山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

もう明けさうな窓あけて青葉

2009-04-30 12:12:59 | 文化・芸術
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山頭火の一句-昭和8年初夏の頃か

―四方のたより― 赤と緑と水と風と

澄み切った空の青さと
映えわたる山脈の新緑とが
満面と水をたたえた八条池の、風そよぐ風景のなかで
群れなすキリシマツツジの深紅が、みごとな対照をなす
此処、長岡天満宮は、二、三日前からの涼しさがつづいて絶好の行楽日和
今年、桜の花見はとうとう享受ならなかっただが、その代わりとてやっと得た休日に繰り出した、初お目もじの躑躅の名所
赤と緑と水と風のなかに、呼吸することしばし
忙中閑あり、まことひさかたぶりの、至福のひととき
これまさに、気の養生

―今月の購入本―
・白川静「字統」-新訂普及版-平凡社
ご存じ文字学-漢字-の泰斗白川静の三部作の内、本書「字統」と「字訓」の普及版が’07年に出版された。中古書。

・岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界」中公新書
ティグリス・ユーフラテス流域に栄えた最古の都市文明シュメル。粘土板に刻まれた楔形文字群が伝える神話の数々、ギルガメシュ叙事詩や大洪水伝説など‥。旧約聖書やギリシア神話に連なる祖型としての神々が詳述される。

・山森亮「ベーシック・インカム入門」光文社新書
基本所得を無条件給付とするベーシック・インカムについて近現代200年を概観することを通して、労働・ジェンダー・グローバリーゼーション・所有といった問題のパラダイム転換を試みる。

・原田信男「江戸の食生活」岩波現代文庫
江戸期の食文化を、列島の空間的ひろがりのなかで大きく網羅的に捉えた著作。武士から町人・農民まで、何が食卓にのぼり、タブーは何だったか、医食同源思想や飢饉時の対応、アイヌ・琉球の多様な食まで。

・松井今朝子「吉原手引草」幻冬舎
著種曰く「いい意味でも悪い意味でも、今も日本社会には金銭を介在した男女関係が、ある種の文化として存在する。それを代表するのが吉原で、一度書いておきたかった。当時の習俗を忠実に再現することによって現代を逆照射するものがあると思う」と。中古書

・松井今朝子「仲蔵狂乱」講談社文庫
存分に舞い狂うてみせてやる‥、江戸は安永・天明の頃、下積みの苦労を重ね、実力で歌舞伎界の頂点へ駆けのぼった中村仲蔵。浪人の子としかわからぬ身で、梨園に引きとられ、芸や恋に悩み、舞の美を究めていく。

他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」4月号

―図書館からの借本―
・内村剛介「見るほどのことは見つ」恵雅堂出版
「シベリア獄中11年、あれは今にして思えばわたしの人生のもっとも充実した時間帯だったようです。大げさに言えば、平知盛ではありませんが、わたしもまた 若く稚くして「見るべきほどのことは見つ」ということになったようです。その見るべきものとはわたしたちの20世紀の文明—なんといおうとそれはコムニズ ム文明であるほかなかった—そのわたしたちの文明の行きつくさきです。その向う側を見てしまったという思いがするのです」-本書より-

・「ファーブルにまなぶ」ファーブルにまなぶ展実行委員会
「昆虫記」刊行100に因んで、一昨年から昨年にかけ、日仏共同企画として全国を巡回した「ファーブルにまなぶ」展に際し上梓された解説誌。


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木曽の酢茎に春もくれつゝ

2009-04-29 20:43:52 | 文化・芸術
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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-18

  花とちる身は西念が衣着て  

   木曽の酢茎に春もくれつゝ  凡兆

次男曰く、初折の末、懐紙式で花の綴目と呼ばれる巡りである。前句は西行を慕う道心者のうえには違いないが、作者が芭蕉とあれば、継ぐ人の与奪の興は自ずと一つに究まる。

「野ざらし」の俳諧師が伊勢に、吉野に、西行の足跡を尋めたのは貞享元年秋のことだが、翌2年晩春大津から帰東の途に就き、熱田・鳴海で旬余を過したのち、中山道に入って江戸へ帰った。4月-初夏-のことである。むろん木曽路を通った。興味ある留別の吟が遺っている。

 「思ひ出す木曽や四月の桜狩 -芭蕉-」

「熱田三歌仙」-安永4年暁台編-にも「木曽を経て武の深川へ下るとて」と詞書して採録している。木曽路で遅桜を見る頃には既に春ではなく初夏だろう、と惜春に掛けて惜別の情を告げているが、芭蕉が木曽路に杖を曳いて「四月の桜狩」に興じたのはこのときが初めてではなかったらしい、と知らせてくれる点でも心にとまる句だ。

この句を凡兆が聞知っていたどうかはわからぬが、「野ざらし」帰途の芭蕉が木曽路を通ったことを知らなくてこういう付を披露するわけがない。事態は、花の座の師の句ぶりに発して、野水の口から懐旧談が出たのだと、と思う。「四月の桜狩」の句は去来にも初耳だったかもしれぬ。

「春もくれつゝ」は暮春のこと、春の夕暮ではない。花の綴目に相応しい取出しである。「木曽の酢茎-すぐき-」は「野ざらし」の俳諧師に寄せた挨拶の云回しだ。当時、上方や江戸で木曽の漬菜がもてはやされた、と云うような話を聞かぬ。酢茎と云えば京の名物である。「猿蓑」興行の連衆がわざわざ「加茂の酢茎」を避けて「木曽の」と取出したところに、羨望めかした含みがあるだろう。俳言である。

