山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

月影は森の梢にかたぶきて‥‥

2006-01-31 00:15:56 | 文化・芸術
051127-019-1
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-今日の独言- 縄文像を新しく

 一昨年2月にガンで死去した網野善彦らを軸に編まれた講談社「日本の歴史」は00巻から25巻まで全26巻の監修だが、網野善彦自らが著した「日本とは何か」00巻はこの類いの出版では10万部を優に超えるという異例のベストセラーとなっていたという。ちなみに私もこの巻だけは発刊直後に購入し読んでいる。
ところで、このシリーズが刊行されたのは’99年から’02年にかけてだが、折りしも’00年(H12)11月に発覚した神の手事件すなわち藤村新一による長年にわたる一連の石器捏造騒動が、考古学者や歴史家ばかりかマスコミや世間をも震撼させ、考古学上の知見を根底から洗い直さざるえない危機に見舞われた時期に重なった所為で、既に発刊されていた01巻「縄文の生活誌」はこの捏造事件のあおりで全面的に書き換えざるを得なくなり、初版差し替えとしてその改訂版が発刊されるのは’02年11月に至っているという。
読み進んでいくにつけ、この20~30年の遺跡発掘調査による知の集積で、原始の日本列島、縄文期の時代像もこんなに変容してきたのかと驚嘆しきり。
そういえば’80年頃だったか、当時の高校向けの世界史と日本史の教科書をわざわざ取り寄せて読んでみたことがある。その時も私自身の高校時代との20年ほどの時差のなかで、その内容の変化にずいぶん驚かされもし、古い知識の棚卸しをさせられるようなものだったが、今回の場合は棚卸しや煤払いどころか、埃だらけの古い縄文像をまったく新しく作り替えねばならないようである。


図書館からの借本
・岡村道雄・他「縄文の生活誌 日本の歴史-01」講談社
・寺沢薫・他「王権誕生 日本の歴史-02」講談社
・中川千春「詩人臨終大全」未知谷
・加藤楸邨「一茶秀句」春秋社 -昨年10月につづいて再び。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-25>
 月影は森の梢にかたぶきて薄雪白しありあけの庭  永福門院

玉葉集、冬、冬の御歌の中に。
邦雄曰く、こまやかな遠近法で、彼方の森の漆黒の樹影から、眼前の庭の砂と植込みをうっすらと覆う雪まで、黒白を駆使したところ、作者の技量の見せどころだろう。薄雪の微光を放つ趣きは玉葉集歌風の一典型、と。


 吹く風に散りかひくもる冬の夜の月の桂の花の白雪  後二条天皇

後二条院御集、冬、月前雪。
弘安8年(1285)-徳治3年(1308)、後宇多院第一皇子で後醍醐天皇の異母兄。正安3年(1301)、両統迭立により践祚・即位、時に17歳。徳治3年(1308)、病により崩御、24歳。新後撰集初出。勅撰入集100首。
邦雄曰く、上句は伊勢物語第97段の「桜花散りかひ曇れ」を写したのであろう。下句は「雪月花」を14音に集約した感あり、桜が月下の桂の花になっただけ、さらに神韻縹渺の趣きが加わる、と。


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月やそれほの見し人の面影を‥‥

2006-01-29 23:42:23 | 文化・芸術
041219-038-1
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-今日の独言- 出版100周年

 藤村の「破戒」と漱石の「坊っちゃん」はともに今年で出版100周年を迎えているそうな。
「破戒」は1906年3月に自費出版、「坊っちゃん」は同年4月、前年の「我輩は猫である」に同じくホトトギス誌上で発表されている。
その描く世界はまるで異なる対照的ともいえる作品だが、広く支持され100年の風雪を越えて読み継がれきた不滅のベストセラーという意味では双璧といえる。ちなみに新潮文庫版では「破戒」が368万部、「坊っちゃん」が382万部を数えるという。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-16>
 ふりさけてみかづき見ればひとめ見し人の眉引き思ほゆるかも
                                    大伴家持


万葉集、巻六、雑歌、初月の歌一首。
霊亀2年(716)?-延暦4年(785)。旅人の子。聖武から桓武に至る6代に仕え、従三位中納言に至る。天平の代表的歌人、万葉集編纂に携わり、万葉集中最多、短歌約430首、長歌46首、旋頭歌1首。三十六歌仙。
邦雄曰く、新月の優しい曲線に、かりそめに逢い見た人の黛の眉引きを連想する。冴えた美意識の生んだ抜群の秀歌の一つ。この前に叔母坂上郎女の「月立ちてただ三日月の眉根かき日長く恋ひし君に逢へるかも」が置かれて、ひとしおの眺めである、と。


