山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

面影の花をや誘ふ雲の色は‥‥

2005-12-31 11:20:39 | 文化・芸術
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Information-Aliti Buyoh Festival 2006-

-今日の独言- 晦日の餅つき

 2005年もとうとう年の夜、大晦日である。昨夜はふと子どもの頃からの餅つきの光景を思い出していた。私が育った家では、まだ明けやらぬ暗がりのなかで、威勢のいいかけ声とともに杵を打つ音がこだましたものだった。毎年必ず30日の早朝に執り行う年越しの年中行事は、早朝から昼前頃まで続き、多い時で3斗、少ない時でも2斗余り、石臼は二升ものだったから、12~15臼ほど撞いていたことになる。身内の者が出揃って賑やかに繰りひろげられたこの年越し恒例の餅つきも途絶えてしまってもう二十年余りになるか、街なかでも滅多にお目にかかれない光景となり、いつしか記憶の中だけの、彼方の出来事になりつつあるのはやはり寂しいものだ。

  暮れ暮れて餅を木霊のわび寝かな  芭蕉

  わが門に来そうにしたり配り餅   一茶

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-19>
 面影の花をや誘ふ雲の色は枝も匂はぬ木々の朝風  三条西實枝

三光院詠、冬、雪散風。永正8年1511)-天正7年(1579)、戦国時代の歌人・古典学者。三条西三代は實隆・公条・實枝と連なり、歌・書とともに香道にて一家をなした。實枝は細川幽斎に「初学一葉」を与え、古今伝授を行なった。
邦雄曰く、雪あたかも花のごとく、今、冬のさなかに桜の華やかな光景が心に浮かぶ。風に散る雪は花吹雪、第二句「花をや誘ふ」は疑問ならぬ強勢、技巧は抑揚に富み。複雑な調べを生んでいる、と。


 星きよき梢のあらし雲晴れて軒のみ白き薄雪の夜半  光厳院

光厳院御集、冬、冬夜。
邦雄曰く、完璧に描き上げられた墨絵調の冬景色。しかも民家が取り入れてあるのが珍しい。立木の裸樹が夜空に枝を張り、点々と咲く星の花、なお風は荒れているがうっすらと積った雪は凍ろうとしている。あらゆる雪夜の要素をぎっしりと歌い入れて、さまで騒がしからぬのは作者の天性によるもの、と。


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わたつみとあれにし牀を‥‥

2005-12-29 23:58:55 | 文化・芸術
051129-145-1

Information-Aliti Buyoh Festival 2006-

-今日の独言- 2005年、不帰となった人々

 今年、不帰の人となった著名人一覧を見る。記憶に新しいところでは、11月6日、歌手の本田美奈子38歳の骨髄性白血病によるその若すぎる悲運の死は多くの人に惜しまれた。また12月15日、オリックス監督だった仰木彬70歳、癌の進行を耐えながら決して表に出さず野球人生をまっとうした見事な死に世間は多いに感動しつつ悼んだ。9月19日、晩節は苦渋に満ちたものだったろうが一代の成功者、ダイエー創業の中内功83歳と、政界のご意見番的長老後藤田正晴91歳が同じ日に旅立っている。花田兄弟骨肉の争いがマスコミに格好の餌食となった元大関貴乃花55歳の死も晩節の孤独を思えば悲しくも侘しい。別な意味で記憶に残るのが薬害エイズ事件の被告安倍英88歳、認知症のため高裁公判が停止されたまま心原性ショックで4月15日不帰の人となったのは本人にとってはむしろ幸いであったろう。映画関係では先ず小森のオバチャマで一世を風靡した小森和子95歳、岡本喜八81歳と野村芳太郎85歳の両監督に加えて石井輝男81歳。作家丹羽文雄は100歳と天寿を全うの大往生。同じく作家の倉橋由美子69歳はまだまだ彼女独特のワールドが期待できた惜しむべき死。あの「あぶさん」が懐かしい漫画家永島慎二67歳の死もまた惜しまれる。建築家の丹下健三91歳、清家清86歳と大御所が相次いでいる。あと上方の芸能界では吉本の岡八郎67歳、講談の旭堂南陵88歳。海外では天安門事件で失脚の憂目をみた中国共産党総書記だった趙紫陽85歳と、アメリカの第二次大戦後を代表する社会派劇作家アーサー・ミラー89歳の死が眼を惹く。
 最後に、個人的に強い感慨をもって悼むべきを挙げれば、6月9日歌人塚本邦雄84歳と、8月2日劇作・演出家秋浜悟史70歳、ご両所の死である。―― ただ黙して合掌するのみ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-7>
 むばたまの妹が黒髪今宵もやわがなき牀(とこ)に靡きいでぬらむ
                                  詠み人知らず


