山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

さいさいながら文字問ひにくる

2008-05-31 23:44:44 | 文化・芸術
Db070510039

―表象の森― 予感と徴候、余韻と索引

<A thinking reed> 中井久夫「徴候・記憶・外傷」みすず書房より

・生きるということは、「予感」と「徴候」から「余韻」に流れ去り「索引」に収まる、ある流れに身を浸すこと。

予感と徴候、余韻と索引、これら両者は現実には、ないまぜになり、あざなえる縄のようになって現れる。

予感は徴候の出現に伴うこともあるが、先駈けることのほうが多く、予感とは主体優位に云うならば、「徴候を把握しようとする構えが生まれるときの共通感覚」、逆に対象優位に云うとすれば、「明確な徴候以前のかすかな徴候-プレ徴候ともいうべきもの-を感受していること」である。

予感が微分的、すなわち微細な差違にすべてをかけるのに対して、余韻とは、経験が分節性を失いつつ、ある全体性を以て留まっていることであり、それは積分的といえよう。

しかし、余韻と予感には、ほのかな示唆的な性向とでもいうべき、相通じる性格がある。余韻の感受は、予感の感受と似ている。

徴候と予感との関係-徴候とは「在の非現前」、予感とは「非在の現前」と云えるかもしれない。

純粋徴候というものはない。徴候とは、必ず何かについての徴候である。対して、予感というのは、まだ存在していないこと、しかし、それはまさに何かはわからないが、何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。

同じことが索引と余韻についても云えそうである。
索引とは、過去の何かを引き出す手がかりであり、むろん純粋索引というものはない。対して、余韻はたしかに存在したものあるいは状態の残響、残り香に喩えられるが、存在したものが何かが問題ではない。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-32

  秋の田をからせぬ公事の長びきて 

   さいさいながら文字問ひにくる  芭蕉

次男曰く、無筆が何度も訴訟文の書き方を聞きにくる、と句の表は作りながら芭蕉は、ずいぶん越人の学問癖、尚古癖に悩まされた、と云っている。

どうやらこれで見ると、「源氏」にこだわり、第三の句を見咎めてわざわざ「窮屈」好みではこぼうと云い出したのは越人のほうだったようだ。親愛の情のなかにもちょっぴり皮肉を利かせた軽妙な付である、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

秋の田をからせぬ公事の長びきて

2008-05-30 16:09:26 | 文化・芸術
Db070510046

―世間虚仮― Nepal、共和制へ

いよいよと云うかやっとと云うか、ネパールが王政から共和国へと移行したと伝えられている。

28日、新憲法を制定する憲法制定議会は、240年続いた王制の廃止と連邦共和制の導入を宣言して新生国家としての歴史的第一歩を踏み出し、「ネパール王国」から「ネパール連邦民主共和国」になった、と。
まずはめでたし、とはいえ前途もまた多難のようである。

実質上の行政権の長たる首相には、議会第1党となった毛派-共産党毛沢東主義派-のプラチャンダ書記長がなる見込みというが、屋上屋を架す、政治的権限をもたぬ象徴としての国家元首たる大統領を置くとされており、新政府の船出早々、この人選と権限をめぐって紛糾しているという。
民間へ降りビジネスに専念するという前国王ギャネンドラを支持する勢力もなおくすぶっているようだし、不安定要素に事欠かない情勢。

連邦共和制を採りながら大統領は象徴とし、イギリスやわが国にも似た議院内閣制ともいうべき奇妙な政治体制。
民主化へと、安定化へと、軟着陸させていく道のりは、まだまだ遠いのだろうか‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-31

   砧も遠く鞍にゐねぶり  

  秋の田をからせぬ公事の長びきて  越人

次男曰く、名残裏入である。

刈入れをすっかり遅れさせたのは、訴訟沙汰が長引いたからだ、と付けている。はこびを手間取らせたのは私の不手際からだ-申し訳ない-、と読替えればよい。越人の恐縮である。秋三句目を以てしたうまい付だが、「砧も遠く鞍にゐねぶり」がなければ思い付く筈もない人情である、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

砧も遠く鞍にゐねぶり

2008-05-29 18:04:07 | 文化・芸術
Db070509t049

―表象の森― 稗田阿礼は女?

