山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

誰かきさうな雪がちらほら

2005-01-31 10:48:54 | 文化・芸術
200408-024-1

<Nepal・Pokharaの岸本学舎だより>

今日、ここに紹介するのは、政情不安で混迷化が続くネパールで
貧しくて学校に行けない貧困最下層の子らを受け容れ続けている岸本学校の主宰者
私の長年の友人でもある車椅子の詩人岸本康弘が、
ネパール政府より文化人として褒章を受けた際に
新聞報道で掲載された彼の紹介記事より要約を翻訳したもの。


<Hero of the Rising Sun -記事要約>

 幼い頃、私の父は、障害をもってしまった私に向かって「私が死ぬときは、お前も首を吊って死ね。」と言った。
その言葉とはうらはらに、父は、私がこの世で障害をもって生きてゆくために、人として必要なたくさんのことが身につくように全力を尽くしてくれたのです。父の「死ね」というその言葉は、障害者であるよりもひとりの人間として生きること、また、私のような人々の福祉に尽くすように、と私の心を促した、と彼は言う。障害ゆえに彼が受けてきたさまざまな憎悪や差別は、かえって、人として他者よりも秀で、有能たらんと、たえず導き鍛えてくれた。
 詩人であり作家としても知られる岸本康弘は、1937年8月23日、兵庫県宝塚市で、作一とトシ子を両親とする貧しい勤労世帯に生まれた。 生まれた時、彼は健康で五体満足な赤ん坊だったが、満1歳を過ぎた頃、腸チフスに罹り激しい高熱に苦しんだ挙句、脳性麻痺となり四肢が不自由の身となってしまった。8歳のとき父親が他界、家庭を支える唯一の稼ぎ手を失ってしまった。「私を育てあげ教育するために、筆舌につくせぬほど懸命に働きつづけた私の母を、私はこの世で一番愛している。」と彼は言う。 身体の障害ゆえに、小学校に通うことができなかったので、彼はひとり自宅で学習せざるを得なかった。また彼は「あるとき、友達に、世界地図をひろげて日本を示すように言われたとき、私はニュージーランドを指してしまって笑われてしまったことがある。そんなふうに、誰もが私をからかったものだ。ちゃんと文字を読めない私を友達があざけ笑うと、きまって私はわっと泣き出したものだ。」と幼い頃をふりかえる。 だがまもなく、彼は、父親から文字やアルファベットを教わり、読めるようになる。「 本を買うお金がなかったので、よく友達から本を借りたものだ。また、母親はどこからか本を手に入れてきて、勉強するようによく励ましてくれた。 私を励まし続けてくれた唯一の人たちである母と妹を、私はこよなく愛している。こうして、学校に行かずにさまざまな学習をし、知識を身につけるというこの困難な作業に打ち克って、他の友達より正確に読み書きや計算ができるようになったのだ。」と彼はつづける。
 1966年には立命館大学の通信講座を受けるようになり、さらに向上心を持つようになる。 1968年、文学への大いなる情熱をもって大阪文学学校を卒業する。 中学2年次の学習を始めた頃、それは16歳の時だったのだが、彼は初めて詩を書き、24歳のとき、最初の詩集を出すべく取り組み始めた。 「私は、学校用に、あるいは報道用に、さらにはコンピューターの仕事のためにも書き続けてきた。」と彼は言う。
 また「松葉杖を頼りに、初めて独力で歩けるようになったのは、35歳のときだった。それまでの私は、ただ単に、壁などによりすがりながら動くことしかできなかった。 もっとも愛する母親を亡くしたのは、43歳の時だった。」と自分をふりかえる。
 岸本は美しい詩や物語を書く。 彼は11冊の詩集を既に出版しており、そのなかには「人間やめんとこ」「地球のヘソのあたりで」「竹の花」などがある。 彼の作る物語のいくつかは日本で映画にもなっている。 彼のポカラでの学校事業への支援のために、「明日は」という映画が作られた。 彼は、1999年度の「シチズン賞」や1994年の「関西文学賞」を受賞。 さらに、2001年には「現代詩人平和賞」を受賞している。
 岸本はこれまでに50か国以上の世界各地を旅してきたが、その放浪の旅はこのネパールで最後となった。
8年前に、初めてネパールへ来た時のこと、彼はある少女に「いま何時か?」と尋ねたことがあるという。少女は時計をしていたのだが、それを読めない。時間が分からないのだ。彼はとても悲しくなった。 また、ある女性は、自分が一日中働いたその賃金を計算することができない、そういうことがごくあたりまえで、ネパールでは国民の識字率が非常に低く、その向上は大きな国家的課題であることを悟り、この課題に対して自分のできることをしようと、彼はこのとき決心した。 彼は、映画用の詩や物語を書き、それを売ってお金をつくり、そしてついに、貧しいがゆえに、あるいは障害ゆえに学校に行けない子供たちのために、ポカラにネパール岸本小学校を設立したのです。 「誰でも私の身体の障害を見て、私をいじめたものだ。 私は、意気消沈したけれど、だれもが、私のように差別や憎悪の対象として社会から迫害されることがあってはならない、とくじけず生きてきた。この経験が、私にそのような子供のための学校を設立させたのだ。」と彼は言う。
 ポカラでの学校設立を契機に、日本ではこの事業の支援のために「きしもと学舎の会」が結成されました。現在、ネパールにおけるHDSSと日本のきしもと学舎の協同作業でこの学校は運営されている。 HDSSの代表であるアルジュンは、「学校は、非常に系統的に運営されている。」と説明する。 学校に行けない約150人の児童が岸本スクールに通っている。岸本スクールでは、教科書、制服、教材や学用品のほとんどを子供たちに無償提供し、毎週金曜日には、子供たちが「聖金曜日昼食」と呼ぶ給食まで実施されている。
 岸本は、音楽に対する大いなる情熱を持っている。 最近、彼は、ネパールで活躍する歌手や音楽関係の人たちと一緒に、ヒマラヤの山々とネパールの人々への賛歌として、一つのCDアルバムを完成させている。
 岸本はネパールをこよなく愛する。 「私は、私自身もっともっと知りたいと願ってきたヒマラヤの山々やブッダに関する本を、いまも読む。」と言う。近頃、彼はネパール国王より「サダーナ・サマン(文化特別賞)」という名誉ある表彰を受け、これまで以上に、この世界や人々の福祉のために尽くしていこう、と思いを新たにしたと言う。
 66歳で、岸本は、なお創造への熱意と情熱を持っている。 彼は、ほとんど毎日のように働く。 彼は詩や物語を書き、それらを自分で印刷する。 夜、彼はNHKのテレビを見終わってから、深夜おそくまで再び作品づくりに取り組みます。
 最後に「結婚はどうですか。」と聞くと、「私がもし結婚していたら、こんなふうに多くの国々を訪れたり、人々の福祉のために働いたりすることはできなかったでしょう。」 と言い、つづけて「私と結婚を望んだ美しい少女は大勢いたが、私はそれを望まなかった」と、笑いながら答えた。

