山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

いつはりのつらしと乳をしぼりすて

2008-01-31 11:58:32 | 文化・芸術
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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

―表象の森― 中西武夫

嘗て、中西武夫さんという劇評家がいた。今は懐かし、ABCTVの長寿番組「部長刑事」の演出を1958(S33)年の第1話から第1513話までの間、なんと865本の演出を手がけた-Wikipedia参照-という人であるが、当時の私はそんな来歴も詳しく知らず、すでにかなりのご高齢とお見受けするも、ただいつからともなくわりときちんと私の創る舞台を観に来てくださるめずらしい御仁と思っていた。
私の仕事はいかほどか演劇的であっても舞踊が主体の世界であったから、当時流行りの小劇場演劇を中心に関西の演劇評を書かれていた中西さんが、何故私の舞台にマメにお出ましになるのかよく解せなかったし、またその舞台評を書くべき掲載どころもなかったであろうから、折角ご覧頂くもなかなかそのご高見に触れる機会とてないままに年月ばかり流れていった。
その中西さんにやっと筆を揮っていただけたのが以下の一文である。83年の何月号だったか、演劇雑誌「テアトロ」誌面に掲載された。

螺線館/四方館/風浪舎の3劇団の合同で「空を飛んだ鶏と銀色の松ボックリ」可能あらた作、林田鉄・嶋田三朗演出<夢の道行‘83夏三都連続公演>と肩書するこのダンスドラマは、尼崎のピッコロ中ホールからはじまり、大阪のオレンジルーム、神戸の生田神社のテントと三つの異なる空間で演じられた。私のみたのは第1回のピッコロでの公演であったが初日に拘わらず、混乱なくその熱演に感動さえ感じた。
おびただしい古新聞紙をまるめて作った塊りを積み重ねた山、それは照明で、紫陽花の花のように美しく私には思えた。その中でうごめき、その山をくずし、現れる鶏たち ― 雄も雌も、タイツとレオタードの踊り手、演技者たちである。―略―
1.ブロイラーの逃亡、2.鶏たちの夢、3.狂った鳥と松ボックリ、4.鶏たちの体験飛行、5.空を飛ぶための肉体と精神、6.可能性の空間に挑む者、6つの章で、なぜ鶏は鳥ではないのか? なぜ飛べないのか? を次々に問いつめていく。
原作の叙事詩らしい台詞は短いが、台詞を超す動きと踊りがたしかに<肉体で語る言語>として、観客の心に浸透し、揺さぶっていく。羽ばたけ、くちばしと爪を研げ! 自由の空へ飛翔せよ! ブロイラーは鶏たちに教え、鶏たちは人間に教える。
林田鉄の「螺旋の河をゆく阿呆船」「走れ、メロス」「アンネ・ラウ」「大津皇子」の作品は全部みてきた。彼はこんどの作品で、彼の詩的感覚とエネルギーを彼のいう身体表現の中で結合させている。―― いい仕事だった。

末尾に添えられた文章を眼にしたとき、私は心の中で快哉を叫ぶほどに悦んだが、だからといって私から謝辞の信書を出すとかそんなコンタクトは採らなかった。舞台を創る側がこれを観て評する側をどう遇すべきか、当時の私はそういう術を心得ていなかった。いや現在に至っても変わらずそうなのかもしれない。

この当時すでに70歳代後半であったろう中西武夫について、昨夜ネット探索してみて、いまさら判ってきたことなのだが、彼は昭和初頭すでに宝塚歌劇団座付の若手作家としてデビューしている。驚いたことに「東亜の舞踊」という書を編著者として出版しているが、これが戦時下の昭和18(1943)年である。訳書には「ベートーベン書簡集」というのもある。この初版が昭和3(1928)年らしい。さらにはシュールリアリズムの画家としてまた写真家として活躍したマン・レイと知友だったようで、マン・レイの書いた中西武夫宛の手紙が残されているという。
ざっとこんなところで、略年譜さえどこにも見あたらず、戦後はともかく、戦前の中西武夫の足跡は、点と点が線へとつながらず、その像は漠として描けない。
しかし、このわずかな情報からでも、晩年の劇評家としての彼の前身は、むしろ詩や舞踊や音楽、20年代、30年代の表現主義世界によりSympathyがあるように見受けられる。
劇評家中西武夫が、70年代から80年代、演劇というよりは舞踊主体の世界である私の仕事をずっと観つづけてくれていたのは、そのもう一つの視線からの関心ゆえだったのかもしれない。

