山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

わが恋はおぼろの清水いはでのみ‥‥

2006-07-31 15:16:44 | 文化・芸術
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-表象の森- 舞台芸術・芸能見本市から

 消費文化批判をしながら、29日もまたぞろ舞台芸術・芸能見本市へ。
いまどきのダンスシーンの思潮や傾向を、たとえ頭で解っているにせよ、観ておくに若くはないと、夕刻より連れ合いも幼な児も伴ってのお出かけと相成った。
やはりお目当ては円形ホール。今回から登場したという「720アワード」と題された公募のコンクールタイプの企画。720秒=12分という時間に、持てるものを精一杯詰め込んだ6人(団体含む)のパフォーマーが競演するというもの。
折角連れ立って来たものの、いざ会場が暗転となり、ノイズにも似た強い音が流れて、演目がはじまると、幼な児には耐えられず早くも固まって泣き出す始末。母親やその仲間が出演している場合は、その苦行にもなんとか耐えられるようになってはきたが、まったく馴染みのない他所様の世界は、まだどうにも受け容れられない様子で、初めの作品の12分で限界に達したとみえて、止むなく連れ合いは館外へと子どもを連れ出した。結局、連れ合いは後の作品をすべて見逃す羽目に。


 以下は簡単に印象批評。
1. ダンス 「モスラの発明」 出演-ウラチナ。
一組の男女によるDuoだが、動きはミミックでありつつ器械的に処理されている。二人がunisonで動きながら、時にズレ、ハグレする、その変化をアクセントにして構成されていく。その背後には物語性が浮かび上がるが、私とてそれをしもnonとする積もりはない。だがもうひとつ反転するほどの展開がないのは、どうしても作品を矮小化してしまうだろう。12分でもそれは可能な筈だ。


2. ダンス 「worlds」 出演-〇九
女2と男1、決して絡み合うことなく、ただひたすら葬列のごとく、或いはまったく救いのない難民のごとく、とぼとぼと歩く。悲しみにうちひしがれて、やり場のない怒りを抱いて‥‥。時に、抑えがたい激情が迸り、身を捩らせ、哭く、喚く、また、狂う。それでも、なお、旅は終らぬ、行き着く果ては知らず、やはり、歩き続けねばならない。といった世界だが、延々と変化なくひとつの色で演じ通す。独りよがりが過ぎるネ。


3. ダンス 「handance 開傷花」 出演-伊波晋
Handanceとは、反-ダンスであり、Hand Danceをも懸けた命名かと思われるが、たしかに動きは「手」が主役だ。腕-手-指がしなやかに特異に動く、それだけで一興世界を創り上げようという訳か。だがこのdancer、その意味では体躯に恵まれたとは言い難い。四肢が長い方とは言えそうにないし、掌も小さく指もまた短いほうだろう。それでもHandanceへの拘り止み難くといったところか、ほぼ定位置で、どこまでも「手」を主人に、上体をいくらか伴わせ、延々と演じなさる。こういった拘り方に心動かせたり衝撃を受けたりするような、そんな偏向趣味を、他人は知らす、私はまったく持ち合わせていない。


4. 大道芸 「SOUL VOICE」 出演-清水HISAO芸人
風船の中に全身を入れ込んでしまえるとは、たしかに驚かされた。この人自身の案出かどうかは知らないが、初めて観る者は一様に驚き、おおいに愉しむのはまちがいないだろう。球形の中に人を入れ込んでしまった風船が、いろんな形を採ったり、ジャンプしたり、おそらく懐中電灯をしのばせていたのだろう、胎内から発光したり、とまあいろいろと、此の世ならぬ幻想世界を生み出しては愉しませてくれる。この夜一番の見世物ではあった。


5. 演劇 「ラジカセ4台を用いたパフォーマンス」 出演-正直者の会・田中遊
4台のラジカセから主人公に対して、時に父であっり、母であったり、先生、友人et cetera、さまざまな役で言葉を突きつけ、絡んで、主人公をパニックに陥らせるといった、ちょっぴり不条理劇風のパフォーマンス。こうなってくると、このごろマスコミでも流行りのピン芸人たちの世界と、もう地続きで、境界はすでに無いといっていい。