なんとそばのうまさよ

2005-01-27 17:14:02 | 文化・芸術
santouka31

<日々余話>

<エッ! 江戸の昔ってそうだったの?>

あまり好きじゃないTV番組「トレビの泉」の「へぇー」ではないが、
或る本を読んでいたら、
今までその知識はあったのに、現実的にどうであったかということに、
まったく想像の及ばなかった事実を知って、吃驚した話。
迂闊といえばまったくもって迂闊な‥‥。

いわゆる暦法と時刻の話。
明治維新になって、一連の欧化政策の中で
太陽暦(グレゴリオ暦)を採用して、それまでの旧暦(太陰太陽暦)から変わったのは、
周知のことであり、
また、我が国の旧暦では、
日々の時刻を、明け六つとか、暮れ六つとか数え、
十二支になぞらえて、子の刻、丑の刻と呼んでいたのは、
誰しも承知のことだろうが、
これがなんと、不定時法という代物だそうで‥‥。


どういうことかというと、
1日24時間を12等分して、一刻とは2時間と固定したものとばかり思い込んでいたのが、まったくの誤解で、
日の出から日の入りの時間の長短によって、日々異なっていたということ。
要するに、春分の日や秋分の日なら、昼夜等分で一刻はきっかり2時間となるが、
日中時間が最も長くなる夏至ならば、昼間は一刻が2時間半ともなり、夜間は1時間半ともなる。
冬至ならば、その逆、ということだったのだ。


エ、エッー、そうだったの!

季節の移ろいの中で、日々、一刻と云う時間の単位が変化していたという事実に、
この年になるまで気づかなかった自分の想像力のなさにも情けなくも驚き入った次第だが、
はしなくも、吃驚仰天した。

かほどに、
身についてしまった常識の罠というのは恐ろしいものです。

石仏しぐれ仏を撫でる

2005-01-26 08:30:13 | 文化・芸術
GRANDZERO

<LETTER OF GRAND ZERO―世界のサダコたちへー承前>

今、私が演出の補佐役として関わっている舞台づくり―
「レター・オブ・グランド・ゼロ」の稽古は、
3月4(金).5(土).6(日)日、大阪エルシアターでの上演をめざして、
ようやく軌道にのりつつある。
ここでは、この企画取組みの基本姿勢に関する言葉と、
参加六劇団のプロフィールを紹介しよう。
いずれも老舗を誇る在阪の劇団だ。


