山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

別れてきてつくつくぼうし

2005-08-31 11:17:06 | 文化・芸術
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<芸能考-或は-芸談>-02

<空也の踊念仏>

 京都東山六波羅密寺には、口から六体の阿弥陀仏を吐き出しているあの有名な空也像がある。
脛を出したみじかい衣、腰に皮袋を巻いて、胸には鉦鼓をかけている。右手には撞木を、左手に鹿角杖をもっている。
この奇体な肖像にはどうやら空也を物語る背景があるらしい。
空也は若い頃からその生涯を遊行に明け暮れた。都の市中を乞食しながら間断なく念仏を唱えていたから「阿弥陀の聖」とか「市聖」とよばれることになった。
あるとき、空也が鞍馬貴船に籠もっていたとき、毎日のように鹿が訪れてくるようになって、これを無二の友としていたのに、平定盛という武士が狩にきて、この鹿を射殺してしまった。このことを悲しんだ空也は定盛から、鹿の角と皮を貰いうけて、角は鹿角杖とし、皮は腰に巻いて、以後つねにその身から離さなかったという。
件の平定盛は殺生にまみれた前非を悔いて出家し、定盛法師と名乗ったが、この子孫たちが空也僧となって全国を遊行し踊念仏をひろめ各地に空也伝説を残したのだろうとされる。その根拠地ともなったのが京都四条の空也堂(市中道場)で、十八家の空也僧が住持し、踊念仏を行い、鉢敲(ハチタタキ)と称されたりした。これを歓喜踊躍(カンギユヤク)念仏ともいったのである。
六波羅蜜寺の空也像とこの空也僧たちの踊念仏の違いは、彼らが太鼓と瓢箪を用いるようになったことである。金箔、銀箔を塗った太鼓や瓢を撥で打ちながら踊る。空也堂系の六歳念仏にはそれが今も伝わっており、焼香念仏ではこれらが用いられているという。焼香念仏とは鉦鼓念仏のことでもあるらしい。
空也像が首からかけている鉦鼓は、雅楽の楽器からきたものと見做されるが、空也僧たちが今に伝承する太鼓や瓢箪はどこからきたかといえば、直接には田楽などの太鼓が踊念仏に結びついたのではないかと思われる。太鼓はもとは鎮魂の咒具である覆槽(ウケ)からきたものだろう。これがやがては太鼓踊系の風流念仏踊となって全国に分布することになる。
瓢箪は、現在に伝承される郷土芸能が踊念仏系であることの証左・標識のように、踊念仏に特徴的な楽器となってきた。


 空也の時代には怨霊鎮魂のために御霊会がさかんに行なわれていた。もとは貴族たちのためのものだったが風俗化し民衆化していく過程にあったと思われる。空也が36歳の天慶元年(938)には、京都の大小の辻ごとに岐神(フナドノカミ)が祀られ、御霊祭といわれる祭式を行なっている。これは第一義には疫病の侵入を防ぐための祭りだったろうが、天慶元年といえば平将門・藤原純友の承平・天慶の乱で騒擾としていた頃である。疫病ばかりでなく市中の庶民を脅かし不安に陥れる凶事にはことかかない時代であったから、おそらくはそんな不安をかき消してくれるものとして仮託もされていたろう。こういった御霊祭などが仏教化すれば踊念仏となる。念仏は極楽浄土へ導くものとしてばかりでなく、疫神や悪霊を鎮め送り出す咒文としても民衆に受容されていったのである。また足踏を主体とする乱舞は悪霊を壌却するもっとも原始的な咒術であった。擬音的に「だだ」ともよばれ、陰陽道や修験道では「反閇(ヘンバイ)とよばれるのがこの咒術としての足踏である。

 ――参照 五来重「踊り念仏」 平凡社ライブラリー刊

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岩かげまさしく水が湧いてゐる

2005-08-29 14:03:32 | 文化・芸術
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<日々余話>

ネパールの子どもたちと、政情不安>

ネパールの政情不安は依然改善しないままつづいているようだ。
外務省による渡航危険情報によれば、退避勧告の対象地域にこそなってはいないが、中西部の渡航延期を勧める地域、首都カトマンズ周辺やポカラの町周辺においては渡航の是非を検討すべき地域とされている。
数年前からマオイストたちによる王国制打倒をめざす反政府のゲリラ活動が活発化、全国土にひろがっているからだ。
そんな不安な情勢のなか、個人ツーリストさえほとんど訪れなくなったポカラから、重度身障者の詩人である岸本康弘氏が帰国してきているので、久々にあって近況報告など聞かせてもらった。以前、この欄でも紹介したことのあるネパールの最貧層の子どもらに無償で教育の機会を提供するためネパール岸本学校を運営している車椅子の詩人である。
政情不安がつづくなかで観光産業が落ち込みっぱなしのネパール経済は深刻なインフレがどんどんすすむ。カースト制度が厳しく職にもつけない貧しい下層の人々はさらに極貧の生活へと追いやられてゆく。
もちろん義務教育の無償制度などない。初等教育さえ受けられない子どもたちはまだまだ多いという。親が費用を負担しなければならないから、男尊女卑の風潮がなお色濃いこの社会で下層民の家に生れた女児たちはほとんど教育の機会を奪われている。
無償で教育機会を提供している彼-岸本のポカラの学校は、その差別にも挑戦している。
就学している男女比率は4:6で女子を多く採っているというのだ。
満一歳の頃に病んだ高熱から身体が不自由となり就学できなかった彼は、おばあちゃん子で育ったというから、そんな自分の幼年時代も影を落としているのかもしれない。差別に対する意識改革、そしてむしろ女子にこそ教育の機会をひろく与えたいと考えているそうな。
また、彼の学校でこんな事件もあったと聞かせてくれた話だが、ある日、通ってきている腕白盛りの男の子が遊んでいて腕を骨折してしまった。日本なら腕の骨折くらいたいした事件でもない。すぐに救急車を呼んで病院に行けば、子どものことだから治りも早い、まあ1ヶ月もあれば完治するだろう。
ところがネパールでは健康保険などという制度もないというから、治療費がそれこそ莫大な金額となるのである。一家の全年収をこえるような額を請求されることになるのが医療の実態らしい。だから医者にはかけられない。骨折した腕は不運とあきらめて切り落とすしかないというのだ。そんな事情だから、ただの骨折から片足のない子、片腕のない子というようにたくさんの身障者が生まれている。
校庭で遊んでいて骨折したその男の子を自分のような身障者にする訳にはいかないと、彼-岸本は費用を全部負担して治療を受けさせたという。