猶、茎漬は元禄頃からの歳時記に兼三冬の季語として見かけ、酢茎も準じて考えてよいと思うが、こちらはとくに挙げたものを見ない、と。


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さみだるる大きな仏さま

2009-04-28 16:52:10 | 文化・芸術
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山頭火の一句-大正15年初夏か

同年4月14日、山頭火は木村緑平に宛て、
「あはただしい春、それよりもあはただしく私は味取をひきあげました、本山で本式の修行をするつもりであります。
出発はいづれ五月の末頃になりませう、それまでは熊本近在に居ります、本日から天草を行乞します、そして此末に帰熊、本寺の手伝をします」
とハガキに書いた。

彼は曹洞宗本山の永平寺で本式の修行を欲していたようだが、この折、越前行は果たされなかった。

―表象の森― 唐十郎雑感

一昨日、旧知の女友だちからMailを貰って知ったのだが、25.26日と唐十郎率いる唐組の芝居が難波の精華小劇場-元精華小学校内-に掛かっていたらしい。

その彼女のMail、短い感想が書かれていたのだが、
「唐において嘗ての錬金術力が落ちたのではないか」、「批評性がなくなったようで」、舞台上の唐の存在が「なんだかアイドルみたいだ」と。
それこそ十数年ぶりであったろう、久しぶりに期待を込めて観に行った彼女の印象がそうなるのは当然と云えば当然、無理はなかろうと思われた。

どんな表現も大なり小なりその時代の刻印を帯びるのものだが、とりわけ演劇というものはその時代との共振生が強い。唐十郎率いる赤テントの状況劇場は’60年代に生まれたものだし、その時代状況抜きにはあり得なかった。彼に限らず寺山修司の天井桟敷も、鈴木忠志の早稲田小劇場も、佐藤信の黒テントも、それぞれの表現形式や手法は独自の個性もあったが、それとともに時代との共時性があり、同質ともみえるスタイルが通底していたとも云えるものだった。

そのスタイルや手法が、時代への射程力を充分に持ち得ていたのは、実際のところは’70年代いっぱいではなかったか。’80年代に移ると状況はどんどん変質していったし、そのなかでそれらの相貌はしだいに輝きを失っていった。

彼ら4者のなかでも唐十郎は、自身で台本も書き演出もするばかりか、役者として舞台にも立つ。それだけに時代状況の変質のなかで、今の若い役者たちと同衾したところで、もはや初期にあったような濃密な共犯関係は成立しようもないことは想像に難くない。唐自身が敢えて自分の立ち位置を劇作と演出に限って仕事をするなら、今の時代と共振したもっと別な展開もあるのではないかと思われるが、彼はそうするよりも、なぜか初期からの拘り、どこまでもその姿勢を貫こうと、捨てきれないままにあるようだが、それがどれほどの意味があるか。


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花とちる身は西念が衣着て

2009-04-27 18:56:18 | 文化・芸術
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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-17

   何を見るにも露ばかり也  

  花とちる身は西念が衣着て  芭蕉

西念=ありふれた凡僧を呼ぶ通名。西念坊

次男曰く、裏十一句目は初折の花の定座。四季に執成せる「露」を見込んで、雑の句を挟まず秋から春への季移り-花の露-に作っているが、「何を見るにも」をとがめて「-ちる」と無常に治めた二句一章である。

下敷は「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃 -西行-」、「西念」は西行のもじり、と誰にでもすぐに気付かせる点、芭蕉にしては浅きに過ぎる作りと云えば云えるが、じつはその浅さ、平明さが次座の興の取出しを自由にしたのだ、ということが凡兆の次句を読めばよくわかる。奪うよりも奪われ上手の俳諧師だとあらためて感心させられる、と。


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何を見るにも露ばかり也

2009-04-25 23:29:42 | 文化・芸術
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―表象の森― 利休にたずねよ

昨年下半期の直木賞作、「筋立て、構造、読者をある一点に導いていく筆の力を顕賞すべき。日本の文化を根底からデザインした利休の秘密を上から下から照明を当てながら抉り出した」と評された山本兼一の「利休にたずねよ」を、どんな利休像を描いたものかとの関心から読んでみたが、久しぶりに物語を読む醍醐味を味わえた気がする。

なるほど評のように、秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられた利休の最期の日を、第1章「死を賜る」として冒頭に描き、以後章ごとに時間を遡行させていく手法といい、その各章を利休に関わったさまざまな人物、秀吉はじめ、禅僧古渓宗陳、細川忠興、古田織部、家康や三成などの視点から多面的に照射していく描写が、「侘び」と言いながらそのじつ奔放、超然としていて容易には一つの像を結びえない利休という存在へと、その形象を立体化し深めていったように思われた。

だが、物語-虚構-の中心軸となっている緑釉の小壺に秘められた若き日の利休-青年与四郎-と高麗の麗人との恋と死の顛末については、その描写に具象性が過ぎたか、却って興味が殺がれた感がどうしても残り些か不満。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-16

  町内の秋も更行明やしき  

   何を見るにも露ばかり也  野水

次男曰く、秋三句目で、次は花の定座である。「露」を取出したのは、季移りの必要上、次座への持成だと容易にわかるが-露は三季に執成せる-、「いづこを見ても」となぜ上七文字を作らなかったのだろう、と思う。

理由は三句が時分と場に縛られた一つの眺めになり、そうすれば、前二句の人情仕立てを読取ってこそ現れるせっかくの興を消してしまうからだ。「何を見るにも」は無常含み、虚の作りである。したがって「露」は空家の景のうつりではなく、情のうつりだ。「いづこを見ても」「何を見るにも」、どちらでもよい作りのようだがプロにはプロの目がある、と。


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