6. ダンス 「オノマトペ」 出演-村上和司
村上和司は、1988年、近畿大学に創設された文芸学部の一期生で、今は亡き神澤和夫の薫陶を受けているそうな。タイトルの示すように、身体の、動きの、オノマトペを探し、試みるといった趣旨だろうが、まず仮面を着用したこと、そして後半は動きから発語へと転じたことによって、本来の狙いはなんら達して得ていない。ただ客受けのする方向へ流れたという他はない。前日のDance Boxのショーケースでも出ていたが、此方はなお身体への、動きへの拘りのなかで演じられていただけに、私としてはいささか拍子抜けだった。


と、こんな次第だが、ついでに前日観たDance Box ショーケースの出演者たちを書き留めておく。
安川晶子、sonno、j.a.m.Dance Theatre、吾妻琳、北村成美、花沙、クルスタシア、村上和司、モノクロームサーカス、Lo-lo Lo-lo Dance Performance Companyの10組。


 こうしてみると、固有名で活動している者の多いことが目立つ。団体名を冠していてもまったく個人同様の場合もある。
この二十数年、ダンス界の際立った現象は、脱カンパニー、ソロ・パフォーマーによる活動が、むしろ主流化してきたことから、特徴づけられるといっていいだろう。
80年代の演劇現象としては、誰もが戯曲を書く時代となり、座付作者を筆頭にして劇団が組まれ、それこそ雨後の竹の子のように小劇団が誕生しては消えてゆくという、溢れるほどに生成消滅を繰り返すようになったことで特徴づけられるが、この現象と軌を一にしたようなのが、ダンスにおける個人活動の主流化現象だ。
一言でいってしまえば、演劇を支える劇団のバブル、ダンスを支える舞踊家バブルのようなものだが、これで片付けてしまっては身も蓋もない。しかし、この変容の背景に経済のバブル現象がおおいに与っていることも指摘しておかねばなるまい。
誰もが容易に座付作者となって劇団を組む、或いは、誰もがソロパフォーマーとして固有名でダンスをする。モノを創る者へ、表現する者へと、出で立とうとするその垣根が低くなったことは、一概によくないとはいえないが、問題はその姿勢、そのあり方だろう。


 水は低きに流れるが自然の摂理だが、モノづくりや表現の世界は、低きに流れるに棹さすこと、逆らってあるのが使命とも言い得る筈だが、そんなことをなかなか感じさせてくれないのが、昨今のありようだ。私が前稿で「演劇も舞踊も、――、消費財の一つになってしまった」と記したのは、演劇や舞踊を観る側、享受者にとっての消費財ということではない。演じる側、踊る側、創り手のほうが、表現者たちのほうが、日常の中のもろもろを消費するがごとく、演劇を、舞踊を、消費しているという意味だ。
実際、モノづくりを日常に親しみ楽しみ且つ消費する、さまざまなモノづくり文化が、今日のように巷に氾濫するようになったのも、バブル期に一気にひろがったのではなかったか。その潮流が、若い世代では、演劇や舞踊に、或いは他のさまざまな表現手段へと、なだれ込む動機を形成してきたのだ。若い世代はとりわけエンタティメント志向だ。「よさこいソーラン」などの可及的な全国化ひとつみてもよくわかる。そのエンタティメント志向のモノづくり文化が、最近は幼児領域にまで及んできた。「ゴリエ」のブームはその典型といっていい。私は偶々テレビで「ゴリエ杯」なるものを観て、ほんとに吃驚した。少女世代のコミック・マーケット現象以来のカルチャー・ショックだった。


 とまれ、流れに棹さすこと、逆らってあるのは、いつの時代もそうだったとはいえ、いよいよ成り難く困難窮まる。金子光晴に倣えば、私もまた「絶望の精神史」を綴らねばならないのだろうが、私などはとても彼ほどの器ではない。「絶望」を語る資格を前に、絶望とはいいえぬ我れに意気消沈せざるをえぬ己が姿を、じっと耐えるのみか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-36>
 野島崎千重の白波漕ぎいでぬいささめとこそ妹は待つらめ
                        覚性法親王


