山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

それとなき夕べの雲にまじりなば‥‥

2006-05-31 23:05:54 | 文化・芸術
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-表象の森- 小栗判官

 滅多に戯曲など読まない私だが、このほど梅原猛の「小栗判官」を読んでみた。市川猿之助一座のスーパー歌舞伎「オグリ」の上演台本の元となったものだが、その舞台への関心からではない。嘗て私自身が一遍の踊り念仏と説経小栗をネタにして舞台を創ったことがあり、梅原小栗との対照をみてみたいと思ったからにすぎない。
梅原「小栗判官」は全編260頁の大部。全二幕二十五場、これをそのまま上演に供せば5時間に及ぶものとなろうか。説経小栗の伝承世界が、さまざまなエピソードを網羅して懇切丁寧に語り尽くしてくれるものではある。現代版小栗判官絵解き芝居とでもいえようか。だがあまり面白くないのである。梅原氏特有の理に落ちた場面なり言葉なりがずいぶんと目立ち、筋売りや説明に堕する箇所が多いのだ。


日本架空・伝承人名辞典によれば、説経小栗判官のルーツは「鎌倉大草紙」にその片鱗が見受けられることから、享徳年間(1452-55)の、鎌倉公方家と管領家の闘諍に連座して滅んだ常陸の小栗氏の御霊を鎮めるために、常陸国真壁郡小栗の地の神明社と所縁のあった神明巫女が語り出したものが、藤沢の時宗の道場に運ばれて、時宗文芸として成長したものと考えられている。小栗が鬼鹿毛を乗り鎮めるなどには、馬にまつわる家の伝承が流れ込んでいると見られるが、相模国を中心として御霊神祭祀を司り、牧をも経営した大庭氏の職掌に関係しているのではとされている。
また、小栗は鞍馬の毘沙門天の申し子とされ、照手は日光山の申し子とされており、さらに死後においては、小栗は墨俣の正八幡、異伝には常陸国鳥羽田ともされ、照手は墨俣の結ぶ神社、異伝には京都北野の愛染堂、に祀られたとするなど、ひろく各地の伝承が流れ込みながら形成されてきたとみえる。


蟻の熊野詣でと称されたように、古代から中世・近世へと、熊野古道(熊野街道)を経ての熊野詣では、伊勢参りと双璧のごとくひろく伝播した信仰行脚の旅であったが、この熊野への道を小栗街道と異称されるようになるのは、この説経小栗譚の民衆への浸透ゆえだ。

「この者を、藤沢の御上人の、明塔聖の、一の御弟子に渡し申す。
 熊野本宮、湯の峯に、お入れあってたまわれや。
 お入れあって、たまわるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げべき」
と、地獄の閻魔大王の大音声が谺すれば、築いてはや三年の小栗塚は、四方へ割れてのき、卒塔婆はかっぱと転んで、餓鬼病みの姿に転生した小栗が、彼方此方を這い回る。藤沢の上人はこれを土車に乗せ、胸札には「一曳き引いたは、千僧供養、二曳き引いたは、万僧供養」と認めては、男綱女綱を打ってつければ、男ども女ども手綱を取って、えいさらえい、えいさらえい、と引き出だす。
と、これより熊野本宮は湯の峯までおよそ180里という道のりを、街道筋の善男善女や道中道すがらの者たちに、壮大なリレーよろしく引き継がれてゆくのである。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-12>
 紫は灰さすものそ海石榴市の八十の衢(ちまた)に逢へる児や誰
                                    作者未詳


万葉集、巻十二、問答の歌。
海石榴市(つばいち)-大和国の歌枕、椿市とも。奈良県桜井市三輪町の金屋辺り、椿市観音が残る。
邦雄曰く、大和の三輪に近い海石榴市は、椿油・材・灰等を中心とする交易で栄え、雑踏引きも切らず、男女ひしめき、おのずと嬥歌(かがひ)の地として知られていた。紫紺染めの媒染剤として、椿の灰は不可欠である。序詞はそれを指し、意は結句の「誰」、名を知りたいことに尽きる。椿は国字、唐では海彼から来た安石榴(ざくろ)のような花ゆえに海石榴(つばき)とした、と。