拾遺集、恋、題知らず。
むばたまの=ぬばたまの(鳥羽玉の)-黒や夜に掛かる枕詞。ヒオウギ(檜扇)という植物の黒色球状の種子とされる。平安期にはむばたまの、うばたまのと用いられた。
邦雄曰く、男の訪れの途絶えたのを恨む歌は数知れないが、男のほうが疎遠になった女を思いやる作品は珍しい。自分の居ない閨に、愛人の髪が「靡きいでぬらむ」とは、いかにも官能的でなまなましい。誰か他の男の通うことを案じるのが通例だろうが、この初々しさはそのまま若さでもあろう、と。


 わたつみとあれにし牀をいまさらに払はば袖や泡と浮きなむ  伊勢

古今集、恋、題知らず。生没年不詳。伊勢守藤原継蔭の女。宇多天皇の中宮温子(基経女)に仕え、温子の兄仲平と恋愛し、天皇の寵を受け皇子を生み、また、皇子敦慶親王との間にも中務を生んだ恋多き女。
邦雄曰く、男が夜離(よが)れして久しく、閨も夜床も、あたかも荒海さながらに凄まじくなり果てた。今更、訪れを期待して払ったら、袖は溢れる涙のために、かつ海の潮に揉まれて、泡のように漂うだろうとの、いささか比較を絶した譬喩が、むしろ慄然たる味を生む。「わたつみ」にさほどの重い意味はないが、泡との照応もまたかりそめのものではない、と。


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雪へ雪ふるしづけさにをる

2005-12-29 04:04:12 | 文化・芸術
ALTI-20060211

<四方の風だより>

<Alti Buyoh Festival 2006>

 近年はビエンナーレ方式(=隔年開催)で行なわれているAlti Buyoh Festival-アルティ・ブヨウ・フェスティバル’06のプログラム全容が決まり、チラシが送られてきた。
2月10日(金)、11日(祝)、12日(日)の三日間、会場は京都府民ホール・アルティ、主催は京都府と財団法人京都文化財団である。
参加は計17団体。従来は延べ五日間にわたって開催されほぼ30団体の参加で行われてきたことを思えばずいぶんと絞り込まれた形だ。今回の特色は韓国からモダン・クラシック・韓国古典舞踊と異なるジャンルの団体が三夜にひとつずつ各々出演する。加えてニューヨークのソリストも参加しており、国際色も加味されてきた。とはいっても京都3・大阪4・兵庫3とやはり地元勢が主力だが、北海道、神奈川、岐阜からの参加もあるから、三夜それぞれのプログラムも従来に比してメリハリの利いたものとなる期待を抱かせる。


 わが四方館の出演は11日のトリと決まった。
詳細についてはホームページに掲載したのでそちらをご覧いただければ、と取り敢えずのお知らせ。


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かきやりしその黒髪の筋ごとに‥‥

2005-12-28 00:06:40 | 文化・芸術
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-今日の独言- そごう劇場

 今月初めからか心斎橋そごうが新装なってオープンているが、14階の最上階には小さなホールとギャラリーを併設している。ホールのほうはその名もそごう劇場。昨夜は奥村旭翠とびわの会による「琵琶で語る幽玄の世界」が催されていたので久し振りに小屋へと足を運んできた。定席270席ほどの小ぶりで手頃なものだが、ロビーの居場所のなさには些か閉口。舞台環境も奥行きに乏しく、照明は前明りばかりで、これではとても当世の演劇向け小屋にはほど遠かろう。映画の上映会や小講演、和事のおさらい会や、ちょっとしたレビューもどきならなんとかこなせるだろうが、それ以上のことは望めそうもない。当夜の演目では、劇場付とおぼしき音響スタッフの未熟さが目立った。琵琶の語りと演奏をマイクで拾うのいいが、耳障りなほどのヴォリュームにあげていた。影マイクのナレーションにしてもやはりそうだったから、これは設備の問題以前だろう。語り物や和事の演奏ものは、この程度の小屋ならナマのままでも十分よく聴こえる空間だが、それでも音響機器を通す場合はあくまで音場のバランスをとるのが主要な役割であって、極力ナマの感覚を再現することに腐心すべきところを、いかにも音響空間化させてしまっているのは、スタッフの初歩的な舞台常識のなさ、見識のなさの露呈にすぎない。だが、こういった一見瑣末にみえることにも、どうやらまともな劇場プロデューサーの不在が表れている、と私には思われた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-6>
 かれねただ思ひ入野の草の名よいつしか袖の色に出るとも
                                    足利義尚