たった一度だけだが、その中西さんと言葉を交わしたことがある。というより正確には彼の方から直に声をかけていただいたのだが、それは81年4月、劇団きづがわの舞台で、兄-双生児-の時夫が自身係争中の解雇撤廃闘争を描いて木津川筋争議団ミュージカルと副題した「船と仲間とど根性」の振付をしたもので、偶々終演後のロビーで中西さんと出会したところ、「やっぱり、貴方の手が、しっかり入っていたんだネ」とか云われ、「いやあ、どうも畏れ入ります」とかなんとか応じたのだが、後にも先にもこれきりだった。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-09

   髪はやすまをしのぶ身のほど    
  いつはりのつらしと乳をしぼりすて  重五

次男曰く、恋含みとも読める前を承けて「二句恋」とした作りだが、野水・芭蕉の付合を男女の問答体と読めなかった後世の評釈は、いずれも、其の人を任意に女と見立てた付と解し、芸のない恋話をここで設けたがる。殆どの説が、「いつはりのつらし」とは男の裏切りに対する女の恨みだと云っている。

そうではあるまい。「いつはりのつらし」とは、世間-庵主-に対して身上を偽る-身一つを装うて宿を請うた-女の切なさ、と読んでごく自然に解釈がつく。「乳をしぼりすて」は「しのぶ身のほど」から取り出した表現の移りで、人目を憚る行為と読めばよいが、託して云いたいことは、空虚を忘れるためには実を棄てるしかない、ということだ-虚は棄てられぬ-。与える相手がなく自ずと張ってくる乳は、なるほど女にとって実の最たるものである。この見究めは俳諧になる。

「いつはりのつらし」を、庇ったり憎んだりする値打ちもない男への恨みなどと考えては、まったく話のさまにならぬと思うが、露伴にして「いたづらに乳を絞りすてつ、これもまた人の吾に誠の情無きよりなりと、つれなきを悲しみ歎けるさまにて、姿情おのづから明らかなり」と説いている。信じがたいことだ、と。


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髪はやすまをしのぶ身のほど

2008-01-30 22:13:11 | 文化・芸術
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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-温故一葉- 岸本敏朗さんへ

 寒中お見舞。
お年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。

昨年は劇団創立50周年だったとか、さぞかし感慨深く、また、さまざまな周年企画で多忙と充実の一年をおくられたことでしょうね。
秋に上演された「新開地物語・後編」も好評且つ盛況の裡に終えられたようで、心よりお慶び申し上げます。

もう久しくお逢いする機会を得ませんが、ご壮健にてご活躍の様子を眼にしては、80年の「猫は生きている」でしたか、いつのまにかこんなに年月を経てしまったのだと些か吃驚しつつも、元町の稽古場へと通った日々などを懐かしく想い起こしおります。

近頃の私はといえば、時に「山頭火」を演じることもあるとはいえ、その機会もまだまだめずらしく、また舞踊の方では、稽古とはいえ即興を専らとするものであってみれば、私はただひたすら観照するを自身に課すばかりですから、暢気といえばこれほど暢気なものはなく、日常は読書三昧とMemoの如き由無し言のブログ綴りの日々といえましょうか。

ふりかえれば理知的な思索よりはまず直感的な行動ありきだった往時とはずいぶんと遠ざかったもので、われながらこの変容は何処からやってきたものかと些か奇異な感じさえ抱いているような始末です。

いずれなにごとかの機会を得てまたお逢いできる日もありましょうが、その節はいろいろとお話などお伺い致したく存知おります。
益々ご壮健にてご活躍のほどを。
 08 戊子 睦月晦日

岸本敏朗さんは神戸の劇団四紀会の演出家で、現在71歳。自立劇団として1957(S32)年発足した四紀会は昨年創立50周年を迎え、記念の公演として採り上げたのが「新開地物語・後編」で彼の演出。