 それとなき夕べの雲にまじりなばあはれ誰かは分きてながめむ
                                  待賢門院堀河


風雅集、雑下、夕暮に雲の漂ふを見て詠める。
生没年不詳。神祇伯顕仲の女。前斉院(令子内親王)に仕え六条と呼ばれ、後に待賢門院に仕えて堀河と名乗った。待賢門院出家に随って尼となる。金葉集以下に67首。
邦雄曰く、雲は死後の火葬の煙、たとえば、今あの西空に見える鱗雲が誰の亡骸を焼いたものかは、誰にも知れないように、自分もまた雲になってしまえば、地上の生ける人々は、見分けることもあるまい。微かに恋の趣を含みつつも、無常の嘆きひそかに漂う、あはれ深い歌である、と。


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熟田津に船乗りせむと‥‥

2006-05-30 23:44:26 | 文化・芸術
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-表象の森- 栃拭漆楕円ノ器

 3月12日付で触れた伝統工芸展で、村上徹君の木工作品「栃拭漆楕円ノ器(トチフキウルシダエンノウツワ)」が見事「近畿賞」の栄に輝いた。これはささやかなりとも彼を囲んで祝宴あげるべしと、昨日(5/29)が最終日の「日本伝統工芸近畿展」に京都高島屋へと出向いた。会場で落ち合ったのは、梶野哲さんと啓さん兄弟、谷田君と私の4名。展示総数は約270点、3月に心斎橋そごうで観たときの、所狭しと重なるように並べ立てられた展示に比べれば、それぞれの作品を堪能するに適した展示であり空間であった。

しばらくあって村上君登場、午後5時閉館で作品の搬出作業もあるので、彼とはあとで落ち合うことにして、我々4人はまだ明るい河原町界隈を、ほどよい居酒屋を求めて歩く。三条木屋町の角あたり、これは帰り際に知らされたのだが、近藤正臣の母者が営んでいるという旧いが少々品のよさそうな店に落ち着いた。

酉年と戌年という一歳違いの梶野さん兄弟、今どき70代をご老体と呼んではお叱りを受けようが、それにしても老いたるを知らぬ邪気たっぷりの溌剌コンビは、我が儘気儘に舌鋒冴えて飛び交う会話も変人奇人の迷走宇宙。年老いて子どもに還るというが、かたや高校美術教員として他方ドイツ文学・美学の学究の徒としてひたすらに生きてきたこの兄弟は、まだ頑是ない頃からずっと早熟な子どものまま変わらず年を経てきたような妖怪変化の類なのだ。

やっと合流した本会の主賓村上君を囲んで祝杯を挙げて、5者の放談はさらに空中戦の様相を呈す。したたかに酔いもまわって話の行方も定まらぬ。そろそろ潮時かとやっと腰を上げたときは飲み始めてから3時間半を経過していたろう。

村上君の供した話題で、先の大阪の展示会場、心斎橋そごうでは空調設備がお粗末で、なんと室内湿度が常時20~30パーセントとか。彼の作品は一枚物の木からの刳抜(くりぬき)漆器なのだが、一週間の会期楽日にわが作品と対面して、乾燥で木肌は痩せ艶失せて見る影もないほどに哀れな姿になっていたというのには驚かされた。私などその前日に出かけて観賞したわけだが、そんな精緻なことが分るはずもない。その道のプロの眼というものに感じ入るとともに、木の作品とはまさに呼吸し生きているものなのだと痛感させられた。

私にとって初会の梶野啓さんには、彼著作の「ゲエテ-自己様式化する宇宙」を、1万円也を越す高価本のこととて、図書館にはあろうから借り出して読んでみると約したものの、今日早速調べてみるも、残念ながら蔵書目録になし。他の著作はと調べてみれば「複雑系とオートポイエシスにみる文学想像力-一般様式理論」なる長題の本が一冊、これはアマゾン古書で廉価に手に入るようだから、どうもタイトルに気圧されそうだが、近い内に挑んでみようと思う。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-11>
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
                                     額田王


万葉集、巻一、雑歌。
夙に人口に膾炙した万葉歌。斉明期661年1月6日、斉明女帝は西征の船団を率いて難波の港を発つ。14日に四国松山の近く熟田津(にきたつ)に到着、道後温泉に行宮を設けた。天智中大兄、天武大海人の二皇子以下、その姫や寵姫らも船団に在った。
邦雄曰く、「今は漕ぎ出でな」と、船団の出立を、作者自身が朗詠し、士気を鼓舞したという説もあり、三句切れ四句切れと息も吐かせず、命令形結句へ畳み込む、雄渾な趣き溢れる名歌。


