葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

空しく響いた施政方針演説

2010年02月02日 20時49分10秒 | 私の「時事評論」
空想と現実の違い

――鳩山首相の施政方針演説

 鳩山首相が施政方針演説を行った。長年続いた自民党政権に代わり、日本を変えると意気込んで出発した鳩山新内閣なので、その初めての演説に注目したが、熱弁に彼なりに精一杯の夢を託したものだったのだろうが、残念ながら私の胸を打つ感激は乏しかった。

 首相就任以来、何とか日本を良くしようと、彼は頭に浮かぶ様々な問題に手をつけようとしてきた。沖縄の基地移転、コンクリートから人への政策転換、子供手当の創設、役人から政治を取り戻す試み、独自の外交方針・・・。

 彼はその説明に派手な形容詞を連発した。言葉は派手に躍ったが、具体性はその割に乏しく、期待に反して実情は、背策がどこか浮き上がって、国内を混乱させるばかりになった。

 なぜそんな結果になったのか。首相には理想する大きな夢があるのかもしれない。彼が何かを夢見ている点は私も理解はしている。だが、彼には、それを実現させるための、今までの経験や研究の積み重ねがない。花火は現実を冷静に確り見た上のものでないので、政策は打ち出されても、空回りを重ねてしまっているようなのだ。
          ○
――実際政治はぼんやり空想した架空の虚像ではない。

 毎日動いている生々しい国民の営みに方向付けをして、かくありたいと思う理念で牽引していく不断の積み重ねでなくてはならない。
 唐突な現実とはつながらない思いつきでは、木に竹を接ぐような結果になり、混乱を巻き起こして国民の毎日の営みを破たんさせる。政治は生き物であり国民の生活を左右する。モルモットで実験するような動物実験てき変革などは許されない。

 首相は9月に就任以来、耳触りは良いが内容なき形容詞ばかりで飾ったステートメントばかりを記者会見で、あるいは国会の答弁で連発してきた。現状の認識がしっかりしていないので、それらはことごとく長期の展望を欠く衝動的なものと受け取られ、無用の混乱ばかりを生じ、日本を取り返しのつかない状況に追い込む結果を積み重ねてきた。人は彼の発言をパフォーマンスと表現した。今回の施政方針演説もまた、その延長線上にあったようだ。

――彼に欠けているのは基礎認識なのではないか

 いままでの彼の描いた構想が、世間知らずのお坊ちゃまが述べるような浮き上がったもので、現実とうまくつながっていないことには、本人も気付き始めたのだろう。自信の喪失といらだちが彼の表情には強くなり、最近の記者会見する首相の目は、日ごとに焦点が定まらなくなり、最近は放心したように虚ろになってきた。

 このままでは早晩、首相の空想的青写真のもたらす現実とのギャップがますます大きくなり、内閣は追いつめられる。

 彼自身もそんなことに気が付いたようだ。施政方針演説をする彼の表情は真剣だった。
 しかし演説の内容は、やはり具体性を欠いていた。

 今回の施政方針演説は、思い詰めた彼が、起死回生を目指して国民に訴えようとした彼の情念を示す絶好のチャンスであったようだ。
 そのため、具体的な新年度の予算を説明するより、自分の心の内にある思いを託すことに重点が置かれていた。

 「生命の尊重、生命大切さ」と何十回と繰り返して絶叫する鳩山さんの懸命の叫びの裏に、そんなドンキホーテのごとき姿を思い重ねながら聞いた。

 それは今までの歴代首相の施政方針演説よりも情熱を込めたものではあった。

 彼の心の中にある優しさも、演説の端々に感ぜられるものであった。その点で彼を意欲なき無神経な政治を道具にする低俗政治家とはひと味違う男であることを示すことはできただろう。

 だが、その政策はいかにも空想的な、現実の政治の現状を見ない甘いものだと感じさせざるを得なかった。

 政治とは、生々しい権力のぶつかり合いをうまく乗り切っていく力のせめぎ合いの闘争でもある。学生が机上で描くような安易さで、生きた政治を軽々しく転換できるものではない。このままでは早晩、鳩山内閣は自ら崩壊をするのではなかろうか。