出観集、恋、旅恋。
野島崎-淡路国の歌枕、淡路島北淡町野島の海岸あたり。
邦雄曰く、愛人はほんのかりそめの旅、すぐ帰ってくると思って待っていることだろう。だが「千里の白波」すなわち海上千里を漕ぎ出た身は、南溟をさして、あるいは唐天竺へ行くことになるやも知れぬ。歌が終って後に不安と悲哀の寄せてくるような万葉ぶりがめずらしい。鳥羽帝第五皇子、後白河院の2歳下の同母弟、と。


 わが恋はおぼろの清水いはでのみ堰きやる方もなくて暮しつ
                          源俊頼


金葉集、恋上、後朝の心を詠める。
邦雄曰く、京は愛宕郡、大原村草生にある小さな泉が「朧の清水」と呼ばれた歌枕で、寂光院のやや西にあたる。岩間洩る水を堰くことも得ぬ。昨夜の逢瀬のあはれを思い、思いあまりつつ一日を暮すと。恋もまた朧、悲しみは言うすべを知らぬ。俊成は後に次の俊頼の作を千載集恋歌の巻首に飾った。「難波江の藻に埋もるる玉堅磐(タマガシワ)あらはれてだに人を恋ひばや」、と。


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玉くしげ明くれば夢の二見潟‥‥

2006-07-29 22:35:53 | 文化・芸術
Geinoumihonichi

-表象の森- 地下鉄と舞台芸術・芸能見本市

 大阪発信の「舞台芸術・芸能見本市」も今年で7回目だという。
類似の企画が東京にもあるが、こちらは「東京芸術見本市」といい、11回目が来春3月開催の予定とか。
東京と大阪では、イベントスケールにおいても開きがあろうけれど、それよりも名称の違いに表れているように、大阪のほうが良くも悪くもごった煮感が強い。
その見本市に、初めて足を運んでみた。
たしか一昨年まではグランキューブ大阪(大阪国際会議場)が会場だったが、集客面の問題もあったのだろうか、昨年からOBP(大阪ビジネスパーク)に会場を移している。


 ちょうど昼時の、夏の盛りとなった炎暑のなか、ただ歩くさえ滅入るような消耗感に襲われる。
地下鉄四つ橋線に乗って、長堀鶴見緑地線に乗り換えた。南港ポートタウン線のニュートラムにしろ、この鶴見緑地線のリニアにしろ、あまり乗る機会がないのだが、車両の狭小さには乗るたびに閉口する。慣れからくる身体感覚というものはおそろしいもので、従来線の地下鉄や環状線の車両に慣れた身には、平日の正午ちかくだから乗客も少ないのだけれど、それでも狭い車内ゆえの圧迫感から免れえない。
ちなみに、大阪市交通局によれば、
在来地下鉄の車両寸法  長さ18.7m×幅2.88m×高さ3.745m
鶴見緑地線のリニア 〃 長さ15.6m×幅2.49m×高さ3.12m
となつており、それぞれ2割ほど縮小された空間に過ぎないといえばそうなのだが、容積にすればほぼ半分である。これではちょいとした不思議の国のアリスの世界だ。
大阪ビジネスパークの駅は、大深度というほどでないにしても、かなり地下深く潜っている。長いエスカレーターを二本乗り継いでやっと改札を出たが、さらに長い階段をあがってやっと地上に出たら、またもや炎熱の空。まだ梅雨明け宣言のない大阪の副都心は、うだるような蒸し暑さで不快指数もうなぎ上りの感。