古事記の編纂者と伝えられてきた稗田阿礼は女だったという説が有力なようである。

女性説は民俗学の柳田国男や国文学の西郷信綱も唱えているそうな。
古事記序文には舎人とあるから、従来男性と考えられてきたわけだが、女性説は平田篤胤など江戸時代からすでに唱えられていたそうだ。

抑も「アレ」という語は神の誕生を意味する古語で、これに立ち会う巫女の名にふさわしいと。
また、平安初期の文書「弘仁私記」の序には、阿礼が天細女命-アメノウズメノミコト-の後裔とされている。

よく知られるとおり、天細女は、天の岩屋戸神話、天孫降臨神話などでシャーマン的な能力を発揮した女神だが、猿女-サルメ-氏の祖ともされる。
猿女とは古くは原始的呪的伝統を引く「をこ」-痴・烏滸、滑稽の意-なる歌舞をもって宮廷神事に仕えた巫女で、天細女の話はその職掌起源譚でもあった。

稗田姓は大和国添上郡の地名にもとづくもので、猿女氏と稗田氏は同族であったろうと考えられている。
また、平安朝に猿女と同じく縫殿寮に属していた稗田氏出身の女官職は、オバからメイへと継承されていたという。これは生涯独身で過ごす巫女職ならではの継承法であった。

これらを考え合わせると稗田阿礼は猿女に属する巫女であり、その由縁をもって古事記編纂に関わったと考えるのが妥当、というのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-30

  行月のうはの空にて消さうに  

   砧も遠く鞍にゐねぶり   芭蕉

次男曰く、「八月九月正ニ長キ夜、千声万声了ム時無シ」、「和漢朗詠」にも採る白楽天の詩-夜、砧を聞く-である。

季節は、夕顔のはかない恋の始終に見合っているだろう。単に季続の必要上任意に「砧」を思い付いたわけではない、

「夕顔の巻」には、「見し人のけぶりを雲とながむれば」の歌に続けて、「耳かしがましかりし砧の音をおぼし出づるさへ恋しくて、まさに長き夜、とうち誦じて-源氏は-臥し給へり」と語っている。

「砧も遠く」とは、この「おぼし出づるさへ恋しくて」に照応する追憶の情を含としたものだ、とまずわかる。

当歌仙の対座の興にこれを執成せば、獲物を仕留めるまでに、「鞍にゐねぶり」するほど手間をかけたなあ、ということになる。よく辛抱して凌いだ、と越人を賞めてもいる。やれやれこれで終った、という自身の安堵の気分もむろんある、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

行月のうはの空にて消さうに

2008-05-28 16:01:50 | 文化・芸術
Mantarou1

―四方のたより― 行き交う人々:池田万太郎こと‥

一コマ漫画の「池田万太郎の楽画記」を一頁ずつ見、読みつつ、ひととき、遠い昔の高校時代を甦らせている。

作者万太郎こと池田義徳さんは先日も触れたが市岡の13期生、2年上だ。その面影を追えば、一見おっとりとしているようでかなりの道化者、茶目っ気たっぷりのハニカミ屋さんといったタイプで、スラリと180㎝近くの長身だったように記憶する。

彼が演劇部の部室に顔を出すようになったのは、60年、私が高一の夏、6月の新人公演も終えて、秋の文化祭や府下のコンクール予選に向けて、上級生たち、3年の吉岡保則さんや深海勝也さん、2年で新部長の上木英嗣さんらを中心に、レパ選に入っていた7月だったろう。

前年の部長だった吉岡さんは高校生最後の機会にどうしてもやりたいものがあった。木谷茂生の「太鼓」、この作品は都島工業の演劇部が前の年のコンクールで初めて演じている。当時の都工の演劇部は様式性の勝った簡潔な舞台づくりで一定の評価を確保していたかと思われるが、それが木谷茂生の些か観念的な象徴性の強い詩劇的ともいえる作品世界とよくマッチングしたのだろう、この舞台を観た吉岡さんたちには少なからず新鮮な刺激を与えたらしかった。私はまだ中学生だったからもちろん観ていない。

一方、深海さんは、自身が幼い頃過ごしたという和歌山の-湯浅あたりでなかったかと思うがはっきりしない-土地にまつわる伝承譚、丑の刻参りを材に、自ら書いた創作劇を候補に挙げて執着を示していた。

この場面通常なら、二者択一とならざるを得ないわけだが、いずれを落とすのも忍び難いといった体でみんな頭を悩ましたようだった。「太鼓」のほうは前年に都工の上演がありコンクール向けとしては疑問が付され、深海さんの執着とオリジナルだということを優先させるべきという意見に大勢は傾いていく。だが、吉岡さんたちの「太鼓」への執念も強かった。そこで異例のこととなるが、文化祭には「太鼓」と「丑の刻参り」の二作を上演することに、コンクールへは後者を、という双方ともに活かす案に衆議決したのだった。

高校生活はじめての夏休み、私はそれほど退屈する暇もなく過ごしたようである。高校野球夏の予選では、吉岡さん伝授で応援団の一員として試合のたびにアルプス席に立った。応援団長の吉岡さんは11期の三好征次氏直伝だったという。いつも太鼓を打っていたのは深海さんだ。7月いっぱいでこれが終ると、「丑の刻参り」の稽古に入っていった。8月のある日、深海さんの懐かしい地へ方言拾集にとみんなで出かけたこともあった。