 「敗戦・被爆60周年の年に」 -大阪自立演劇連絡会議 議長 杉本進
 20世紀は戦争の世紀-いま始まった21世紀を必ず平和の世紀に!
そんなメッセージをこめた演劇を敗戦、被爆60周年の春に、お送りしたいと思います。
新劇が日本に誕生して約100年近くになります。
いろいろ紆余曲折があつて、現在に至つております。
その流れの中のひとつに「プロレタリア演劇-職場演劇の隆盛と衰退-地域演劇の誕生、
そして現代演劇」へと‥‥。
私たち大阪自演連は40年あまり、この流れの中で浮き沈みしてまいりました。
その中で、唯一ユニークな試みは、参加6劇団が5年ごとに、
100名規模の合同公演を 行つてきたことです。今回は第9回目を数えます。
「演劇は時代を映す鏡であり、時代の証言者としての役割を果たす」という、
日本の演劇人が築いてきたすぐれた伝統こそ、
いま、輝かなければならないときではないでしようか。
私たちの演劇運動は、労働運動の隆盛と衰退とも大きくかかわっています。
このたび大阪府職労働組合から、共催をいただ<ことができました。
つきなみですが、カを含わせて、すばらしい感動をお伝えしたいと思います。
 ご期待下さい。


<参加劇団Profile>
● 劇団 息吹
・1958年4月、布施市・八尾市の青年を中心に20数名で、東大販自立劇団「「息吹」を結威
・1961年、演劇集団「息吹」と改称         
・1964年八尾堤町に稽古場を持つ
・1976年12月に1973年こ結成されていた「劇団かみがたと合流‐現在の「劇団息吹誕生
・1984年東大阪市中野の「かわち勤労会館」地下に多くの人のカンパなどで稽古場を確保
<最近の公演作品>
・2001年大阪春の演劇まつり参加「見果てぬ夢」で舞台美術賞受賞
・2001年大阪新劇フェスティバル参加「沸きいずる水は」で舞台美術賞受賞
・2002年大阪春の演劇まつり参加「絢爛とか爛漫」で舞台美術賞と木田昌秀が演出賞のW受賞
・2002年秋東大阪で公演「家政婦は見た」
・2003年劇団創立45周年記念公潰「日本の牛」を取り組み、
大阪春の演劇まつりでは観客賞を、秋の新劇フエステイバルでは作品奨励賞と岩崎徹が男優演技賞のW受賞
・2004年大阪春の演劇まつり参加「ざとうえび」「トイレはこちら」「寝られます」で柳辺育子が女優演技賞受賞


● 劇団 大阪
「働くものたちによる演劇を!」をスローガンに1971年に劃立。今年で34年目になり、上演作品は100本を超える。
谷町6丁目の駅から徒歩5分という好立地に稽古場兼覿場を持ち、
春・秋の本公演を中心に、北海道・東京・岩手・などでの移動公演や、
他劇団との合同公演も数多くこなしてきた。
また、熊本、堀江という異なる個性の演出家を擁することにより、レパートリーの幅を拡げ、
山田太一・井上ひさレ・プレヒトなどの劇作家をはじめ、大阪在住の長谷川伸二、井上満寿夫及び松田正隆・渡辺えり子・坂手洋二・永井愛などの作品を上演。
そして創作劇にも意欲的に取り粗んでぃる。
創立メンバーがほとんど残つており、今なお一線で活躍。
ぺテラン役者ガ多い反面、若手育成が急務となっている。
代表作として
「そして あなたに逢えた」(大阪文化祭賞・新劇フェス作品賞・銀河ホール地域演劇賞受賞)、
「谷閣の女たち」(新劇フェス作品賞受賞)などがある。


● 劇団 未来
劇団未来は大阪の地域演劇サークルとして、1962年に創立し、
「大阪に根ざした大阪のお客さんに喜んでもらえる未来らしいお芝居を劇る」ことを目ざして、
今日まで42年間活動を行ってきました。
この間の公演は1962年座付作者・和田澄子作、森本景文演出による旗揚公演「差別」以来
今日まで63回の本公演を行つています。
また、劇団のレパートリーのひとつとしての太鼓作品も、1972年「日本のふるさと№1」の初演
を契機に改善を重ね、継続して公演活動を行ってまぃりました。
<主な上潰作品>
・1971年10月「日本の公害1970」ふじたあさや作・寺下保演出。大阪文化祭賞受賞
・1977年5月「どん底」ゴーリキー作・森本景文演出
・1982年11月「玄界灘に架ける橋は」和田澄子作・森本景文演出。大阪文化祭奨励賞受賞
・1983年11月「翔びたてば鳥」ふじたあさや作・寺下保演出。大阪文化祭奨励賞受賞
・2002年11月「昏れてなお銀杏黄葉の」和田澄子作・森本景文演出。
戯曲に対し大阪新劇フェスティバル特別賞受賞