 お目当ての円形ホールに着いたときは1時を10分あまり過ぎていたか。大谷燠が主宰するDanceBoxプロデュースの「関西コンテンポラリーダンス・ショーケース」はすでにはじまっていた。
ほとんどがsoloによる作品、なかにDuoが一つ二つ。10分前後の小品が次々と矢継ぎ早に演じられる。
「関西を拠点に国内外で活躍中の今最も注目すべきアーティスト10組を厳選、紹介」するという謳い文句を額面どおり受取るなら、コンテンポラリーダンスを標榜する昨今の若手・中堅の動向が、この舞台でほぼ了解できることになるはずだが、果たしてそうか。90年代以降、大谷燠のDanceBoxによる十数年の活動が、関西のダンスシーンを新たに作りかえてきたことは応分に評価されるべきところだが、今日舞台で演じられたこのアーティストたちの表現世界をもって、関西のダンスシーンを代表されるとなると、それではあまりにミニマムに過ぎないか。


 Contemporaryとは、「同時代の」、「現代・当世風の」といった意味だから、Contemporary-Danceといってみても、抑も抽象的にすぎて掴み所のない概念ではある。
70年前後、黒テントの佐藤信たちが、すでに既成勢力と化して旧態依然とした「新劇」を解体し、演劇性をもっと多様なものへと解き放つべく、「同時代の演劇」を標榜していたことがあった。60年代から70年代は、日本の政治的レベルにおいても、文学や美術や演劇などの芸術的レベルにおいても、まさに時代の転換期だったといえる。佐藤信たちが標榜した「同時代の演劇」は、この言葉自体が市民権を得ることはなかったけれど、彼らが遠望した射程は広く遠く、それこそ同時代のさまざまな演劇的現象と交錯、共振しあって、時代の変相のなかで演劇もまた大きく変様を遂げたといえる。
その点、90年代以降のダンスシーンでは、「Contemporary-Dance」が世界中を席巻して、猫も杓子もコンテンポラリーといった態で、もはや世界共通語化しているといっていい現象なのだが、多様化する個性は果てしのない細胞分裂を繰り返すがごとく、極小の世界にひたすら分立していく傾向に流れている。60年代、70年代と、80年代、90年代では、世界は大きく変転して、高度資本主義下の消費文明の勝利となったように、演劇も舞踊も、もちろん他の芸術たちも、巷に氾濫するたんなる消費財の一つになってしまったといえるだろう。
まこと、よくぞ舞台芸術・芸能「見本市」といったものである。消費天国ならではの命名のとおり、Contemporary-Danceにかぎらず、ものみなすべてただ消費されてゆくのだが、何故ここでとことん開き直って「蕩尽」へと立ち向かえないのか、それが絶対の岐路だろうと、時代おくれの小父さんなどには思われてしかたないのだ。


 長堀鶴見緑地線の車両の狭小さからくる身体感覚の違和や圧迫による不快感と、舞台芸術・芸能「見本市」の消費文化としての極小さが感じさせる違和と焦燥に、同じようなものを見てしまったハグレドリの暑い一日の記。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-35>
 玉くしげ明くれば夢の二見潟ふたりや袖の波に朽ちなむ
                         藤原定家

拾遺愚草、上、内大臣家百首、恋二十五首、寄名所恋。
邦雄曰く、定家53歳9月十三夜の作。この中の名所に寄せる恋は秀歌が多く約半数が勅撰入集。ただし最優秀と思われる「二見潟」は洩れている。玉櫛笥は蓋の枕詞、したがって二見との懸詞。「夢の二見潟ふたりや」の畳みかけるような、しかも細やかな技巧は抜群。「いかにせむ浦の初島はつかなるうつつの彼は夢をだに見ず」は、新拾遺集入選の名作、と。

 武庫の浦の入江の渚鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし
                         作者未詳

万葉集、巻十五。
武庫-摂津国の歌枕。兵庫県、武庫川の西側、六甲山南側の旧都名。神宮皇后が三韓出兵の後、兵器を埋めたことに由来するという。
邦雄曰く、詞書には「新羅に遣はさえし使人ら別れを悲しびて贈答し、また海路にして情を慟み思ひを陳ぶ」と。武庫川の入江にたぐえられた男こそ新羅への使人、彼の懐で愛された女人が、悲しみのあまり贈った歌。答歌は「大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを」。女歌の不安な二句切れと、激しい推量の響きは、男歌に遙かに勝る、と。


