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私の視点 “無責任男”青島幸男さん逝く

2006-12-22 12:01:11 | Weblog
 青島幸男さんが20日、他界した。

 まさに、「昭和」を生き抜いた男であったような気がする。それも、名前の通りに幸せな人生を歩んだ男であったように見える。

 私は30年以上前、青島さんに一度だけインタヴューをしたことがあり、その後もずっと彼の生き様に注目してきた。

 インタヴューをしたのは74年のこと。参院議員2期目の選挙の際、青島さんは街頭演説などの選挙活動を全く行なわず、選挙期間中には夫婦で海外旅行に出かけるという前代未聞のスタイルを実践して世の中をアッと言わせていた。

 旅行に出る直前、彼をつかまえて話を聞いた。当時の私は、AP通信の記者という立場であった。

 電話をかけると、青島さんは「APって、あのAPでしょう?世界のAPがどうして?」と驚きを隠さなかった。

 私は、世界各国のAP網に調べてもらったが、青島さんの選挙スタイルは前例がない。ぜひ世界に紹介したい、と頼み込んだ。

 有名人によくあることだが、取材に答える彼はマスコミの前で演じる姿とは大きく違い、とても誠実であった。しかし、執拗に彼の真意を質す私に少々辟易したのか、「このインタヴューの仕方がAPスタイルですか」と苦笑いした。

 日本のマスコミが注目したように、世界各地のマスコミも私の記事を面白がって使った。

 とにかく、青島さんはマスコミの使い方が上手かった。TVの放送作家で業界の裏の裏を知り尽くした男であったから、特にTVに関しては彼の思うがままに操っていた感がある。

 放送作家に止まらず、青島さんは多くの分野に首を突っ込み、それも関わる世界でことごとく「青島旋風」を起こしてしまう、いわばマルチタレントであった。意地悪ばあさんに代表されるお笑いタレント、人気TV番組の司会者、カンヌ映画祭で入賞するほどのレヴェルの高い作品を作る映画監督、数々のヒット曲を書く作詞家、そして直木賞に選ばれる小説家などなど、時代の寵児と呼ぶに相応しい活躍をしてきた。

 だが、政界における青島さんの活動に関しては私は失望の連続、最後の方は「国民の政治離れの原因を作った大罪人」と呼んでいた。

 彼の死を悼むマスコミ報道では、青島さんの国会答弁などを取り上げ、彼の政治活動に意義があったかのように伝えられているが、「(佐藤栄作)総理は、財界の男妾」発言にしても特別な計算があって行なった発言ではなく、かみ合わぬ討論に業を煮やして思わず口に出してしまっただけのことだ。

 自民党が金まみれの状態で世論が盛り上がると、それに乗じてハンスト宣言したが、ナント翌日には退散、かつて自分がやっていたTVコントのように国民をドミノ倒し状態にずっこけさせた。

 国会議員を辞めたり、また復活したりと、不可解な行動をして支持者を惑わしたこともあった。そして、95年、大風呂敷を広げて都知事選挙に当選したものの結局何も出来ずに都民の怒りを買った。私の高校時代の同級生が当時都庁の文書課長(法律関係の元締め)をしていたので青島評を聞いたところ「本当にやりやすい知事だね」と皮肉を込めて言っていた。その後、都知事からまた国政に転進を図り、2回に渡って参議院選挙に立候補するも落選。彼の名声に泥を塗る結末となった。

 なくなられた今、このような批判的な記事を書くのは、死者にムチ打つことになることは承知している。だが、私は、政治家のような公人は別格扱いしている。もちろん我々ジャーナリストとて同様だ。公的な場においての言動の責任は、半ば永久に問われ続けて然るべきものだからだ。

 「ポスト青島」を選ぶ1999年の都知事選では、多くの浮動票が石原慎太郎氏に向かった。4年前に青島さんに投じていた都民が、青島さんへの失望を込めた批判票を石原慎太郎氏に入れたのだ。その後の都政のありようは皆さん御存知のとおりである。

 だからもちろん、青島さんには「ごくろうさま」という声を掛けたいが、それと共に、「あなたは幸せのままこの世を去ったでしょうが、最後は落とし前をつけておいて欲しかったですよ」と恨み節を唸りたい。彼の人生の最後の部分は、彼がかつて仕掛けた「無責任男シリーズ」そのものであったのだから…。

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