● 府職劇研 (大阪府職員演劇研究会)
1950年代、大阪の職場演劇の最盛期、第一次大阪府職劇研創立
その後、1965年10月、新たに大阪府職員演劇研究界として創立
1966年3月「はだしの青春」で創立公演、以後、職場に働く人々を題材にした創作劇を
中心に上演、府庁の文化祭や職場サークルとの合同公演などに参加。
1969年11月、第2回大阪自立演劇会議合同公演「怒りのウィンチ」に参加。
以降、自演連の仲間劇団との合同公演も取り組む。
1977年、第1回大阪春の演劇まつりに参加、今年は29回目を迎える.
演劇公演以外でも、数々のイぺン卜のスタッフとして企画から進行などを担当。
公演延べ回数90回。全国的に少なくなった職場演劇の火をいまも燃やし続けています。
<主な上演作品>
・創立10周年記念公潰「イルクーツク物語」
・1998年「ら抜きの殺意」大阪春の演劇まつりで演出賞
・2002年「笑わしたろか」大阪春の演劇まつりで作品奨励賞
・2004年「JEWELRY BOX」第28回大阪春の演劇まつり(MAKEUP GELLと合同公演)


● 劇団きづがわ
1963年「南大阪演劇研究会」として創立。1975年に「劇団きづがわ」と改称したが、
一貫して「働く人びとに勇気と希望を!」を合言葉に40年間演劇活動を続けてきた。
昨秋40周年記念公園「稲の旋律」上演したばかり。
劇団員は20歳代から60歳代までと幅広いが、中小零細企業や個人商店で働くのが多く、
交代制勤務もあり、稽古時間の確保が年々難し<なつてきている。
そんな中でも、春と秋の本公演や、小作品を持っての地域公演、
さまざまな集会やイぺントヘの協力出演などを行ってぃる。
<主な上演作品>
教育閤題を取り上げた「落ちこぼれの神様」「かげの砦」など。
戦争と平和をテーマにした「優だらけの手」「終わりに見た街」「ウメコがふたり」
「河」「勲章の川」「パパのデモクラシイ」「紙屋悦子の青春」「月光の夏」など。
また、労働現場のの問題や若者の生き方を問うた「立ちんぽうの詩」「突然の明日」「列車が空から降ってきた」「鉄道員(ぽっぽや)」「若者たち」などがある。


● 座・わだち
「演劇集団わだち」から「座・わだち」に移行後、
自主公演、合同公演と3、4公演ほど続きましたが、
劇団員の滅少により、いま、自主公演ができない状鰭にある。
最近では、自演連劇団を含め、他劇団の公演に応援参加、
舞台装置から舞台監督まで、スタッフの一翼を担つている。
「座・わだち」の自主公演に向け、再始動の機会を探っている。
<最近の上演>
「釈迦内柩唄」
「翼」(劇研合同公潰)
「ドリームエクスプレス」(劇研合同公演)

ふつと影がかすめていつた風

2005-01-24 12:18:44 | 文化・芸術
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<エコログのなかのある対話から-その2>

四方館

とうとうと云うべきか、やっとと云うべきか、
<アンネ・ラゥ>が登場しましたね。
あなたが、先日の記事で、精神病理学を研究してきて、
自分の師は木村敏氏であることや、列挙されていた人物に、
中井久夫やフランケンブルクの名があったので、
やがて<アンネ・ラゥ>について触れられる機会もあるかもしれないな、
との予感はあったけれど‥‥。


Amazonで確認してみると、
木村敏氏が「人と人の間-精神病理学的日本論」を出版したのが72年。
記憶違いかもしれないが、たしかこの文書は当時「創造の世界」という季刊誌だったかに連載されていたものではなかったか、
偶々私はそれを読んでいて、
日本でも精神医学の世界が現象学的なアプローチからなされていることに、新鮮な驚きをもって迎えた記憶がある。
<アンネ・ラゥ>が初めて紹介された、講談社現代新書「異常の構造」が73年。
そして、ブランケンブルクの「自明性の喪失-分裂病の現象学」を翻訳出版されたのが78年。


私はずつと劇と舞踊の二軸活動をしてきた者だ、と公開もしているが、
それは一言で云えば、ただただ、身体表現なるものがいかにありうるか、
を自分なりに考えてきた、試行錯誤してきた、愚直な輩だということ。
60年代後半から70年代、現象学が新しい知として受容され、浸透していく。
むろん、先行のフッサールや西田幾多郎の世界があったとはいえ、これらのやや観念的な現象学ではなく、
世界を読み解いてゆくための現実的な具象的な方法としての学、として装いも新たに登場してきた-現象学。
M.ポンティの「眼と精神」「行動の構造」「知覚の現象学」を読みついで、
少し後の、市川浩氏の「身体の現象学」「精神としての身体」までくれば、
「自明性の喪失」の世界はもうほとんど隣接した世界だと、受け止めた、そう思ったものです。