 月やそれほの見し人の面影をしのびかへせば有明の空  藤原良経

六百番歌合、恋、晩恋。
邦雄曰く、軽やかな初句切れ、また歯切れよく畳みかけるような下句、あたかも今様の一節を聞く思いする愉しい恋歌。月に愛する人の面影を見る類歌数多のなかで、この一首はその嫌いなく、むしろはっとするような新味を感じさせること、千二百首中の白眉、と。


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曇れかし眺むるからに悲しきは‥‥

2006-01-29 00:25:57 | 文化・芸術
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-今日の独言- 歌枕見てまいれ

 平安中期の10世紀、清少納言とも恋の噂もあったとされ、三十六歌仙に名を連ねた左近衞中将藤原実方朝臣は、小倉百人一首にも「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじな燃ゆる思ひを」の歌が採られているが、みちのくに縁深くユニークな逸話を諸書に残して名高い。
鎌倉初期、源顕兼が編纂した「古事談」という説話集には、書を能くし三蹟と謳われた藤原行成と実方の間に、殿中にて口論の末、勢い余った実方は行成の冠を投げ捨てるという無礼をはたらいてしまった。
これを聞きつけた一条天皇から「歌枕見てまいれ」といわれ、陸奥守に任ぜられたという。要するに実方はこの事件でみちのくへと左遷された訳だが、歌枕見てまいれとの言がそのまま辺境の地への左遷を意味しているあたりがおもしろい。
陸奥に赴任した実方は数年後の長徳4年に不慮の死を遂げたらしく、現在の宮城県名取市の山里にその墓を残すのだが、この地が「おくの細道」の芭蕉も訪ね歩いたものの「五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過るに」と書かれることになる「笠嶋」である。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-15>
 しきたへの枕ながるる床の上にせきとめがたく人ぞ恋しき  藤原定家

拾遺愚草、恋、寄床恋。
しきたへの-敷妙の。床、枕、手枕に掛かる枕詞。
来ぬ人を待ちわびる夜の涙は川をなし、枕さへ流れるばかり。その流れを堰き止める術もないほど、人への思いはつのる。
邦雄曰く、常套的な誇大表現ながら、定家特有の抑揚きわやかな構成が、古びれた発想を鮮明に見せる、と。

 曇れかし眺むるからに悲しきは月におぼゆる人の面影  八条院高倉

新古今集、恋、題知らず。
生没年未詳。生年は安元2年(1176)以前? 藤原南家、信西入道(藤原通憲))の孫。八条院子内親王(鳥羽院皇女)に仕えた女官。この歌を後鳥羽院に認められ、院歌壇に召されるようになったとされる女流歌人。新古今集初出。
曇れかし-「かし」は命令を強める助詞。
邦雄曰く、月に恋しい人の面影を見る歌は先蹤数多あるが、この作の特徴は一に「曇れかし」と、声を励ますかに希求する初句切れの悲しさにある。もちろん反語に近い用法で、まことはそれでもなお面影を慕うのであるが、と。


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ただ頼めたとへば人のいつはりを‥‥

2006-01-27 15:28:57 | 文化・芸術
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-今日の独言- Buyo Fes の打合せのあとに‥‥

 昨日は、たった3分で事がすむような舞台打合せに、夕刻、京都は御所に隣接する府民ホール・アルティまで車を走らせた。おまけに渋滞を見越して余裕をもって出たら、約束の刻限に一時間ほど早めに着いてしまった。陽が落ちて冷え込むばかりの京都を散策するほどの意気地もないから、ホールロビーの喫煙コーナーに独り座して、読みかけの文庫本を開く。
 20分もしないうちに、舞台スタッフのほうで気を遣ってくれたのか、始めましょうと声がかかったので、舞台のほうへ移動。すでに下手にはグランドピアノが据えられ、ホリゾントには大黒幕が降りている。このあたりは事前の書面打合せどおり。さて舞踊空間をどうするかだが、此方は間口3間×奥行4間のフラットな空間さえあればよいという、いたって単純素朴な要請。このホールは舞台が迫り(昇降装置)を備えており、段差を利用したいくらかのヴァリエーションが可能なのだが、此方の望みどおりのスペースでは昇降不能。ならば全面フラットとせざるを得ないかと断。
「こうなったらアカリのエリアを絞り込んでもらうしかないねエ。」などと照明のF氏と二つ三つ会話を交わしたら本題たる打合せは完了。この間、3分もかかったろうか。予定時間をたっぷりと一時間余り取って、おまけに舞監、大道具、照明、音響とスタッフ4人揃っての打合せだというのに、こんなので好いのかしらんと、みなさん拍子抜けの態で、休憩時間の延長みたいなリラックスモード。残る時間をF氏といくらか四方山話に花を咲かせ、ほどよいところでご帰還と相成ったのだが、その話のなかで泉克芳氏の死を知らされ些か驚いた。年明けてすぐのことだったらしいとのこと。