 鳩山首相はこの上に、まだ条件を背負いこんでいる。彼自身や、彼が全面的に頼りにしている小沢幹事長をめぐる黒い霧とスキャンダルなども大きい。実現不能な夢をまき散らすこの政府の余命も、このままではあまり長くはないと私は確信している。

――曲がり角に来ている今の日本

 いまの日本は戦後六十数年、いわゆる戦後民主主義の時代といわれる辿ってきたコースが行き詰まり、抜本的な方針の転換をして新しい生き方を模索せねば、生き残るのが困難な時代に直面させられているということができるだろう。

 社会を支える協力の心を放棄して、ひとつにまとまる意識も忘れ、人にやさしく接する道徳心も教えられず、将来の日本を考える供えも忘れ、ただただ目先の享楽的満足のみを追い求めてきた日本は、一時はそれでも経済的な側面では大いに成長したが、国内の社会の組織がすっかり劣悪な条件に陥って先の見えない時代に突入してしまった。いま、日本に求められている政治は、国民に、将来のために目先の苦痛を我慢して協力して国や社会の体質改善を求めるべき時に来ていると私は思っている。

 真に日本の将来を思うなら、首相は目先の快楽のみを追い求めて安易に流れ、意欲を失った国民に、表や任期を当てにして媚びるのではなく、日本が厳しい現実に直面していることをしっかり示し、容易ならざる問題点を指示して覚醒を促し、目先の苦痛を我慢して協力し合って明日のために努力することを訴える時なのだと思う。

 いまの日本の置かれている状態は、戦後60年以上続いた目先の享楽のみを追い求めるエゴイズム文化からどうして脱却するかを模索すべき時だなのだと知らねばならない。

 経済は膨大な赤字国債で、戦後の蓄積のすべてを吐き出してしまって終戦直後のような状態にある。田畑はつぶされ山林は荒れ、全国に散在していた日常商品を購入するための商店街もなくなり、地方産業も軒並み衰退した。経済効率主義ですべてのものを値の安い輸入に頼り、物流は効率的なスーパーに頼り、将来の危機に備える新調査などは忘れて暴走してきた結果である。また、戦後経済と同様に、日本は戦後の六十数年の先を考えない無責任な生活で、いままで蓄積してきた日本文化の果実の大半を食いつぶしてしまった。

 家族や隣人などを基礎に作られていた社会を円滑に維持する機能も失われ、治安がよくまとまっていた日本の社会は、子供を社会で育て見守る環境も破壊され、老人は放置され、犯罪も増加し、見る影もない有様である。

 日本はアジアの遥か海の果ての一島国としての世界でも珍しい安定した一国としての独自の文化を築き上げてきた。

 海に隔てられていたため、歴史の断絶の危機がそれほど強くなかった日本は、二千数百年も皇室制度という古い時代の遺産を工夫して存続させ、歴史の集積の上に独自の文化と、そこに生きる民族の気質を培ってきた。

 私は何もここで極端な民族主義論を展開する気はないのだが、その日本の文化は、世界の中で極めて異質で、その民族性も激しい生存競争に苦しまずに、穏やかな気象の中で年々繰り返されてきた生活によって極めて特異なものとなってきていた。

 そんな我が国が産業革命を経験し、いままでは交通の障害であった海が舗装道路のように自由に往来できるようになった近代の波風に対応するために、明治維新を成し遂げて近代化への対応をしようとしたが、その流れの中で、どこから間違ったのか世界を相手に戦争しなければならない時代に突入し、その結果、こっぴどく痛めつけられたのが60数年前の敗戦であった。

 敗戦後の日本は、本来ならばそのような歩んできた時代をしっかり認識し、分析して、何が躓きのもととなったのか、生かすべきものと変えるべきものを自主的に判断して、これからの日本がどう進んだらよいかの青写真を描いて出発するべきだった。

 政治も、そんな視点を大切にすべきだったのだが、占領中に占領政策により、安易に気楽に生きる道を教えられた日本の政治は、それを実践することなく、アメリカ進駐軍の定めた道に従って、ずるずるここまで歩んできた。