<アンネ・ラゥ>が発するこれらのパロールが、いったいどのような身体の状態で紡ぎだされていくのか、その瞬間々々の身体感覚は‥‥?
それらをたとえ擬似的ではあるとしても、自分たちの心-身関係のなかで、微細に、具体に、訊ね探っていくことは可能か?
可能だとしたらどのように‥‥?
稽古場で、若い女の子たちを相手に、
そんな一見訳のわからないことばかり繰り返していた。

そういえば、ある時、ひとりのスタッフが、
そんな稽古場の様子を見て、「ここはまるでイエスの方舟みたいだね」と評したことがあったっけ。
宗教じみたものはいっさいなかったが、そう映るのも無理はなかったとも云える場だったと、
振り返ってみればそう思える。
これが80年前後の私の姿。


ところで、Yさんについて、
あなた自身が<アンネ・ラゥ>なのだ、と云われたことに、
初め、実は驚いた。
あなたと彼女は一見もっとも遠い存在のように映るからだ。
けれど、ここまで綴ってきて、私のなかで腑に落ちる気がだんだんしてきた。
あなたは自分自身を過激な人とも云っているが、そう云うのも無理ないと思うけれど、
とにかく、すべからく<過剰>なんだね、
過剰な知、過剰な意志、過剰な情感、そして過剰な生‥‥。
外向きに、外向きに、溢れるようなエネルギーで頑張ってきたんだね、
だれもがやれそうもないテンポとリズムで。
それで、爆発、というか、破裂してしまったんだね。
人が、どこまで過剰になれるのか、その極限を私がわかるはずもないが、
また、人が極限になんて行ききることは出来るはずもないが、
だから、極限に近い一歩手前のところで、
あなたの心の中に<アンネ・ラゥ>を産み落としたんだよ、きっと。
自分の心の中で、彼女を育てながら、
あなたの、その過剰さを保持していこうと、抗っているんだよ、きっと。


私には、わからない、あなたの苦しみも、辛さも、悲しさも、
どんなに痛いか、どんなに激しいか。
ただ、処方は、たったひとつ、
あなたの、その<過剰>な生を、
ほんの少し、少しずつ、緩める、弱める、縮める、
しかないんだろうと思う。
(2004/11/26 15:47)





とうとう、というか、やっと、というか、まさか、というべきでしょうね。
エコー!で、アンネ・ラウについて、アンネの主治医・精神病理学者W.ブランケンブルクについて、現象学的精神病理学について、私の結婚式の主賓・木村敏氏について、
全然別分野にみえる人生をたどってこられた方で、ずばり、それも、「身体」という最も中核的な観点から、お話くださる方が現れましたね。


私は3年半名乗ってきて、Sとの事で名乗るのをやめたハンドルネーム「ラウ」にとどまるどころか、最後の本格的な書き物=修士論文をブランケンブルクとハイデガーで書き、アンネ・ラウの病理について考察した、というどころか、私自身、アンネ・ラウの生まれ変わりであると自覚して、それを秘めて生きてきましたので‥‥。

私の恩師は日本・世界の精神病理学の歴史を背負ってきた木村敏氏である、というのは、実は公には成り立たない話で、木村先生も結婚式のスピーチでそう紹介されて否定されたんですよ。いわば、「それ以上」でして。

私は(京大)教育学部生で、木村敏氏は京大医学部名誉教授、本来なら師弟関係は結べないはずです。これは私の仕組んだことじゃありません。私の卒業論文を、「これはぜひ木村敏先生に送らなければならない、送ってあげよう」と、木村先生の元・部下だった教育学部の教授が、木村氏に郵送してくださって、木村敏先生からすぐに私に手紙が来て、
「・・御論文、一読して本当にびっくりしました。」ぜひお会いして忌憚なき意見を伺いたいということで、大学卒業時に出会ったのです。


ブランケンブルク『自明性の喪失-分裂病の現象学』(原書1971年)は翻訳書は最近、名著ということで復刊されましたが、大学院時、原書がもう手に入らず、木村敏先生が、古い先生お手持ちのドイツ語の原書を貸してくださいまして、私は全コピーしました。

ブランケンブルクは少し前に、確か去年あたり、亡くなりましたね。折りしも木村敏先生がドイツに行かれている時で、木村先生は思ってもみなかったことに頼まれて彼の葬儀で追悼文を書いて読むことになり、後に追悼論文も書かれて、私にも送ってくださいました。

