前回は「元の理」を「こうき話」で補完しながら、見て見た。
今回はそこから思われることを書いてみたい。
まずは、1回目の宿仕込みと、2回目の宿仕込みの差を考えて見たい。
1回目は「ウオ」と「ミ」がいての宿仕込みであるが、2回目は「ウオ」は隠れて、「ミ」だけでの宿仕込みとなる。
この事をずっと、不思議に思っていた。しかし、先日風呂に入っていた時に、ふと「月」「日」は「ウオ」と「ミ」に入り込んだ事を思った。
「こうき話」では、月日の心が入り込んだとある。心も魂も目には見えない。「ウオ」は隠れて魂となり、それが他の生物の中に入り込み、男一の道具の働きをして「ミ」と宿仕込みを行ったらどうなるだろうかと思えたのである。
今回この「元の理」を考えるきっかけになったのが、新型コロナとワクチンである。
なぜかというと、両者とも遺伝子を扱っている事から、この「元の理」を遺伝子で考えてみてはどうかと思えたからである。
遺伝子と考えるとき、「ウオ」と「ミ」が月日に食べられない事はとても重要な事と思える。
つまり「ウオ」と「ミ」の遺伝子が掛け合わさって、一回目の人間が生み降ろされた。この者たちの姿については記述がないから分からないが、地球上にあるほとんどの生物が、同じように男女の性があって生殖の働きで子孫を作っている事を思うとき、「ウオ」「ミ」が生殖の働きのない者に入り込んで生殖が出来るようにして、人間のたねを宿しこんだのではないかと思えたのである。
いくら生殖の機能があって子孫を増やしたとしても、月日に食べられた「ドジョウ」による「人間のたね」が入らなければ人間ではない。
ここで疑問を出してみたいと思う。
一つは、道具衆以外の生物がいたのかという疑問である。
これについては、「いない」という言葉がないわけで、他の「ウオ」や「ミ」が入り込める生物があるとすると、それらの生物によって、生殖が行われて、遺伝子のかけ合わせが行われて、新しい生物、姿をした人間が生まれたと考えられないだろうか。
それが、「虫鳥畜類と八千八度の生まれ変わり」という表現ではないかと思うのである。
そしてまた、この生殖の働きで出来たものたち、「虫鳥畜類」はすべて、十柱の神の働きでの体形、5体をしている。
その畜類の最終が「めざる」となり、その「めざる」の腹に「ウオ」の働きで何かの生物との生殖が行われて、今の人間の姿が出来た。と思えるのである。
また、生殖機能がない生物に生殖機能をつくれるのか。という疑問も出てくると思うが、これについては、不思議なおたすけの話に、目の無い人に目をさづけたとか、足が曲がって立って歩けなかった人が、普通の人のようになって歩けるようになったという話しもある事を考えれば、ない所に作る事も、変化させることも親神様には簡単な事だと思う。
それを繰り返して、今の人間の姿にしたと思うのである。
これが本当かどうかは分からないが、人間が虫鳥畜類と形を変えて今日の姿になったのは、胎児の変化からも考える事ができると思う。
今回はここまでにする。
人間の生まれ変わる年数。人間の数などについて考えて見たい。
親神様・教祖、今日も一日ありがとうございました。
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