上げた時に、教祖は、
『そんなに、びっくり慌てずとも良いで』
と仰せられて、仲田儀右衛門氏を呼ばれ、
『早く扇を、伊蔵さんに持たせてあげなされ。それから遠州の講元さんも連れて行きなされ』
そこで、講元は呼ばれて、急いで二階へ駆けつけると、飯降氏は蚊帳の中で、たってのお苦しみである。その時仲田氏が、
『神様の仰せでありますよって、どうぞ扇を持って頂きたい』
と申し上げると、飯降氏はむくりと起きて座られた。そこで、仲田氏が扇を飯降氏にお渡しになると、その時、次のようなお言葉があった。
『さあ/\国を越し山を越し川を越しはるばる訪ねてきて見れば、ああこんなとこかいな、野原みたいな所と思う者もある・・・』
お側の方にもどういう事を仰せられたのか、分からなかったという。
その翌朝、すなわち8日の朝早く、講元はお屋敷へ呼ばれたので、急いで伺うと、その時、神様がお下がりになった。
『ウム、、、、、ン』という、非常に響きの籠った、力強いうなり声を発せられたかと思うと、飯降氏の顔色は神々しいくらいに活き活きと輝いてきて、身体のようすも盤石のようにしっかりとして来て、
『さあ/\めずらしい事や/\、くにへ帰って、つとめをすれば、国六分の人を寄せる、なれど心次第や』
とのお言葉を下されたのであった。講元は、この頼もしいお言葉を頂いて、非常に感激に打たれた。
ところが、先の『国を越し山を越し』云々のお言葉のあった7日の晩に、遠州から清水重作、中山吉三郎、田村権三郎、太田善五郎、守屋国蔵の5名が丹波市の宿、扇屋へ着いたのである。これには一すじの話がある。
この明治16年の8月の初め頃、遠江真明組の講社の仲間の間で、5円掛け程の無尽講(※)を拵えて、これをもっておぢば登参の費用に充てる計画が出き、その最初第1回のくじが落ちて、今の5人の人たちの大和行きとなり、講元の発った29日から4日遅れて遠州を出発し、伊勢をめぐり初瀬に出て、9月の7日に丹波市の手前の柳本付近にまで来ると、一行の中の清水重作氏がこう言いだした。
『聞くところによると、おぢばでは警察の干渉がやかましくて、参詣人をいちいち差し止めているという話であるが、一体どんな具合だか様子を探ってみて、それから参拝する事にしよう』
金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。
・・・・・
するとこれを聞いていた一行の中の守屋国蔵氏が、
『俺はそんなやかましい所とは知らずに来た。そんな、警察で止めるような所なら、何も俺たちは参拝せんでも良い。俺はこんなり今から国へ帰る』
と腹を立てて苦情を言いだした。何でも帰ると言い張るのを、皆で種々なだめて、しばらくして丹波市の扇屋へ着いた。早速お屋敷の様子を尋ねるため、村田、太田、清水の三氏が出かけ、守屋は調髪に行き、中山氏は一人留守居のために宿に居残った。夕方になって4人の者はそれぞれ宿へ帰って来た。その夜、講元と高井氏とが宿へ来られて5名の者に、
『今夜は早く寝て、明朝早く薄暗い中にお屋敷へ参拝されたがよい』
と注意して帰られたので、その夜は、一同は早寝をして、翌8日の朝未明に裏道をたどって、お屋敷近くの豆腐屋へ行き、講元の見えるのを待ったのであった。ところがその朝から、守屋国蔵しは急に胸が閊(つか)えてきて、物が食べられなくなった。食べても皆吐いてしまうのである。こんな訳で、守屋氏はとうとう三日間というもの、起きる事も出来ず床に横たわったままであった。
一行が8日の朝、豆腐屋へ来て待っていると午頃、講元が見えて種々話しのあった末に、
『昨夜、神様がお下がりになって、斯く斯くのお言葉があったが、何の事か自分にはどうしても分からぬ』
と前夜の『・・・国を越し山を越し、はるばるたずねて来てみれば』云々の事を話された。この話を聞かされた時に、5人の者は内心びっくりして思わず顔を見合わせた。そして一同の者から、昨日の守屋国蔵氏の一件をお話した。それを黙々と聞いていた講元は、
『そうか』
と言って深くうなずかれた。
11日の夕方になってお屋敷から『遠州の参拝者は皆来るよう』との使いがあったので、一同揃って伺うと教祖は
『ご苦労であった』
という温かいお言葉を賜り、続いて月日の模様の入ったお盃で御親から召し上がられた後、その盃を講元にお下げ下された。このお盃は現に、諸井家の家宝として丁重に保存されてある。この時から守屋氏も食事が食べられるようになり、当人も衷心恐れ入って、
『申訳がなかった。どうか皆様とご同道さして頂きたい』と懺悔をした。5名の者は勇んで帰国の途に就いた。
11日の夜9時、大阪真明講の講元、井筒梅次郎氏が諸井講元を尋ねて来て、明け12日河内、大阪、兵庫の各講社中よりお屋敷へ「おかぐら面」を献納するという事を話されたので、講元は、12日に帰るつもりで神様にお暇乞いまで済ませてあったが、1日出発の日を延ばした。翌12日の夕刻、「おかぐら面」は献納されたので、13日の朝これを拝見して、その日の夕刻、井筒氏と同道で大阪へ赴き、同氏方に三泊の後、15日の夜明け前にここを出発し、京都へ廻って19日に帰宅された。この登参から帰国する時、講元はその当時、講社の目当として祀られた「天輪王命」と記された、紙のお札と戴いて帰られた。
なお、ここに一言書き添えておきたい事がある。講元がまだおぢば滞在中の10日の午後に、講元は鴻田忠三郎氏に伴われて、長原村というところの、中村直助なる日本農会委員をしていた人の、試作田を見に行かれたが、その時講元は籾種数種を約束して帰られた。この一事が証明する如く、当時の講元は、まだお道一方で通るという考えはなく、何とかして宿志たる殖産興業をもって、国富を図りたいという考えに傾いていたものであった。この事は講元自身がその「自伝」(42頁)においても語られている。
今日はここまでにします。
どうか親神様、教祖。大難は小難にとお守りください。
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