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きぬぎぬに別るる袖の浦千鳥‥

2006-07-27 17:09:02 | 文化・芸術
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-表象の森- 蝉と螢と人間と

 長梅雨もやっと明けて、一気に夏本番。
早朝、近くの公園の樹々の下をそぞろ歩くと、ひととき蝉時雨に包まれ、不意に異空間に滑り込んだかと思われるほどだ。
蝉たちのさんざめきは夏の一炊の夢にも似て儚いが、それにしてもこの大合唱の同期現象は造化の奥深さに通じている。


 4月頃に読んだのだが、マーク・ブキャナンの「複雑な世界、単純な法則-ネットワーク科学の最前線」(草思社刊)に出てきたホタルのファンタジック・スペクタル。
「パプア・ニューギニアの熱帯雨林の黄昏時、10メートルほどの高さのマングローブの樹々が150mほどにわたって川沿いに伸びるのをタブローにするかのように、何百万匹ものホタルが樹々の葉の一枚一枚に止まり、2秒に3回のリズムでいっせいに光を明滅させて、そのきらめきの合間には完全な漆黒の闇に包まれる」という。なぜホタルたちは同時に光を放つことができるのか。この驚くべき壮観な光景も、造化の不可思議、蝉時雨と同様、同期現象のなせるわざだが、これは我々人間における心臓のペースメーカーにも通じることだそうだ。


 人工ではない心臓のペースメーカーは大静脈と右心房の境目にある洞結節と呼ばれる部分の働きによるらしい。この心筋細胞の集まりは、心臓の他の部分にパルスを発信し、これが心臓の収縮を引き起こすもととなる。蝉時雨やホタルのファンタジック・スペクタルと同様、厳密に同期した信号を発生させ、それらの信号が各部位の細胞に伝えられたびに、心臓の鼓動が生じているということだ。心臓のぺースメーカーたる洞結節に不調が起これば、心拍は乱れ、たちまちに死が訪れることにもなる。

 先に紹介した「海馬-脳は疲れない」でも触れられていたが、最近の脳科学の知見においても、知覚の基本的な働きでは、脳内の何百万もの細胞が同期してパルスを発信させることが不可欠であることが明らかとなっているように、これもまた同様の同期現象ととらえうる訳だが、どうやら、自然界には組織化へと向かうなにか一般的な傾向があるようだと、「スモールワールド」をキーワードに最近のネットワーク科学を読み解き、さまざまな視点から紹介してくれているのが、本書「複雑な世界、単純な法則」だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-34>
 知らせばやほの三島江に袖ひちて七瀬の淀に思ふ心を  源顕仲

金葉集、恋上、忍恋の心を詠める。
邦雄曰く、「七瀬の淀」は万葉の「松浦川七瀬の淀はよどむとも」等にみる「数多の瀬」を意味し、固有名詞にあらず。ほんの一目の恋に、涙にくれる日々ながら、思いよどんで告げるすべさえ知らぬと悲しみを訴える。「明日香川七瀬の淀」とともに松浦川のほうも歌枕と解する書もあるようだが、この歌、第二句に摂津の歌枕「三島江」が懸詞として現れるから関りあるまい、と。


 きぬぎぬに別るる袖の浦千鳥なほ暁は音ぞなかれける  藤原為家

中院集、元仁元(1224)年恋歌、海辺暁恋。
邦雄曰く、最上川河口の「袖の浦」は、古歌に頻出する「袖」の縁語として、殊に恋歌に愛用された。新古今・恋五巻首の定家「袖の別れ」は、ここに「浦千鳥」となって蘇り、霜夜ならぬ未明の千鳥は忍び音に鳴き、かつ泣く。後朝の癖に「暁は」と念を押すあたりに、為家らしい鷹揚な修辞の癖をみるが、「きぬぎぬ=衣々」と「袖の浦」の縁語は意味深い。


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近江にか有りといふなる三稜草‥‥

2006-07-26 17:17:50 | 文化・芸術
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-表象の森- 非協力という抵抗