あと、現象学的精神病理学の創始者ビンスヴァンガー、ミンコフスキー、それから木村先生が哲学者ハイデガーと会った時にどうだったか、木村氏の後輩である、統合失調症の名治療者中井久夫氏→彼がすべて翻訳を担当したアメリカの精神科医H.S.サリヴァン、
メルロ=ポンティを基盤としている、現象学→日本の哲学界の一番実力者である鷲田清一先生(私の大学院の指導教官です)と木村先生の関係・・・などと、人の関係だけでもどんどんつながっていきますが、


とにかく、あとで、四方館さんが書いてくださった「身体」と、それからより難しいテーマですが「過剰」を生きるということについて、レスさせてもらいますね。
晩年(まだ亡くなってないです! 臨床の診察もやっているし、世界を飛び回っておられます)の木村敏氏が、はっきり「身体」「からだ」という視点からものを言っておられますものね。
離人症論から出発した木村氏の最初の統合失調症の論文は、1965年に出ていて、これはもう、西田哲学の影響ばりばりなんですが、ここから彼の著作はほとんどすべて、2002年ぐらいまでは読んでおりますので。当たり前ですね、専門中の専門ですから。
私が精神病理学だけとってもオールマイティ(どの疾患・分野も得意)であったのは、木村敏氏がオールマイティな人だったからで、中井久夫さんは、統合失調症と強迫神経症のみの専門家で、躁鬱病の患者さんからはどうも信頼されなくて・・と言っておられますものね。


で、ラカン派精神分析の日本での第一人者の新宮一成先生は、私の元・主治医です。彼が私に何度も「研究者になりなさい」と勧めたわけで・・。

体調ぶっ壊れるかどうか、わかりませんが、頑張って四方館さんがお話くださった内容への、中核部分へのレスを書きます。
演劇・・・身体感覚を意識の中心にすえての外へ向けての身体表現→演出、ということの創出、の分野で活動してこられた方で、四方館さんのように、「身体」に 人間の「主体性」「主観性」を最も認める哲学である「現象学」をまともに読まれて、考え、演劇活動で実践を試みてこられた方がいらっしゃったとは、もちろん敬意を表しますし、私が演劇好きであるとはいえ、私とまったく他分野で生きてこられた四方館さんから、私という人間を見ていただいたこと、こういう出会いがあるとは、嬉しくて(同分野の人と話すより何倍嬉しいか)、だもので真正面からレスしないとな、と思うのです。いわば私個人の「生きてきた甲斐」にほかならないですからね、現実の人との出会いを大切にしなければ。


演劇と舞踊、身体表現、そこに一番近いところで語っておられるのは、四方館さんが手がかりにされた市川浩さん(『身体の現象学』『精神としての身体』)でしょうね。

症例アンネ・ラウが「日常の、人生の、『自然な当たり前のこと』が自分にはわからない、わかっているけど(体の歴史で)わかっていない、実践できない」というふうに精神科医ブランケンブルクに訴えた姿、それは、一見普通の人に比べてひどく「欠如態」にみえるかもしれません。
そして、私が「過剰すぎる生」を駆け抜けてきて、生育環境での過剰、生来の感性・知覚の過剰、知性(あんまりそう言いたくないんですが実は本当のこと)の過剰、はたまた「普通に当たり前であれ」の規範意識の過剰、生き方選択(意志の実行)の過剰さ(まとまらなさ)、・・・そういった「過剰だらけ」で生きてきて、精神疾患・精神障害として固定化した「苦しみ、弱み」に帰着した、今現在、そうであること。


しかし、アンネ・ラウも私も、間違いなく同根の人間なのです。アンネ・ラウは、ブランケンブルクも木村敏氏も述べてますが、「欠如態」ではなく「自明性の『否定』」であって、ひとつの、あたりまえさを「否定した」生き方を見せたのであって、
また、私も、一見「過剰だらけ」に見えるこの私の「本当の部分、問題」が何かと言えば、アンネ・ラウが訴えたとおりの「自然に当たり前のことがわからない、 わかっているけど体でわかってないから、実践できない」という弱点を(それこそ過剰なまでに)補おうとしただけでして、私のような生き方もまた、「自然な 自明性の『否定』」、つまり、普通に当たり前に生きる人たち、そういう生き方を否定した生き方だと言えるでしょう。


とことん欠如態にみえる教養もない、生きる力もなかった(自殺した)アンネ・ラウと、とことん過剰にみえる私(どんな死に方をするかわかりませんが)と、どちらがどれだけ、この「否定」(書名の訳は間違っていて、実は「喪失」と言うと誤解されます)を生ききったか、それで苦しんだか、比較もできないほど共通した人生だと思うの です。