彼が「走れ、メロス」-78年-神戸公演を芦屋のルナホールで観たのをきっかけとして、「猫は生きている」の振付を依頼された。上演が80年4月だったから、彼から突然の連絡を受けたのは前年の暮れ近くだったろう。四紀会の稽古場は元町駅前のビルの6階だったが、此処へ週2回ほどのペースで3.4ヶ月通ったのではなかったか。

「メロス」の舞台は、全編を貫く20数名のコロスによる群舞や集団演技が表現の要ともなるもので、その出演者の大半が公募による素人の若い人たちであり、彼らをほぼ半年かけて鍛えながら創り上げていったのだが、彼と偶々一緒に観た宝塚歌劇団の研究生が「こんなに激しい動きを、これほど揃って踊っているなんて、凄い。私たちだってこんなにはとてもできない」と感嘆しきりだったという話を、彼自身の感想とともに私にしてくれていたのが、私の脳裏に焼き付いている。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-08

  わがいほは鷺にやどかすあたりにて  
   髪はやすまをしのぶ身のほど    芭蕉

次男曰く、「わがいほは」の句は、喜撰の歌を下に敷いて、当世風隠者のことばをうまく見定める付だが、起情をはかった狙いは別にある。興業の発端が「狂句こがらしの身は竹斎に似たるかな-芭蕉」、「たそやとばしるかさの山茶花-野水」で、併せてみみ裏入にあたる座巡が偶々野水・芭蕉でなかったなら、右の応酬はまず生まれなかったろう。旅の風狂者を迎えた興のなごりが、亭主の好き心をあらためて唆したと考えればよい。

あなたが鷺なら一夜の宿をかすところだが、という野水の挑発に、ではひとつアマサギ-尼鷺-になるか、と芭蕉は答えている。冬羽は白だが、繁殖期にかけて胸や背に朱紅色の飾り羽が生え、頭・頸部が狐色に変わる中型のサギである。体形はややゴイサギに似て、首が短くて太い。別名、猩々鷺とも呼ばれ、本州には夏鳥として渡る。そこが読み取れれば、なにやら訳ありながら尼の還俗ばなしも、問答の下地もおのずと見えてくる。

   天王寺へ詣で侍りしに、俄に雨降りければ、
   江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければ詠み侍りける
 世の中を厭ふまでこそ難からめ仮のやどりを惜しむ君かな  西行
   返し
 世を厭ふ人とし聞けば仮の屋に心留むなと思ふばかりぞ  遊女妙

新古今集・羈旅歌に選び、選集抄にも見え、謡曲「江口」でおなじみの問答歌だが、芭蕉は、右の男女の位相を翻し、道心の一興を「恋の呼び出し」-恋の示唆を以て作意とした句-に奪って作っている。併せて、事実上「野ざらし」の旅を終えた男の、当座の心境もまた一種の還俗だったと考えれば、「髪はやすまをしのぶ身のほど」とは濃尾逗留中の自画像とも読めて、この七・八番は発句・脇のみごとな打返しになる。まったく、したたかなことをやる俳諧師だ、と。


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わがいほは鷺にやどかすあたりにて

2008-01-29 21:05:16 | 文化・芸術
Rasenkan

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-表象の森- 多和田葉子とRASENKAN

螺線館の嶋田三朗が市川ケイととりのかなの「三人関係」で活動の場を世界へと求めて旅立っていったのは89(S64)年からで、もうかれこれ20年になる訳だ。
昨夕、その嶋田君と市川さんの二人と、小嶺由貴を交えた4人でゆっくりと話し込む機会を得た。彼らとともに合同公演として取り組んだ「空を飛んだ鶏と銀色の松ボックリ」が83(S58)年のことだったから、まさに四半世紀を経ての語らいか。

もちろんこの25年の間、お互いにまったく疎遠であったわけではない。彼らの舞台でいえば、たしかウィングフィールドだったと記憶するが、近松世界を寓意化したかのような芝居を観ているし、ドイツに住んで日本語とドイツ語で小説をものする多和田葉子が彼らのために書き下ろした戯曲「サンチョ・パンサ」の上演が、OBPの松下IMPホールで行われた際にも出かけていっている。彼らのほうも帰国した折には、私らの公演に二度、三度とひょっこり顔を見せてくれていたのだから。
彼らは2月初旬にはまたドイツへ戻るという。やはり多和田葉子が書き下ろした新作「出島」のベルリン公演を控えているからだ。

