風姿花伝にまねぶ-<6>
二十四、五
「この比、一期の芸能の、定まる始めなり。
さる程に、稽古の堺なり。声も既に直り、体も定まる時分なり。
されば、この道に、二の果報あり。声と身形(みなり)也。
これ二は、この時分に定まるなり。年盛りに向ふ芸能の、生ずる所なり。
さる程に、よそ目にも、すは、上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。
もと、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立会勝負にも、一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひ染むるなり。
是、返々(かへすがへす)、主のため仇(あだ)なり。これも、まことの花にはあらず。
年の盛りと、見る人の一旦の心の珍しき花なり。まことの目利(めきき)は、見分くべし。
-略―
されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花に猶遠ざかる心也。
たゞ、人毎に、この時分の花に逢ひて、やがて花の失するをも知らず。
初心と申すは、この比の事也。
一、公案して思ふべし。我が位のほどを、能々(よくよく)心得ぬれば、
それほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、元ありつる位の花も失する也。
よくよく心得べし。
この時期、一生が決まる出発点ともいうべき、初心の花である。
新人と注目される24.5歳の頃は、「すは、上手出で来たり」と脚光を浴びる。
世間の注目も浴び、実力以上の評価を受けることもしばしばだが、
そこに慢心に陥り易い陥穽がある。才ある者の大きな落とし穴がある。
初心の花も、また当座の花、時分の花に過ぎないのだ、と知るべし。
「まことの目利は、見分くべし」と、
よく見える人には見えている。この一語は重い。
「我が位のほどを能々心得ぬれば、それほどの花は、一期失せず」
自身の到達点を、とことん客観視しろ、と。
たえず謙虚さを忘れず、自分の技を反省検証すること怠らなければ、
その花はつねに新しく保たれてゆくものだ、と。
参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