他者や世界がある以上、自己というのはたえず、四方館さんが追究してこられた演劇活動で強調されるような、ひとつの「表現体」であ り、自己(自分)であることはたえず(見る人がいなくても)「自己表現」であり、「自己実現」はそれ以外にありえず、そして、表現体としての自分の場所を どこに求めるかといえば、それは「身体」「からだ」以外にあるはずもないですよね。四方館さん、そのあたりまで十分ご承知だと思います。また、そういった 身体感覚と分離不可能なものとして、本当に深い次元での「心」「精神」というものが理解できるのだと。

四方館さんが処方として提示してく ださっているように、私は、この「過剰」を少しずつ、緩める、弱める、縮める、ということができないといけないのでしょう。人に対する接し方や、物書きな どにおいて、私がまったく「過剰」ではなく、「過激な適切さ?」をわきまえていることは、今までのエコログのやりとりなどからだいたい判っていただけると 思います。

それでも取れない「過剰」の苦しみ・・・これが、私の病気の苦しみの根幹かもしれません。治療論的にも、(このような統合失調症患者に対して)「普通のペースで、普通に歩めるようになる」よう治療していくのが基本方針だと言われているのですが、
私の場合、ちょっとばかりの「ペース配分」「短期間休息」「ほどほどに」ぐらいの言葉で、私が楽になり、良くなるような道が示されるとは、自分でも思えません。
私は今まででさえ、14年の闘病で14回も主治医をかわらないといけなかったのですが、誰も根本的には治すことができませんでしたしね。


「本当の自分の心の力」で自己治癒をめざすことと、大切な人と(愛も含めて)大切な関係をもち、自己認知と同じ次元でその人からたえず「認めてもらうこと」 「ゆるしてもらうこと」。その二つが、大事な軸、というより、これから生きてゆくことができるほとんど唯一の道のような気がします。
(2004/11/26 19:44)




ここまでの真剣中の真剣の話を、どなたがどこまで理解できるか、わかりませんが、話の幅(可能性)を広げるために、四方館さんに、とっておきの秘話(私ににいろんな教授たちが個人的にしてくださったこと、秘話は実にたくさんありますが)を、お話します。

『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)に始まる、日本のラカン・ブームを背負っている新宮一成先生ですが、私はこの先生の講義から、初めて「精神病理学」なるものを知りました。
そして、主治医になってもらったわけですが、後に「日常性について-ブランケンブルクとハイデガーの論をふまえて」という修士論文を書いている、と報告した 時、新宮一成先生は、年賀状で、アンネ・ラウを分析・紹介したブランケンブルクのやったことは、「極めて政治的な」意味をもっていて、その意義が実は一番 大きい、とおっしゃっていました。


この言葉の意味、まず、精神医学界において、「政治的な」意義をもった著作であり、その後の彼の論文な どであると解釈できますが、それだけでしょうか。もちろんブランケンブルク、アンネ・ラウはいまだにあちこちの学問界で注目され、引用されています が・・・ブランケンブルクは非常に「政治的な人」だったと思います。元々哲学出身で、ハイデガーに師事していましたが、精神病理学者となってから、『自明性の喪失』のずっと後は、ダンス療法、働くということなど、いろんな幅広いテーマで論文を書いているのです。書き物だけでなく、社会精神医学の現場での実 践家でもあったということは、実はあまり知られていないことです。

木村敏先生は私に、まだ患者と見ていなかった時分、「ブランケンブルクに会ってきなさい」と言われ、それはもちろん叶いませんでしたが・・。
木村先生はご自分からすすんで、最後は私の主治医にまでなってくださいましたが、診察室では木村先生と私は喧嘩してばかり、だったような気がします。


そ して、私、学問には向いていましたが全然大学人じゃありませんし、福祉などの活動のほうでよっぽどいろいろ経験してきましたし、そういう方向に自分の志向を話すと、どの教授たちも「自分は所詮、大学育ちだから」「僕は学問の世界しか知らないから」と言われるのです。勝った! って感じかもしれませんが、今 病気でこれだけ弱っているので、どうしようもありませんが。

とにかく、どんな著名な精神科医も少しも治癒の方向に私を導けなかったのに対して、四方館さんはほとんど誰よりもおそらく、私を理解してくださって、適当な処方ではなく、処方の核心部分を示唆してくださってもいるわけですから、四方館さん、すごいのですよ。上記のお話は、その感謝の気持ちから書いているのですし、これからもどうかよろしくお願いします、とお願いしたいのが、私の何よりの今の気持ちです。
(2004/11/26 22:20)

ぶらりとさがつて雪ふる蓑虫

2005-01-22 00:21:25 | 文化・芸術
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<LETTER OF GRAND ZERO ―世界のサダコたちへー>


<危機を超えて―追悼、Mrs.A.Hさん>

昨年の暮から、演出の補佐として私が関与している
大阪自立演劇連絡会議による第9回合同公演で
制作陣の要として重要なポストを担っていた
A.Hさんが二週間ほど前に急逝した。