 だが日本は異文化の戦勝国アメリカの占領統治のもとに入り、彼らの「二度と日本が彼らの脅威となる国に育つことのないように」との占領行政によって、自らの歩んできた道は古くて役に立たないものであり、国民は国などのことは考えずに、ただただやりたいように動けばよいのだとの洗脳をされ、独立が回復してのちも、ほとんどそのままでやってきたのが戦後日本の歴史は、それが60年も経過すると、さすがにそれではまともに行かない事態になり、大きな決断を迫られるようになっている。

 だが、前を向いて日本を再びまともな道へと向かわせるのには、世間には戦後の歪んだ文化環境の中で、祖先たちが営々と積み重ねたものを捻じ曲げ、悪し様に罵ることが「近代的」で新しいと信ずるようなおかしな戦後の迷信を排除することなど大きな課題が残されている。いまの日本はそんな戦後の文化の辿ってきた行きつく果てで悩んでいるのだ 。

――世界が大きな波動の展開に立ち向かっている

 しかもこの日本がこんな状態に置かれているこのときは、第二次大戦終了以来の世界的な大きな経済の潮流が変化しての不景気と重なっており、もうちょっと大きな目で見れば、産業革命によって世界を支配した西欧諸国から主役が他の諸国に交代する大きな波の周期とも重なっている。

 民主党の鳩山氏が今までのままで行けば、日本の今後の円滑な維持は不可能と見たのはそれで理解もできる。現象の認識だけは当たっている。

 だが、それに打ち勝つ新しい構想は、小手先細工では乗り切れない。過去の歴史をしっかり眺め、その上に新しい文化の柱を見据えて道を定めなければならないものだ。

 日本が世界が歩んできた歴史をしっかりと認識し、あるべき我が国の姿を突き詰めて、そこへ現実とのつながりを持たせて、その目的のために一つ一つの問題点を改善し、ひいては日本の生きていく道を健全に建てようとする慎重な研究の上に立つものでなければならないのだと私は思っている。

 鳩山首相の示す政策の基本には、日本の安全の基本である国防を、アメリカというまるで日本の宗主国のようにふるまっている米国に、一方的に従属し、頼っていてよいのかどうかという問題や、いま、経済的に大きな勢力となり、今後は世界経済の大きな勢力に成長するであろう中国やインド、ベトナムなどのアジア諸国にどのように接近していくかの問題、おかしな国内の戦後の空気の中で必要以上の少子化現象を招き、人口比率が極端に歪んでしまった日本をどうするかの問題など、様々な問題への悩みがあるのはわかる。社会秩序が破壊され、日常生活が不安定になっている現状への問題意識もあるようだ

 だがそれらの問題を解決するに際しては、それが単なる空想ではなく、現実の政治として効果を発揮するためには、それらを生んだ根本にある、どうしてこれらの歪んだ状態が生まれたのかとの認識、前にもあげた戦後体制からの方針変化が付いて回らなければならないと私は確信している。だが、彼はそこまでは突っ込んでいない。

 今後の日本が世界の中で発展していくためには、日本としての独自の特徴を生かし、それを世界に示すことによって、日本としてのプレゼンスをはっきり掲げ、国民にも徹底し、自信を持って発展することがなんとしてでも必要である。

 私は過去の歩んできた日本の道から、それらの美点を再度拾い上げ、誤った点を改善し、日本の文化と個性をはっきり打ち出すことが、何にもまして重要であると思っている。

 小沢外交といわれるように、まるで古代アジアの遺物のような対中朝貢外交に流れるような卑屈な方針を模索したり、地域の群集心理を基礎に国防方針の変更を狙ったり、日本に生きている皇室と政府や国民との関係を無視して文化の柱を破壊しようとしたり、戦後の歪められた親子関係の問題、社会の環境を無視して唐突に子供手当の支給を支給してみても、日本の将来の発展にはつながらない。

 子供たちの立身出世の理想の人物とされるべき横綱朝青龍、「末は博士か大臣か」と言われた政治の実質的な中心である小沢政府与党幹事長、そして総理大臣である彼自身までが、汚い世相の中でイメージを損ねながらも君臨するこの社会、そこをもう少し眺めて考えてみてほしい。