あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

山名大教会史 第1章 第5節相次ぐ講元のおぢばがえり

2020年06月25日 11時37分48秒 | 旧山名大教会史

まずは、第4節で私が思う事を記述する。文章をうまくまとめる事が出来ないので、メモ書きのように記載する。参考に読んでいただきたい。

①山名の初代講元と諸井国三郎先生がなられるわけだが、この講元になる経緯は、諸井国三郎先生が助けの元であって、講元になったわけではなく。同じように吉本八十次氏に助けられた人々の推挙によって、講元になっている。この点も注意する必要があると思う。

②おぢばの高井先生方は、諸井国三郎先生ではなく、山名の人々からの願い出・依頼によって山名へ来られている点。そして、この山名へ行く道中も、親神様、教祖の不思議に導かれている点。

③おぢばの先生方が、山名へ来てのおたすけの様子。諸井家の仕事をすべて休みとして、使用人たちにおぢばの先生方の話を聞かせている点。村の長に道が付けば、その村中の人は「長がいう事ならば間違いはない」と信じて、反対することなく話を聞く。上の者に道がつけばという言葉通りだと思う。これは会社の社長に道の教えが入り、日々の訓示にまた経営に教えが生かされれば、自然と従業員は教えを身につける事となり、陽気ぐらしが広がる。それとも重なる事だと思う。

④「天輪講」と付けた名称を「真明講」と改めた理由。人々が信仰の系統を重視していた証と見れると思う。

⑤諸井国三郎先生が留守中でも、奥さんの話でおたすけが上がった点。話の旨い下手ではないという証と思う。

などが、私が気になった点である。これらの詳細を述べるのには時間がかかるために、省略するが、「おふでさき」や「みかぐらうた」はたまた、先人の先生方に教祖が話された事が、これらに現れていると思えるのである。

では、第5節を掲示する。

大変長いので、途中に思う事を書いていきたいと思う。

①おぢばの先生方によるおてふりでは1下り目までしか学べなかったので、講元自ら2回目のおぢばがえりにて12下りまで学んでいる。

そしてこの時に承るお言葉「さあ/\珍しい事や/\、国へ帰ってつとめをすれば、国六分の人を寄せる。なれど心次第や」の「心次第」という言葉、これがとても気になる。

②明治17年、3回目のおぢばがえりには、今の団参の元となるようなことをされている。この時の話が、『逸話編』「137 フラフを立てて」 に書かれているが、この逸話編の詳細をここで知る事が出来る。

③お面のお許しのところでは、この時に教えられたおつとめは、すわり勤めではなく、立ってつとめるかぐらづとめの手を教えられていたことが分かる。

そして、月々のつとめにかぐらづとめが行われたが、明治22年の山名分教会の開筵式には「面はぢば限り」とかぐらづとめの理を明確にされている。

この32頁の「面はぢば限り」と書かれている後に、「山下丹蔵氏宅で、一度だけ勤められたことがある。(中略)明治19年に講元へ願い出たものであった。」とある。この「講元に願い出た」という点も気になるところである。

④33頁の家業がうまくいかなくなった時に、奥さんの口から「いくら働いても、これでは楽しみがありません。いっそ商売をやめて、わずかでも農業をしながら、信心に来るお方をたすけさせて頂く方が、よろしゅうござります。もうお金も衣類も、何もいりません」とでた言葉が、一番大切な事ではないかと思う。

このだいぶん後になって、愛知大教会において、会長不在で2代会長が決まるまでの間、山名初代会長が直接指示をしていた時に、負債の事情が起きており、その事情解決のために、熱田の3代会長は渥美に行くこととなり、熱田分教会はまた会長不在となる事もあった。

④家業をやめてからの苦労。長女たま様の後押しで暮らしを立てながらの信者の丹精。これは、お屋敷が貧のどん底にあった頃、また信者が出来ても、その信者たちがお屋敷の暮らしを支えるようになるまで、梶本家に嫁いだおはるさんが、なにくれとなく支えた姿と重なるのである。