9月、二学期が始まると「太鼓」のほうも稽古がはじまって、二本並行の準備は本格化、装置やら照明やらとずいぶん慌しいものだった。

木谷茂生の劇作「太鼓」や「火山島」はその出版が93年をもって絶版となっているようだから、高校演劇などで採り上げられるその寿命はかなり長いものだったようである。

「太鼓」の舞台は第二次大戦中の前線だが、それが大陸なのかあるいは南方方面なのか場所の特定はなくすでに抽象化されている。登場人物はおもに二人、初年兵らしい少年とその上官である軍曹、この二人が斥候として漆黒の夜の前線に立っている。長年の兵隊暮らしに馴れきってもう内地への帰参など望むことさえ忘れはててしまった、すでに職業軍人化した古参兵と、いかに生きるかがそのままいかに死ぬかへと反転して宙づりになってしまった少年兵が、前線という極限のなか、決して噛み合う筈もない対話をたがいのモノローグのごとく重ねていく。

劇のラスト、敵の戦車が来襲してきたかとみえる轟音が響き、少年は叫ぶ「軍曹!軍曹!」、返事はない、そば近くにまどろんでいた筈の軍曹の姿はいつのまにか消えていた。近づく戦車の轟音がさらに大きくなるなか、絶望の叫び声が暗闇に空しく響いて、幕となる。

おそらく人生最初で最後、一度こっきりの役者というものに挑んだ池田さんが演じたのはその軍曹の役、吉岡さんが彼の柄の大きさを見込んで言葉巧みに?誘い込んだのではなかったか。普段は茶目っ気たっぷりの明るい彼が、ニヒルさを漂わせながら抑揚を殺して台詞を喋る。標準語のアクセントやイントネーションにずいぶん悩まされたようだったが、本番の出来は、いわゆる味のある演技とでもいうか、なかなか上々の部で、その彼の地と演技の乖離がいまも鮮やかに残る。舞台全体としても緊張感の持続した叙情的で美しいものであった。

さていまは万太郎画伯となった彼の一コマ漫画の世界、僅かながらもその人となりを知る者にとって、ほのぼの心暖かくなるような画調に、添えられた詞が寸鉄のごとくよく諷刺が効いている、彼ならばいかにも然もありなんかという世界である。
「楽画記」にはその一コマごとにごく短いエッセイの如きあるいは物語の如き一文が添えられているが、これまた彼らしい感覚と思考かと思われいかにも懐かしい味がする。

本書の奥付を見るにおよんで、この出版が私もよく知るところの安治川べりの石炭倉庫、あんがいおまること久保岡宣子女史の会社JDCだったと気づいて、なんだそうだったか、たしか彼の実家は市岡の尻無川近くにある池田製作所ではなかったか、同じ港区という地縁で知り合うこともあったかと納得。

彼の作品は「万太郎ギャラリー」という名で見られるが、もう一つ、大阪市の外郭団体大阪市道路公社が出す広報誌「POOL」にも池田万太郎の一コマ漫画の世界として連載されている。

写真は「楽画記」末尾の作品だが、おそらく原画はカラーなのだろうが、印刷の都合でかモノクロとなっている。
これに添えられた一文が、彼らしい一面を彷彿とさせて愉しいので最後に引いておく。

「私は自分が着けている、紳士面した仮面が無性に嫌になり、かなぐり捨てたくなるときがあります。
 でも、そうすることはとてもとても恐ろしくて、自分で剥がす勇気がありません。
 いっそ風が吹いて、私の意志でなく、仮面が吹き飛ばされたら良いのにと思います。
 ただし、仮面の剥がれた卑しい私を見つけてくれるのは、大好きなあなたでしかないと嫌です。」

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-29

   あの雲はたがなみだつゝむぞ  

  行月のうはの空にて消さうに   越人

次男曰く、名残ノ折の月の定座。

 「山の端の心も知らで行く月はうはの空にて光-カゲ-や絶えなん」
八月十五夜も明け方近く、何某の院に女を伴った源氏が、
 「いにしへもかくやは人のまどひけん我まだ知らぬしのゝめの道」
と詠掛けたのに対して、女が返した歌である。

越人の句は、いわゆる俤取りなどとは違う。そっくりそのまま持ち込んだ栽入で、これは師の「月と花比良の高ねを北にして」の作りと釣合わせる意図もあったのだろうが、この両吟のそもそもの興の種明しである。

やっと出来た、という越人の破顔が目に見えるような作りだ。
物語の順序と引き違えて、九月二十日ほどの源氏の追憶が前に出、十五夜の夕顔の心細さが後に出てくるところが、はこびの成行上そうならざるを得なかったのには違いないが、偶然とも云えぬ俳諧の面白さである、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