現在、ポカラの岸本学校では160人の子どもたちが通学している。
日本では幼稚園にあたる初級クラス6才児と7才児の二年。小学校にあたるのが一年生(8才児)から五年生(13才児)、全部で七学年にわたる子どもたちが遠くからでも元気よく毎日通っているそうだ。
政情不安のつづくネパールの子どもたちに、希望に満ちた明日をひらく仕事はなおもねばりづよくつづけられている。


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心とけた夕べの水をまく

2005-08-28 01:31:11 | 文化・芸術
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<芸能考-或は-芸談>-01

<「踊り念仏」と「念仏踊り」>

<踊り念仏>と<念仏踊り>はカレーライスとライスカレーのようにまったくイコールというわけにはいかないようである。
<踊り念仏>とは、日本の多くの芸能がこれを母体にして生れてきており、あらゆる種類の信仰的要素がこれに結びつき庶民のあいだで伝承され、庶民信仰の本質がかくされているともいいうるものである。
<踊り>と<念仏>の出会いは、底辺の民の心と生活のなかからいわば自然発生的に生れたもので、いわば庶民ベースの上であったから、初期の<踊る-念仏>は宗教的要素が強かった。この場合、<踊り念仏>であるが、すべからく踊りや歌は宗教的発祥をもちながら、しだいにその要素を稀薄にして、娯楽的要素を濃厚にしてゆくものである。このような段階に至ると<念仏踊り>とよばれるように変化していく。


<踊り念仏>は近世に入って急速に<念仏踊り>化する。
<六斎念仏>はもとはといえば念仏の詠唱に簡単な所作=踊りを加えただけのものだったが、京都その他各地の六斎念仏は念仏がまったく脱落してひたすらさかんに踊るので、今では六斎マンボなどと冷やかされもするという話がある。
いまに残る各地の民俗芸能-太鼓踊りや羯鼓(カンコ)踊り、棒踊りや太刀踊りも、ほとんどすべてが<風流念仏踊り>、あるいは<風流大念仏>とよばれたものである。仮装や仮面をつける剣舞(ケンバイ)や鹿(シシ)踊り、角兵衛獅子のような一人立獅子舞や鬼浮立(オニフリュウ)、女装円舞の小町踊りなども、風流念仏踊りである。
かくしてすべての盆踊りが、多少宗教性を残した娯楽的念仏踊りということになるのだが、今日、阿波踊りを「踊る阿呆に見る阿呆」と踊る人々が、念仏踊りを踊っていると考えることはまずありえないだろう。江戸前の粋とされた「かっぽれ」もご同様で、勧進聖たちの零落した願人坊(ガンニンボウ)の念仏踊りであったとされている。


<踊り念仏>からさまざまな<念仏踊り>へと移りゆくなかで日本の芸能は多様な花を咲かせてきたのだが、これらの系譜をたどりなおすことはなかなか興味つきない世界ではある。

  ――参照:五来重「踊り念仏」 平凡社ライブラリー刊

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重荷おろすやそぞろ吹く風ありたり

2005-08-27 10:25:52 | 文化・芸術
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<四方の風だより>


 松風の音のみならず石走る水にも秋はありけるものを -西行

山家集の夏の終りに近く「松風如水といふことを、北白河なる所にて人々よみし、また水聲秋ありといふことを重ねけるに」との詞書が添えられている。

台風一過の昨日から今日、爽やかな風が吹き清朗な蒼空が広がっていた。
残暑は厳しく高温だが、強風が湿気を一掃してくれたから不快感はそれほどでもない。
こんな日は温泉銭湯へでも足を伸ばして、凝り固まった首の辺りや腰に溜まった疲労をほぐし去ってしまいたいものだが‥‥。


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炎天の下を何処へゆく

2005-08-26 13:48:14 | 文化・芸術
050826-012-001

050826-026-001

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<四方の風だより>

幸いにも台風11号は近畿圏からは逸れて殆ど影響なく、
昨夜のDance-Cafeは無事開催することができた。
彫刻家の栄利秋さん、演出家の熊本一さんもわざわざのご到来。
おなじみのパフォーマー、デカルコ・マリィ君も顔を出してくれた。
9月中旬の滋賀県近代美術館での個展準備に忙しいはずの中原喜郎氏も。
氏の展覧会では9月18日に我々も昨年につづいてパフォーマンスを行なう予定だ。


今回、オブジェを置いたことで会場としての6m.四方の狭い空間がどう変わったか。
Dance-Performanceとの影響関係はどうだったか。
フリートークのなかでもいろいろと感想や意見が出たが、
これらの問題についてはなお検証したうえであらためて触れてみたい。


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