そして、奥さんの苦労は、色々な事しながら教会を守りながら、来る人々に話を取り次きおたすけをする、住み込み人の姿と重なるのである。

そして、半年間、心を決めて共に歩む信者が入り込み、教会の元を作っていく。これは、青年づとめともいうものではないかと思える。のちに長男政一氏が、おぢばへ青年として入り込み、多くの先生方から教祖のお話を書きとり、教えをまとめる一助となるのである。

⑤37頁 末代の伏せ込みとして、明治17年におびや許しを願い出た話があるが、これは、『逸話編』151 をびや許し に書かれている事柄である。そのおびや許しの結果とそれによって、その夫人が願って、他の人がおびや許し通りの御守護を頂いている記載がある。

おびや許しはご本部に帰って、願い出るものであるが、ご本部の出張場所としての役割ゆえの不思議な働きのようにも感じる。

⑥39頁 埼玉県から来た人とおぢばの人々との言葉の違いから、その間を取り持ったという事は、今の通訳と重なり、それによって「諸井さん、東の方はあんたに任すで。」とのお言葉は、今でいうところの海外での伝道庁や出張所の役目を言われているようにも感じる。

⑦40頁 娘の突然の出直しという節を見せられて、即座におぢばに帰り、自分の間違いを正そうと願って、教祖のお言葉を頂いている。この話も『逸話編』187 ぢば一つに に記されているが、その悟り方がここに記されている。

そのお言葉「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」の「一方流れても・・・二方流れても・・・」という言葉が、私は以前からずっと気になっていた。

私たちは出たものすべてが十分にある事を望む。しかし、自然の中では様々な事が起こる。現在の新型コロナしかりである。この時に、十分ある事ばかり、完璧に出来る事に心をとらわれて、本当の事を見失って先に進めない事が多いのではないかと思うのである。教団でいえば教会や信者さんの数など、また家庭では子供もそうであるが、寿命や仕事など、様々な事についてこれは当てはまると思う。

何よりも大切な事、それはここに記された「太い芽」を出す事ではないだろうか。そのために必要な事は、教祖の言われるように「ぢばに心を寄せる事」「心をつなぐこと」だと思う。そうすれば、必ず残るものがあって、そこから太い芽が出るのである。

また、おぢばに心を寄せている先生の、小さい子供の出直しについては、『逸話編』184 悟り方 に、梅谷四郎兵衛先生の娘さんが無くなった話で、「それは良かったなぁ」「大きい方でなくてよかったなぁ」と、いんねんの中にあって喜べない中も、喜びにかえる事を教えられていると思う。

⑧ 明治20年4月14日に五女として「ろく」様が生まれる。そして親神様は、明治21年2月13日に、この生後10か月のろく様に、「水のさづけ」をお渡しになり、山名に置いてのさらなる不思議をあらわされることとなるのである。

世の中には、幼くして、自ら望むわけでもなく、不思議を見せるようにな人も良く聞く。そうした人々の心情や、神様からの役目を持つ人について、このろく様の話を読む中に色々と思える。

・・・・・

私が思い感じる事は、簡単に書いて上記のような事である。皆様方はどうのように感じられるでしょうか。

さて、山名初代会長、また共に歩まれた先生方の苦労と、親神様に対する心得の仕込みについては、あらまし知って頂けたかと思い、ここで愛知大教会史に戻りたいと思っていた。

ただ、旧の山名大教会史を読んだ自分としては、初めてのおぢばがえりのところでも、もっともっと山名初代会長の心を見定めての、親神様のお導き、また周囲の先生方への導きを感じる事が出来ると思えた。

旧の山名大教会史は、字体や言葉遣いが現在の元とは多少異なり、読みにくいところがあり、本当に興味がなければ読むのは難しいのではないかと思う。けれども、新の山名大教会史を読んだ後ならば、読めるのではないかと思った。

そこで、現在提示した部分のみ、次に数度にわけで提示しておこうと思う。

 

一人でも多くの人が、親神様の御守護が感じられることを願って。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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