面白草紙朝倉薫VS安達龍真

夢と現実のはざまで

理不尽であるが故に

2008年06月03日 | Weblog
 マナーモードに設定した携帯電話器が机上でひっきりなしに震える。原稿に集中しようとする僕を嘲笑うかのようだ。人生は理不尽である。若さは思いの他早く消え失せる。覚醒した脳味噌を気圧が押し潰す。「誰のせいでもありやしない、みんなおいらが悪いのさ」尾藤イサオ歌う「悲しき願い」がリフレインする。アメリカンポップスが大流行した1960年代の前半、僕はNHKのドラマ「ホームラン教室」で活躍する同級生の小柳とおるに嫉妬する小学生から、姉のレコードや映画雑誌で知ったポール・アンカやニール・セダカにあこがれる少年に変貌し始めていた。映画「誰よりも君を愛す」のヒロイン叶順子が夢に現れてはセーターを脱がせてくれと僕にせがんだ。その夢は、山道を揺れる赤いボンネットバスの最後部座席で、僕が汗をかきながら叶順子のセーターを脱がせると、彼女は切ない喘ぎ声をだし、バスの乗客が全員僕らを凝視するので、僕は焦ってセーターを彼女の首に引っ掛けてしまうのだ。そこで、マヒナスターズがすかさずコーラスを入れる。「誰よりも誰よりも、君を愛す」

 さすがに、この夢は姉にも母にも話せなかった。50年後も記憶の小箱に残っていたとは、自分でも驚きだ。大方の夢は玉手箱の煙の様に消え失せたと思っていたが、煙になっても何処かで漂っていたのだろう。ちなみに、映画で叶順子のセーターを無理矢理脱がせたのは、川崎敬三であった。熊本の田舎町にある映画館のむせるような熱気の中、小学4年生の僕が何故あの映画を見たのか、経緯は思い出せない。しかし、超満員の映画館に充満した幾つもの安香水の匂いは、50年後の現在も覚えている。日活の大スター浅丘ルリ子より、僕は大映の叶順子が好きだった。長じても、オードリー・ヘップバーンより、マリー・ラフォレに肩入れする少数派である。見せかけの清純さには騙されない自信があると自負していたが、林真理子著「RURIKO」で、少年時代の審美眼が確信出来た。やはり、騙されるのは多数派である。例え騙されても怒ってはいけない。「みんなおいらが悪いのさ」と、照れ隠しに歌えば良いのだ。虫も殺さぬ顔して、騙すのが女優の仕事である。暴いてはいけない世界もある。煙となって消え失せてから後悔してもあとの祭りというものだ。理不尽である事を哄笑おう。

 

巷の雨に濡れながら

2008年06月03日 | Weblog
 疼く頭蓋骨をなだめながら1日物書きをして過ごそうと思って珈琲を淹れていたら、マネージャーのKくんから電話。中新のパスタ屋で待ち合わせてブランチを摂った。30年を越える付き合いのKくんも田舎に86歳のご母堂がご健在だ。最近、「私が死んでから来るのだったら、暫くでも一緒に暮らさないか」と誘われたらしい。それも良き選択かも知れない、と僕も賛成した。勿論、彼がこの業界で遣り残したことは多々あるだろう。が、人間にも潮時がある。このところ、僕の周囲の芸能界に活気がない。春夏秋冬、季節があるように、華やぐ夏もあればコートの襟立てる冬もある。抗っても詮無いことだ。梅雨入りには早い雨に濡れながらひとり坂道を登れば、僕の体内で続く地震の余波が、不気味に皮膚まで伝わってくる。

 ヒリヒリする人生を駈けて来た。8月2日で60年だ。老いぼれたとはさらさら思っていないが、他人から見ればドンキホーテであろうことは自覚している。なおも生きろというのであれば、身体中にダイナマイトを括りつけて、片っ端から言葉の弾丸をお見舞いしてやろう。安らごうなどと思ったことが、そもそもの間違いだった。94歳の父がいて、32歳の息子がいる。両方から笑われ、心配される、おつな人生である。真ん中が先に逝ったら洒落にもなるまい。

助けられてばかりいる。

2008年06月03日 | Weblog
 ライフワークと決めて立ち上げた劇団も16年目になる。スタッフに、俳優に、そして応援してくださる皆様に、助けられて今日まで続いた。助けられながら、7月公演のことばかり考えている。隠してある裏設定をいくつか小出しにするべく、台本を練り直している。時間の経つのが早い。並行して2本の小説も書いている。自慢ではない。発表の当てもない小説である。W氏に依頼されたアイドルユニット「オレンジミクロ」の曲も二曲、ほぼ仕上がった。衣装まで相談されるとは思っていなかったが、劇団にないわけではないので、レンタルすることにした。ライブ,頑張って下さい。

 さて、僕らの「少女人形舞台」も、日曜日に第2回目のスタジオライブが待っている。ほのぼのと、心が寛ぐライブです。どうか、一度お越し下さいませ。夏が過ぎたら、出張ライブも計画しています。長年の夢だった旅回り一座の暮らしがもうすぐ出来る。47都道府県、隈なく巡演するまで、この命、果てずにいて欲しいものだ。いつか、助ける側に回れる日まで、御免と謝るばかりである。