あの雲はたがなみだつゝむぞ

2008-05-27 19:18:48 | 文化・芸術
Db070509t008

―表象の森― 向こう側から見る-親鸞の還相

吉本隆明の「老いの流儀」-NHK出版-のなかに、親鸞の思想、とりわけ「還相」の捉え方を分かり易く説いてくれている一章がある。以下はその論旨に沿って要約してみたもの。

親鸞の場合、「本当の死」とは、肉体の死でもなく精神の死でもない。「ある場所」だという解釈をしている。それは実体化した死とも実体化した浄土とも異なる場所であり、これを親鸞は仏教用語で「正定聚の位」と云う。
比喩で云うなら、王や天皇になる前の皇太子のようなもので、王や天皇が退位-大概は死ぬことだが-すれば、これを継承することは約束されている。ある場所-正定聚の位とは、そういった約束された場所であり、そこへ行けば浄土へ行ける、それが「本当の死」だということで、「現世」と「来世」の間にある「ある場所」なのだ、と。

親鸞の師である法然は、ひたすら念仏を唱えれば、必ず浄土へ行ける、とした。ところが、親鸞の他力本願は、念仏を唱えれば浄土-来世-に行けるというのではなく、「ある場所」に行けると云っているのだと思う。さらに、その「正定聚の位」から「現世」の人にまみれて生きることができたときに、初めて衆生-民衆-の救済は可能になる、というのが親鸞の考え方だ。

念仏を唱え、「正定聚の位」に行って、そこから帰ってこなければならない。帰ってきたときに初めて救済の問題は出てくるのであって、そうでないかぎりは、どんな救済も不徹底なものでしかない。ひとたび「正定聚の位」まで行って、そこから帰ってきて人々の中にまみれたときに、初めて徹底的に人を助けおおせることができるのだ、と。

宗教者ではない立場から見れば、親鸞が云うこの「ある場所」とは、ある精神の場所というか観念の場所ではないか。現実のわれわれが物事にぶつかるとき、それはいつもこちら側から向こう側に、である。だがもし「向こう」から、あるいは「背後」から、また未来からその出会いを見られたら、その向こうからが「死」という場所だろう。向う側からの視点、それは、いわゆる生きている「生」でもなければ、息絶えた「死」でもない、「ある場所」であり、そこから見ることなのだ。そのある場所からなら、死や未来にあるべき姿を全体のイメージで見られるのではないか、生のこちら側から見ても、ある程度は見当もつくが、すべてが分かることはありえない。向こう側から見ること、向こう側の「ある場所」から見られるとすれば、完全に事柄の全体像が分かるはずだ、と。

※「正定聚-ショウジョウジュ-」とは、岩波仏教辞典に拠れば、
正性決定-ショウジョウケツジョウ-とも云い、まさしく悟りが決定している人またはその位を意味する。
親鸞は「信心定まるとき往生また定まるなり」-未灯鈔-と云い、無量寿経に「即ち往生を得、不退転に住す」とある「即得往生」とは此の世-現世-において正定聚に住することである、と現世正定聚ということを強調する。「信心の定まらぬ人は、正定聚に住したまはずして、うかれまひたる人なり」」-未灯鈔-、とある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-28

  あやにくに煩ふ妹が夕ながめ 

   あの雲はたがなみだつゝむぞ  芭蕉

次男曰く、「夕ながめ」の内容を付けている。

他の作り-前句-のアシライと見るべき付で、次に自の答を誘うように問掛の体を以てしているが、打越に「露は-こぼれて」とあれば「なみだ-つゝむぞ」と寄添うたあたり、やはり上手のはこびである。-かくすぞ、染めるぞ、では連句にならぬ。

俤の選択の余地を残しながら、お目当てはむろん夕顔である。
「見しひとのけぶりを雲とながむれば夕の空もむつましきかな」

呆気なく頓死した薄幸の女を偲んで源氏が詠む歌で、右近と語り合う長月二十日ほどのくだりに出てくる。
 「こもりくの泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかあらむ」
-土形の娘子を泊瀬の山に火葬る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌。万葉集・巻三-

 「ゆふぐれは雲のはたてに物ぞ思ふ天つ空なるひとを恋ふとて」 -古今集・恋-

原型はこのあたりだが、「源氏」より下って、「新古今」時代になると雲を物思いのたねにした歌は珍しくない。

露伴注釈は「恋する人の夕眺め、暮雲に涙を誘はるるなど有勝の事なるべければ、古歌など引くにも及ばぬことながら、特に家隆の歌-
 「思ひいでよ誰がかねごとの末ならん昨日の雲のあとの山風」-千五百番歌合-
は新古今和歌集巻十四にも出でて、源氏物語の夕顔の君を悲み傷める源氏の歌を思ひて吟ずれば、あはれ深き歌なり。‥流石に芭蕉なれば、一転して俳諧に扱ひて、誰が涙つゝむぞとは作れるなり」、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。