 都にも久しくいきの松原のあらば逢ふ世を待ちもしてまし  周防内侍

新続古今集、離別。
生没年不詳。周防守平棟仲の女という。名は平仲子。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代に仕えた。後出家してまもなく歿。後拾遺集以下に35首。百人一首に「春の夜のゆめばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」。
邦雄曰く、大納言源経信が筑紫へ赴任する時、餞別に贈った歌。生(いき)の松原は福岡県早良郡壱岐村の浜。神功皇后征韓首途の際、松を逆さに地に刺して、凱旋したらこの松が「生き」ようと占われた故事あり。内侍の歌の底にも、この悲愴な趣は湛えられていよう。「あらば逢ふ世を待ちもしてまし」は、寧ろ再会を殆ど期待していない心が仄かに見える、と。


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さみだれに花橘のかをる夜は‥‥

2006-05-29 12:20:07 | 文化・芸術
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-表象の森- 明治ミリタリィ・マーチ-03

<間のび-思い入れ>-センチメンタリズム

 社会にむかう大衆の「ナショナリズム」がセンチメンタリズムとして表現されるに至る過程とは、2/4拍子と同一のリズム原理を保持しつつ――2/4→4/4→6/8→3/4拍子‥‥と変貌をかさねてゆく過程である。
上限からの脱落は、<近代>的強弱拍そのものの回避を意味した。そして強弱リズムをあらかじめ放棄した、土謡的な等時拍三音の発想を西洋風の三拍子に癒着せしめそこに定住すること――「青葉の笛」がそうであり、また近代唱歌のひとつの到達点というべき「故郷」がもっとも典型的に示しているのも、それ以外ではない。この過程が意味するのは、上限から下限へ、また下限から上限へ、<根源=局限>がほとんど同一的に循環を繰り返している定型様式の所在である。


けれども、まずテンポの二重性<規範-心情>となってあらわれた違和の本当のモティーフは、<三拍子とはなにか>を深く本質的に問うことの涯に、みずからの根源を同一循環から切り離し解き放ち、まったく別の原基=原理に立たしめようとする志向ではなかったのか――もちろんあくまでも、<音楽>ではなく<詩>の問題として。
  ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノート」より抜粋


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-20>
 ほととぎす皐月水無月分きかねてやすらふ声ぞ空にきこゆる
                                     源国信


新古今集、夏、堀河院御時、后の宮にて、閏五月郭公といふ心を
延久元(1069)年-天永2(1111)年、村上源氏の裔、右大臣源顕房の子、権中納言正二位。堀河院歌壇で活躍、自らも源俊頼・藤原基俊ら当代歌人を集め歌合を主催。「堀河百首」を詠進。金葉集初出。
邦雄曰く、例年の五月の次に閏五月、五月が二度ある暦法の変則を、知らぬ鳥がとまどって、鳴こうか鳴くまいか、水無月なら季節外れになると、その弱々しい声を、遠慮がちに聞かせるとの趣向。12世紀初頭、金葉集時代の、詞書あっての面白さで、嫌う人もあろう。あくまでも出題に際しての、当意即妙を楽しむべき一首、と。


 さみだれに花橘のかをる夜は月澄む秋もさもあらばあれ  崇徳院

千載集、夏、百首の歌召しける時、花橘の歌とて詠ませ給うける。
邦雄曰く、たんに橘の花が香るのではない。五月雨の夜、月も星もない漆闇の中に、あの冴え冴えとした酸味のある芳香が漂うのだ。明月天に朗々たる秋夜も何しょう、私は雨夜の橘を愛するとのおおらかな宣言。一種悲壮な潔さを感じさせ、彼の惨憺たる晩年を予言するかのよう、と。


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菖蒲にもあらぬ真菰を引きかけし‥‥

2006-05-28 04:04:16 | 文化・芸術
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-表象の森- 栄利秋の彫刻「木の仕事」

 畏友というには先輩にすぎる。奄美大島の出身、南国の島の民らしい風貌と体躯に、人懐っこい柔和な笑顔がこぼれるとき、一瞬、黒潮に運ばれてくる暖かい大気に包まれるような心地よさがある。栄利秋兄、1937年生れの彫刻家。その作風は、素材が木であれ石であれ、あるいはブロンズであれ、生の根源に迫ってすぐれて雄大、太陽に、海に、そして宇宙にひろがるイメージがある。彼のいくつもの抽象的なオブジェが、パブリック・コレクションとして、全国各地、市民たちの群れ集う広場、さまざまな公共の空間に棲みつき、大気と共振し、宇宙と交感しながら、生命の輝きそのものを人々に伝えている。その作品たちのもっとも新しきは長野市の笹ノ井駅西口に魂振るがごとく立っているはずだ。