まったく、寝耳に水のことで
関係者は愕然、悲嘆に暮れ、狼狽しきりである。
聞くところによると、肝臓破裂とかで
なんの前兆もなく突然の死だったから、周囲が驚愕、うろたえるのも無理はない。
まだ、62か3歳。
自宅でご亭主と仲睦まじくささやかな酒宴の後
寝室に行くべく階段を上りかけたところ、急に倒れて、そのまま不帰の人となった、という。
信じられないような出来事だ。


大小6つの劇団が参加している合同公演で
これまで5年毎に取組み、今回で9回目を数えるというから
手馴れた世界ではあろうが、なにしろ関係者だけで100名は優に越える大所帯。
日々の稽古の現場でも、どう創りあげていくか、なかなか困難な問題が山積しているが
プロデュース全般、観客対策、収支会計、日程調整、その他雑多な細事まで
万事こなすのが制作の仕事で、その要に居て、日々動いていた彼女である。
この合同公演を推進している基幹のエンジンが急に停止して
片肺で飛行して行かねばならないような危機に直面したようなものだ。


急死した彼女と私は旧知の間柄であった。
もう38年も前に出逢っている。
私が9人劇場なる劇団を立ち上げてまもない頃
偶々、或る創作劇の演出を依頼された。
その芝居は地域の文化フェスティバルのような行事の中で
メインイベントとして上演される予定のものであった。
舞台は初めてという素人の役者さんたちに加えて
劇団からも何人かがキャストで入り、短時日のあいだに稽古を重ね
照明・音響などのスタッフは関西芸術座からの応援を受け
なんとか大過なく上演にこぎつけたものなのだが。


その舞台を終えた会場で
初対面の私に名刺を差し出しながら丁重な挨拶を戴いたのが彼女である。
曰く「お疲れ様でした。とても良かったです。感動しました。」といったような内容だった。
名刺には南大阪演劇研究会主宰とあった。
当時としては女性でありながら劇団主宰とは珍しいと思ったのが第一感。
すらりとした長身の美人であった。


実は、この日、同じように丁重な慰労の言葉を頂戴した人がもう一人いた。
スタッフ協力をしてくれた関西芸術座の当時の代表であった三好康夫さんから
「言いたいことがちゃんと伝わる、しっかりとした良い舞台でした。」と
まだ駆け出しの若輩者の私に、身に余るようなご挨拶を戴いたのだ。
その後、三好さんは関西芸術座を退き
大阪文化団体連合会(略称.文団連)を設立。
昨年、80歳を優に越える長寿で、健康上の理由をもって勇退されるまで
在阪の各種文化団体の交流と
情報発信(大阪府文化芸術年鑑の年次発行を25年継続)を通して
大阪文化の興隆発展に寄与されてきた人である。
三好さんは、私の山頭火を二度にわたってわざわざ観てくださっている。
突然の、勇退のご挨拶のハガキが届いたのは昨年の5月末頃だった。


A.Hさんと私は、その後、とくに接点はなかった。
直接の接点はこれといってなかったのだが
因縁めいた、間接的な接点は大いにあるのだ。
当時の私が主宰した9人劇場の創立メンバーには
私の双生児の兄と、後にその兄と結婚するM子も居たのだが
まず、兄が大学卒業後の就職とともに劇団を去り
さらに一年ほど経過して、或る事情からM子も去っていったのだが
ほどなく、この二人が共に、なんとA.H主宰の南大阪演劇研究会に入り
演劇活動を再開するのである。
それから、七、八年も経った頃だろうか、南大阪演劇研究会を劇団きづがわと改称し
それと同時に、それまでA.Hが代表者であり、演出など劇団の中心として活動していたのだが
代表の座を、私の双生児の兄へと譲り渡し
彼女は組織の脇の要である制作へと移り
裏方として今日に至るまで劇団を支えてきたのである。


私の知る限りにおいても
彼女はプロデュースという仕事の面でも有能ぶりを発揮していたと思えるし
また、今回の取組みのなか、関係者たちから聞き及ぶ限りにおいても、それは間違いない事実だ。
その彼女が、公演の準備もいよいよたけなわという時期に
いかなる運命のいたずらか、突然の不慮の死となったのであるから
関係者に与える衝撃のほどは非常に大きく深刻なものがある。


いわば、今回の合同公演は、彼女の急死という痛恨の悲しみをのりこえ、
彼女への追悼の想いを込めて、是が非でも公演の実り多きことを果たさねばならないのだ。


私自身にとっては
奇しくも、初発の若い頃に、同日、同じ機会に出逢った二人と、相次いでの別れともなり
偶々、今こうして、その場所に深く関わっていることに、曰く言い難い因縁の深さを思い知るのだ。