作者の多和田葉子自身がベルリンでの「サンチョ・パンサ」観劇記にこう記している。
「自分は本来、演劇そのものに関係のある作家ではないという気がいつもしていた。それでもこれまで何回か演劇プロジェクトに関わってきたのは、小説にも内容だけでなく音と文字という言語身体があるように思えてならなかったからだ。つまり、ジャンルとしての戯曲を選んで書いたわけではなく、どんなテキストにも声や動きになりたがっている部分があるという意識から戯曲を書いた。それをよく理解してくれているらしいらせん館は、わたしにとって舞台動物であると同時に読書集団でもある。」

「今回の公演における言葉の変身術では、スピード調節、断片化、繰り返し、などの音楽的要素の他に、母国の異なる俳優のそれぞれが、自分の故郷の言語だけを話すというのではなく、ドイツ語をしゃべり、更に日本人がスペイン語を話したり、他の人たちが日本語を話したりもした。もしもそれぞれが自分の言語だけを話していたら、アイデンティティ押し付けの民俗劇に似てしまう危険もあっただろう。しかし、この演出では、ルーツを探しているわけじゃない、ということがはっきりしていた。祖国などという幻想にしがみつくのではなくて、今現在をその場に共生する人たちと言葉を交わしながら作り出していく<移動民>の言語である。」

00(H12)年9月28日付、朝日新聞夕刊の「文芸時評」では津島佑子が「サンチョ・パンサ」についてほぼプロットを要約したあとにつづけて
「戯曲というこの形式で、多和田氏の本領がのびのびと発揮されたという印象があり、これまでともすると氏の小説にとまどいを感じずにいられなかった言葉の過度な運動力が、ここで疑いようのない魅力となって定着している。戯曲とは、本物の人間の肉体によって、現実の場で、そして現実の観衆の前で演じられることが前提となっている言葉の世界なので、どれだけ言葉が抽象的に浮遊しても、その言葉を支える肉体の現実性とのバランスが働く。むしろ、戯曲では言葉はあくまでも身軽に、大胆に動きつづける必要があるということらしい。」と評している。

多和田葉子とRASENKANの嶋田三朗君たちの出会いは、どうやらお互いにとってよき協働者となっているようである。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-07

   日のちりちりに野に米を刈
  わがいほは鷺にやどかすあたりにて  野水

次男曰く、初折・裏入。雑の句である。鷺という季語はない。打越と合わせれば前句は一意の風景だが、遠見の人物に姿情がないわけではない。野水はそれを掬って、すかさず起情している。当然だが「野に米を刈」人と「わがいほは」と名告る人は、別人でなければならない。

鷺が宿借る、鷺が寝に来るなどと作らずに、「やどかす」としたのは連句的云回しの面白さで、「(有明の主水に酒屋)つくらせて」なども同じ手法だが、とりわけ問答を誘うと知らせる体の作りにおいて利く。

仕立ての型は「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」だろう。小倉百人一首にも採られた喜撰のこの歌は、古今集の雑歌で、「しかぞ」は「然ぞ」、鹿ではない。ないが、鹿と解する俗伝が却って滑稽の種を提供したようだ。宇治山の隠者と鹿の取合せは俳諧になる。むろん、当人も会衆も「しかぞすむ」の本義を知っていて、作者が野水だと気付いていなければ、こういう句の面白みはない、と。


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日のちりちりに野に米を刈

2008-01-28 13:55:07 | 文化・芸術
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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-06

  朝鮮のほそりすゝきのにほひなき
   日のちりちりに野に米を刈    正平

次男曰く、散散ならチリヂリだが、物の縮むさま、日の薄れるさまを表す副司ならチリチリである。
打越-前々句-を朝、前句を昼と、時分を見定めて晩景を付出している。稲刈りを「米を刈(る)」と云回したところも、単なる貞享頃の流行りと見過すわけにはゆかぬようだ。「米を刈」は季語とも云いきれぬ。春秋の句は三句以上-五句まで-という制式に照らせば、はこびは次のように読める。