いま、「栄利秋-木の仕事-」と題された作品展が大阪の信濃橋画廊で開催されている。
5月22日から6月3日までの2週間、今日はすでに中日を迎え折り返し点というわけで、遅きに失したとはいえ、なおまだ一週間あるので、此処に掲載紹介することは些かなりとも意義はあろう。


栄利秋 profile
現代彫刻・造型作家。
1937年鹿児島県奄美大島に生れる。
大阪学芸大学芸学部(美術)を経て、
65年京都市立美大美術専攻科(彫刻)を修了、優秀賞受賞。
翌年、現代美術の動向に招待出品。以後数々の美術展・彫刻展に招待出品し、
第3回現代日本彫刻展・宇部興産賞、ヨコハマビエンナーレ86彫刻展・協賛賞、
第13回神戸須磨離宮公園現代彫刻展・土方定一記念賞、第30回長野市野外彫刻賞など受賞多数。
初期の木彫から樹脂へそして石へと、その素材の遍歴は、故郷奄美の太陽や海といった雄大な自然がイメージの源泉となって、作品のスケールをよりダイナミックなものへと変容させ、「すべての生命への讃歌としての彫刻」に相応しい独自の造型世界を創出してきた。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-19>
 菖蒲にもあらぬ真菰を引きかけし仮の夜殿の忘られぬかな  相模

金葉集、恋上。
邦雄曰く、心のままに逢うこともできぬ人と、淀野で真菰を引きかけて、仮のしとねを作り、かりそめの夜を過ごした。普通ならば香気に満ちた菖蒲を敷いて寝たろうに、とは思いつつも、その慌ただしく、映えぬ夜殿が、かえって忘れがたいと歌う。この歌、男への贈歌だが、本来なら男から彼女へ歌い贈るべきだろうが、それもまたあはれ、と。


 よそにのみ見てやは恋ひむくれないの末摘花の色に出でずは
                                  詠み人知らず


拾遺集、恋一、題知らず。
邦雄曰く、末摘花は後の源氏物語巻名にも見え、あまねく知られる紅花。万葉集巻十「夏の相聞・花に寄す」には、「よそのみに見つつ恋せむくれないの末摘花の色に出でずとも」とあり。また古今集恋一の、「人知れず思へば苦しくれないの末摘花の色に出でなむ」と互いに響きあい、花と恋の照応を楽しませる、と。


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雨はるる軒の雫に影見えて‥‥

2006-05-27 06:09:34 | 文化・芸術
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-表象の森- 明治ミリタリィ・マーチ-02

<根源の解体>――「戦友」

 「敵は幾万」や「勇敢なる水兵」などの軍歌、「箱根八里」などの中学唱歌、そして寮歌から「鉄道唱歌」までをふくむおなじリズム型、単一強化の行軍リズムとでも名づけるべきものが明治ミリタリイ・マーチの本質であった。
そして上限における強化に対して、下限からの自己解体を含んであらわれたのが、テンポの二重化であり、<規範-心情>の乖離そして<間のび-思い入れ>であり、ついには行軍リズムそのものを三拍子的にひきのばすにいたるのである。
――その分岐をなすのが明治38年の「戦友」である。
あたうかぎり理念化され――加速的に進軍しつづけた明治的二拍子リズムは、そのピークをすぎていまや減速――すなわちなんらかの現実化を迫られる。些か比喩的にいうなら、このリズム自体の内部に、<ゆきだおれ>を含まざるをえない――それを象徴しているのが「戦友」である。
「これが見捨てて置かりょうか、しっかりせよと抱き起こし‥‥」というように。


  ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノート」より抜粋

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-18>
 かきつばた衣に摺りつけますらをのきそひ狩りする月はきにけり
                                    大伴家持


万葉集、巻十七、天平十六年四月、独り平城の旧き宅に居て作る歌六首。
邦雄曰く、青紫色の花摺り衣を着て、出で立つは着襲(きそい)狩、すなわち鹿の若角等、後には薬用植物を採集した薬狩。雄渾壮麗ともいうべき、家持独特の美意識の横溢する秀歌で、調べも実に若々しい、と。


 雨はるる軒の雫に影見えて菖蒲にすがる夏の夜の月  藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、南海漁夫百首、夏十首。
邦雄曰く、長雨は夕方になって霽れたがなおしたたる雨垂れ、その水滴の伝う軒に葺かれた菖蒲の彼方、消え残る月。すべて黒一色の影絵、宵ひとときの淡い三日月の逆光に見る一種慄然たる負の世界。冴え渡った詩人の眼は、すでに現実の風景から遙か他界を凝視しつつあったのだ、と。


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