 「その写真は、最近まで、とこかに保存されてあった。それは、僕のむつきのころの俤だが、それをみるたびに僕は、自己嫌悪に駆られたものだった。まだ一歳か、二歳で、発育不全で、生っ白くて元気のない幼児が、からす瓜の根のように黄色くしわくれ痩せ、陰性で、無口で、冷笑的な、くぼんだ眼だけを臆病そうに光らせて、O字型に彎曲した足を琉球だたみのうえに投出して、じっと前かがみに坐っている。この世に産み落とされた不安、不案内で途方にくれ、折角じぶんのものになった人生を受取りかねて、気味わるそうにうかがっている。みていると、なにか腹が立ってきて、ぶち殺してしまいたくなるような子供である。手や、足のうらに、吸盤でもついていそうである。」

 金子光晴の「絶望の精神史」「詩人-金子光晴自伝」(両者とも講談社文芸文庫)と、牧羊子著作の「金子光晴と森三千代」をたてつづけに読んでみた。
いかにも刺激的な幼少期における環境の変転ぶりと、繊細で気弱な一面と頑ななまでの劇しい性格の矛盾相克が、異邦人としての破天荒なまでの放埒と放浪を生み、非協力を貫き通した抵抗詩人たる独自の詩魂にまで結実し、金子光晴的唯我独尊の、かほどの光彩を放ったかと、相応に合点もいったが、したたかにぐさりともきた。


 「非協力――それが、だんだん僕の心のなかで頑固で、容赦のないものになっていった。」という彼は、ずっと慢性生気管支カタルを病んでいた病弱な息子にまで招集令状が来たとき、徹底した忌避作戦に出る。息子を部屋に閉じこめて生松葉でいぶしたり、重いリュックを背負わせ夜中にやたらと走らせる。また、ひどい雨の中を裸で長時間立たせたりと、あらゆる手を尽して、気管支喘息の発作を起こさせようとするのである。首尾よく医師の診断書を手にした彼が、軍の召集本部まで出向いて、やっとのことで応召を一年引きのばしてもらえたのが、敗戦もまじか、昭和20年3月の東京大空襲のあった日だったという。

 「日本人について」という小論のなかで彼はこうも言っている。
「人間の理想ほど、無慈悲で、僭上なものはない。これほどやすやすと、犠牲をもとめるものはないし、平気で人間を見殺しにできるものもない。いかなる理想にも加担しないことで、辛うじて、人は悲惨から身をまもることができるかもしれない。理想とは夢みるもので、教育や政治に手渡された理想は、無私をおもてにかかげた人間のエコでしかない。」


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-33>
 よしさらば涙波越せたのむともあらば逢ふ夜の末の松山  正徹

草根集、十二、康正元年十月、百首の歌を祇園の社に奉る中に、不逢恋。
邦雄曰く、海の潮ならぬ涙の波が松山を越えよと歎く。初句切れの開き直ったような、その言葉もすでに涙に潤んでいるのも巧みな技法の効果であろう。「あらば逢ふ夜」は、むしろ「世」すなわち一生の趣が濃く、絶望の色さえ漂う。「かたしくも凍れる袖の湊川なみだ浮寝に寄る船もなし」が「冬恋」の題で見え、これも技巧の勝った歌である、と。


 近江にか有りといふなる三稜草くる人くるしめの筑摩江の沼
                         藤原道信


後拾遺集、恋一、女の許に遣はしける。
天禄3(972)年-正暦5(994)年。太政大臣為光の子。母は伊尹の女。従四位左近衞中将にいたるも23歳で夭折。歌名高く、大鏡などに逸話を残す。拾遺集以下に49首。小倉百人一首に「明けぬれば暮るるものとはしりながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」が採られている。
三稜草(ミクリ)-ミクリ科の多年草。沼沢地に生える。球状の果実を結び、熟すと緑色。
筑摩江(ツクマエ)-筑摩神社のある現・滋賀県米原市朝妻筑摩あたりの湖岸。
邦雄曰く、朝妻筑摩の筑摩江には菖蒲や三稜草も生うという。繰る繰る三稜草のその名のように、人を苦しめるだけの女であった。大鏡にその名を謳われたいみじき歌の上手、貴公子道信は23歳を一期として夭折する。それゆえに、なおこの呪歌は無気味である。その苦しみは近江=逢ふ身につきまとう業と、作者は諦めつつ、なほ女を恨んでいた、と。