  有明の主水に酒屋つくらせて-雑(月-秋)
   かしらの露をふるふあかむま-秋
  朝鮮のほそりすゝきのにほひなき-秋
   日のちりちりに野に米を刈-雑(秋)

続きを秋三句と見るか四句と見るかは、人それぞれで、当座のことは作者たちにでも聞くしかないことだが、「米を刈」は「有明の主水」をにらんで合せの秋とした一趣向と読んでよい。ならば、雑の詞を以てしたこの稲刈りはよほど季節外れで、さては晩稲刈なるか。思いがけぬところに滑稽の狙いをさぐらせる。「にほひなき」を細り芒から落日に移した付には違いないが、そもそも思い付きのヒントは前句の作者-杜国-が米屋だったかからかもしれぬ。

五人の連衆で歌仙を巻けば、七巡と一句を余す。初折・表六句目に執筆-この場合、正平-の座を設けて、初巡abcde(f)、二巡以下をbadca・ecbedの繰り返しとするのが通例である。正平は尾張の人で小池氏を称したと伝えるが、詳らかにしない、と。


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朝鮮のほそりすゝきのにほひなき

2008-01-27 09:34:18 | 文化・芸術
Alti200412

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-世間虚仮- 弱り目に‥‥

鬼の霍乱(?)といえば、ウンウンと唸って床に臥せっている者に対してあまりにつれないか。
イヤ、困った。とうとう連れ合い殿がインフルエンザに罹ってしまった。
京都のアルティ・フェスを間近に控えてなんたることか、昨日も今日も、いわば追い込み、仕上げの稽古と組んでいたのに、まったくもって想定外、ホント、弱った。
もちろん近頃とみに脅威の伝えられている新型インフルエンザではないから、そこは一安心ではあるが、ここへきて稽古にならないのは、とにかく痛い。

それにしてもこの7.8年、彼女の職場環境は年毎に苛酷さを強めてきている。昨春の配置転換で、休日出勤もめずらしくはなくなったし、いわゆるサービス残業というのも常態化している始末だから、かなりの疲労が蓄積されてもいたろう。ウィルスへの抵抗力はよほど弱まっていたものとみえる。
弱り目に祟り目、病魔はちゃんと見逃さない。

まこと鬼神ならば病魔など懼れるに足らずだろうが、そこは人である。気力と体力、どちらが過剰となってもいいことはない。忙しく立ち振る舞わねばならない身であれば、なおさら己をよく知る養生訓が必要だ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-05

   かしらの露をふるふあかむま  
  朝鮮のほそりすゝきのにほひなき   杜国

次男曰く、碩学の露伴や折口信夫の評釈では、朝鮮芒なるものに拘り、「にほひなき」をその生態と眺めているが、「朝鮮の」は、前句「あかむま」を虚から荷馬の実へ奪うために思い付いた詞で、「ほそりすゝき」にとっての枕にすぎない。

赤馬-朝鮮馬は、当時すでに半島系の馬が日本種に代わってもてはやされていた証拠になるだろう。無さそうで有るもの、有りそうで無いものが連想を紡ぎ出す興の本質だとわかっていれば、初めから朝鮮芒などという怪しげな名に捕まることはなかったわけだ。

尾張酒は、西浦を中心に知多郡各地で醸造された。杜国の句は、前を景に奪って駄送りと見た作りで、新酒の香に酔いながら匂い無き野を行くとしたところに俳を持たせている。諸注は、其の場を見立て替えて活気から侘びしさへ転じた付だと説明するが、それではせっかくの「かしらの露」が死語になる。其の人にせよ其の場にせよ、連句のはこびに見立てを濫用したがるのは、物の晴陰・乾湿・長短・高低、言葉の虚実が見えていない証拠である。

露も芒も兼三秋の季だが、「にほひなき」と括れば季はおのずと深秋へ、時刻も朝から昼へと動くだろう。露消えて陽すでに高く、秋気かえってそこに充つと感じ取らせる、さりげない座五文字の遣い方がうまい、と


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