常徳院詠、文明16年10月、打聞のところにて、寄草恋。
寛正6年(1465)-長享3年(1489)。常徳院は号。足利8代将軍義政の子、母は日野富子。将軍後継をめぐる争いから細川・山名の有力守護大名の勢力争いを巻き込み、応仁の乱の引き金となった不幸な存在である。一条兼良に歌道を学び、文武両道に優れたといわれるも、24歳で早世。
入野(いるの)-歌枕だが山城の国や近江の国のほか諸説ある。
邦雄曰く、草は「枯れね」人は「離(か)れね」、袖の色はすなわち袖の気色、涙に色変るばかりの袖であろう。今は諦めるほかはない。入野は諸国にあるが、流人の地、それも尊良親王ゆかりの土佐の入野を想定すれば、悲しみは翳りを加えよう、と。

 かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞたつ
                                    藤原定家

新古今集、恋、題知らず。
後拾遺集の和泉式部詠「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」の本歌取りとされる。
邦雄曰く、定家の作は「かきやりし」男の、女への官能的な記憶だ。「うち臥す」のは彼自身で、逢わぬ夜の孤独な床での、こみあげる欲望の巧みな表現といえようか。「その黒髪の筋ごとに」とは、よくぞ視たと、拍手でも送りたいくらい見事な修辞である、と。


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春の花秋の月にも残りける‥‥

2005-12-26 22:06:06 | 文化・芸術
uvs050420-081-1

-今日の独言- 今年の三冊、私の場合-3

 三冊目は心理・精神分析関係から新宮一成・立川康介編の「フロイト=ラカン」を挙げよう。講談社選書メチエの知の教科書シリーズだから、19世紀人フロイトの独創をことごとく徹底して読み替えていったラカン、いわばフロイト-ラカンの知の系をまことにコンパクトにまとめてくれている入門書と称するが、内容は広くてかつ深い。
本書冒頭のなかの一節に「神の不在から、フロイトによって発見された「無意識」を認めて、不完全な自らの思考と言語で生に耐えること、これがラカン言うところの「フロイト以来の理性」となった」とあるように、治療法としてはじまった精神分析が、いまでは、思考の営みの、あるいは生の営みの一つのスタイル、しかも非常に有効で重きをなすものとしてあり、人々の生きるスタイルとして、精神分析的な思考というものがあまねく存在している現代であれば、このフロイト-ラカンの知の系にしっかりと触れておくべきかと思われる。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-15>
 もののふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原
                                    源実朝


金塊和歌集、冬、霰。 那須の篠原-将軍源頼朝が大規模な巻狩りを行なったとされる那須野ケ原の原野、現在の栃木県北東部の那珂川・箒川流域あたり。
邦雄曰く、律動的で鮮明で、活人画を見るような小気味よさ、実朝の作としては、必ずしも本領とは言えぬ一面であるが、古来代表作の一つに数えられている。この歌熟読すれば、意外に創りあげられた静かな姿を感じさせる、と。


 春の花秋の月にも残りける心の果ては雪の夕暮  藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、天象十首。
邦雄曰く、美は雪・月・花を三位一体とするとは、古来の考え方であるが、良経はこの三者同格並列を解放し、花から月へ、かつその極みに「雪」を別格として据えた。それも必ずしも美の極限としてのみならず、あはれを知る人の心が行き着く果ての、幽玄境を「雪の夕暮」と観じた。歌そのものが彼の美学であり、ここではついに芸術論と化している、と。


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