 舞踊家泉克芳はまだ60代半ばではなかったか。日本のモダンダンスの草分け石井漠の系譜に連なる異才であった。80年代になって東京から関西へと活動の場を移してきたのだったか、同門の角正之が一時期師事した所為もあって、彼の舞台を二度ばかり拝見したことがある。彼がこの関西にどれほどの種を蒔きえたか、その実りのほどを見ぬままに逝かれたかと思えば、ただ行き行きてあるのみの、この道に賭す者の宿業めいたものを感じざるを得ない。惜しまれる死である。合掌。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-14>
 恋ひ侘ぶる君にあふてふ言の葉はいつはりさへぞ嬉しかりける
                                    中原章経


金葉集、恋。詞書に、いかでかと思ふ人の、さもあらぬ先に、さぞなど人の申しければ詠める。
生没年不詳。勅撰集にこの一首のみ。
邦雄曰く、恋に我を忘れた男の、一見愚かな、しかも嘘を交えぬ言葉が、第三者の胸をすら打つ一例であろうか。技巧縦横、千紫万紅の恋歌群のなかを掻き分けている時は、このような無味単純極まる歌も、一服の清涼剤となりうる、と。


 ただ頼めたとへば人のいつはりを重ねてこそはまたも恨みめ  慈円

新古今集、恋、摂政太政大臣家百首歌合に、契恋の心を。
久寿2年(1155)-嘉禄元年(1225)。関白忠通の子、関白兼実の弟。摂政良経の叔父。11歳にて叡山入り。後鳥羽院の信任厚く護持僧に、また建久3年(1192)権僧正天台座主、後に大僧正。吉水和尚とも呼ばれる。家集は拾玉集、愚管抄を著す。千載集以下に約270首。
邦雄曰く、たった一度の嘘を恨むものではない。もう一度犯した時に恨むことだ。それよりもひたすらに自分の男を信じ頼みにしていよと、教え諭すかの恋の口説。大僧正慈円だけあって、睦言も説教めいて、とぼけた味、と。


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今は世に言問ふ人も不知哉川‥‥

2006-01-26 13:33:16 | 文化・芸術
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-今日の独言- 歌枕「あねはの松」

 「あねはの松」という歌枕がある。「あねは」は姉歯と表記。あの耐震偽造設計の姉歯一級建築士と同じである。陸奥国の歌枕だが、現在地は宮城県栗原市金成町姉歯あたりに代々残るとされる松。姉歯建築士の出身古川市とは隣接しているものの30kmほど北東にあたるようだ。
在原業平の伊勢物語には陸奥の国のくだりで
 栗原やあねはの松の人ならば都のつとにいざと言はましを
と詠まれている。歌意は、あねはの松が仮に人であったなら、都への土産にと、一緒に行こうよと誘うのだが‥‥と。要するに、男と懇ろになった土地の女が一緒に連れて行ってと取り縋るのを、松に見立てて体よく袖にしたという訳だが、見事な枝振りの松に喩え誉めそやされては、男の不実を知りつつも強くは責められなかったろう女心にあはれをもよおす。
 「姉歯の松」の由来譚は、さらに古く6世紀末の用命天皇の頃か、都に女官として仕えることになった郡司の娘が悲運にもその徒次にこの地で病死してしまうという逸話が背景となっているらしい。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-13>
 今は世に言問ふ人も不知哉川住み荒らしたる床の山風  豊原純秋

松下抄、恋、寄床恋。生没年未詳、室町時代後期の人。雅楽の笙相伝の家系に生まれ、後柏原天皇[在位:明応9年(1500)-大永6年(1526)]に秘曲を伝授したと伝えられる。
不知哉川(いさやがは)-近江国の歌枕、滋賀県犬上郡の霊仙山に発し、彦根市で琵琶湖に注ぐ大堀川のこと。
邦雄曰く、この世には、夜々訪れてくる人もない。愛する人を迎えるあてもなく床は荒れ果て、閨には山からの烈風が吹き込む有様。万葉集・巻十一の寄物陳思歌に「犬上の鳥籠の山にある不知哉川いさとを聞こせわが名告(の)らすな」とあり、これを巧みに換骨奪胎した、と。


 音するをいかにと問へば空車われや行かむもさ夜ふけにけり
                                    大内政弘


拾塵和歌集、恋、深更返車恋。文安3年(1446)-明応4年(1495)、周防・長門・豊前・筑前の守護大名大内氏29代当主。応仁の乱では細川氏と対立、西軍の山名宗全に加勢。和歌・連歌を好み、一条兼良・宗祇ら当代の歌人・連歌師と深く交わる。空車-読みは、むなぐるま。
邦雄曰く、或は恋しい人が来たかと、車の音にそわそわと立ち上がり、聞けば残念ながら空の車だったという。その車に乗って自分のほうから出かけようかとも思うが、時すでに遅し、人を訪ねてよい時刻ではない。まことに散文的な、事柄だけを述べた三十一音だが、無類の素朴さが心を和ませる、と。


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