山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

此比の能、盛りの極めなり

2005-01-18 03:24:50 | 文化・芸術
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風姿花伝にまねぶ-<7>

<三十四、五>

 此比の能、盛りの極めなり。
 ここにて、この条々を極め悟りて、堪能になれば、
 定て、天下に許され、名望を得べし。
 若、此時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふ程なくば、
 いかなる上手なりとも、未だまことの花を極めぬ為手と知るべし。
 もし極めずは、四十より能は下るべし。それ、後の証拠なるべし。
 さる程に、上るは三十四、五までの比、下るは四十以来なり。
 返々(かへすがへす)、此比天下の許されを得ずは、
 能を極めたるとは思ふべからず。ここにて猶慎しむべし。
 此比は、過ぎし方をも覚え、又、行先の手立をも覚る時分也。
 この比極めずは、この後天下の許されを得ん事、返々難かるべし。


世阿弥がこの風姿花伝を執筆したのが、三十四、五のこの頃である。
芸の道、とりわけ舞台芸術とは一回性の世界であり、一回一回が勝負である。
一回性の芸能においては後世になってから名が出ることはあり得ないというもの。
一回一回の今の芸の名声の積み重ねにしか<天下の名望>は生まれない。
盛りの極めのこの頃に天下の名望を得るは、<まことの花>である。
この時期から四十代へかけて、天下の名望を得ていなければ、
未だまことの花を極めぬ為手(シテ)だ、というのだ。
この時期に<まことの花>を極め得ぬ場合、四十歳以後はどんどんダメになっていく。
最後の二行、この頃はようやく<過去>という自ら歩いてきた道もよく見え、
以後の辿るべき道、方途もおのずと見えてくる、という。


わが師Kの三十四、五歳というこの時期は、彼の作家としてのおよそ半世紀にわたる生涯の、初期の黄金期と呼べるものだったろう。
私がK師に師事したのが、K師34歳、私は19歳であったのだが、
翌年からの彼の創造は誠に上昇気流に乗ったものであったし、作品「対話」で未知なる新境地を開き、初期作品群の画期となったのは三年後のK師37歳だった。
私もまた、K師の薫陶を享けた所産をもって、自身の果実と成した舞台「走れメロス」は78年秋、満34歳になったばかりだった。
以後の私は、K師の影響下から離陸せんと、自己固有の創造世界へと長い旅立ちをし、ひたすら今日まで虚仮の白道を歩む。


 ―参照「風姿花伝-古典を読む-」
     馬場あき子著、岩波現代文庫