親が誤嚥性肺炎で入院して約2カ月。
病院から「完治したので今の状態について先生からお話があります。御都合の良い日は御座いますか?」と。
ガラス越しですが親の姿を見て「立つ事も出来ず、食べ物は介護食。この状態を家で介護出来るだろうか?」と思った瞬間、親が「退院は何時だい?美味いもの食べたいわ」
この一言には参りましたが、家となるとヘルパーさん無しにはムリだし、施設にしてもなかなか見つからず。
マイドクターからは「コロナで動き辛いのもあるんだろうけど、後手後手だよね。これを機会に自宅で看取るのかを決めた方が良いな」と、優しいアドバイスを頂きました。
在宅介護で検索するとこれまた良い記事がありました。
なぜ、在宅死がいいのか? 専門医らに聞いた「病院にはない死のあり方」
2022/02/23 16:00 AERA dot.
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/dot/life/dot-2022022200062
(前略)
当時の病院では、「患者の死は医療の敗北」という雰囲気がありました。助かる可能性のある命にはとことん頑張る、これは医療の大原則です。一方で、老衰と呼ぶべき症状にはどこまで何をすべきか。医療者の満足ではなく、患者の満足の質とは何か。いろんな患者や家族と接する中で、自分に問うてきました。
病院では患者さんが亡くなるときに、心電図のモニターをつけます。すると家族がモニターの波形ばかり見る。僕はそれが嫌で、思わず「命はそちらではありません」と家族に注意したことも。あの人工的な音が看取りの場面には不似合いのように思い、ある時期から僕の患者さんの看取りの場面には、機械を入れないようにしました。
45歳で現在の地に移り、田舎医者としてこの地に根ざして25年。ここに来てから「この患者に何をして何をしないか」を、より考えるようになりました。ここ四万十では、患者が自分の死に方を口にすることが多いのです。「家で死にます」と自分の意思をはっきり口にする人が少なくないのです。死がタブーでも湿っぽくもない。そのきっぱりした態度はどこから来るのか。それは医療が遠い田舎という環境で、自然を生で感じながら暮らしているからだと思います。「自然には勝てない」とわかっているから、生活の中に当たり前のように死がある。それを受け入れる強さと覚悟がある。自然の中での暮らしは、そういうことではないでしょうか。
(以下略)