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わが袖は潮干に見えぬ沖の石の‥‥

2006-07-24 18:06:55 | 文化・芸術
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-表象の森- 紫色の火花と芥川の自殺

 昭和2(1927)年の今日、7月24日未明、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」なる言葉を遺して自殺したのは芥川龍之介。薬物による服毒自殺だが、35歳というまだ若い死であった。
芥川の忌日を「河童忌」というようだが、もちろん晩年の作品「河童」に因んでのこと。
龍之介の実母は、彼の生後7ヶ月頃、精神に異常をきたしたといわれ、それ故に乳飲み子の彼は、母の実家である芥川家に引き取られ、育てられたというが、そのことが龍之介の内面深くどれほどの影を落としたかは想像も及ばないが、彼の憂鬱の根源にどうしても強く関わらざるを得ないものであったろう。


 久米正雄に託されたという遺作「或阿呆の一生」は彼の自伝とも目される掌編だが、いくらか脈絡の辿りにくい51のごく短い断章がコラージュの如く配列されている。
例えば「八、火花」と題された断章、
 「彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は相変わらず鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。」
彼の命と取り換えてでも掴みたかったという、「紫色の火花-凄まじい空中の火花」が何であったかはいかようにも喩えられようが、同人雑誌に発表するという懐に抱いた彼の原稿が、その一瞬に輝いた閃光に照射されるという僥倖が、ここで自覚されていることはまちがいあるまい。
だが、彼を生の根源から揺さぶる憂鬱は、その僥倖さへなおも生き続けることへの力と成さしめなかったようで、「四十四、死」では、
 「彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて縊死しようとした。が、帯に頸を入れて見ると、俄かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみの為に恐れたのではなかつた。彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。するとちよつと苦しかつた後、何も彼もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時計の針を検べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを発見した。窓格子の外はまつ暗だつた。しかしその暗の中に荒あらしい鶏の声もしてゐた。」
と書かしめ、最終章の「五十五、敗北」へとたどりゆく。
 「彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。」
この稿了は昭和2年6月と打たれているが、すでに久しく彼の生と死はまだら模様を描き、ただその淵を彷徨いつづけているのみ、とみえる。
7月24日の龍之介の自殺が、早期の発見を自身想定した狂言自殺だったとの説もあるようだが、よしんば事実がそうであったにせよ、この遺稿を読みたどれば、その真相の詮索にはあまり意味があるとも思えないし、後人が狂言説を喧しく言挙げしないのも納得のいくところだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-32>
 見し人の面影とめよ清見潟袖に関守る波の通ひ路  飛鳥井雅経

新古今集、恋四、水無瀬の恋十五首歌合に。
邦雄曰く、歌合での題は「関路恋」、本歌は詞花・恋上、平祐挙の「胸は富士袖は清見が関なれや煙も波も立たぬ日ぞなき」。袖の波とは、流す涙の海の波。番(つがい)、左は家隆「忘らるる浮名をすすげ清見潟関の岩越す波の月影」で、持(じ)。いずれも命令形二句切れの清見潟ながら、右の本歌取りの巧さは比類がない。この歌のほうが新古今集に採られたのも当然か、と。


 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間ぞなき
                        二条院讃岐


千載集、恋二、寄石恋といへる心を。
邦雄曰く、源三位頼政の女、讃岐は、この代表作をもって「沖の石の讃岐」の雅称を得た。家集に「わが恋は」として見え、千載集選入の際、選者俊成が手を加えたものか。「わが恋は」のほうが、より強く、しかも「乾く間」に即き過ぎずあはれは勝る。父の歌にも、「ともすれば涙に沈む枕かな潮満つ磯の石ならなくに」があり、併誦するとひとしおゆかしい、と。


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