山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

雪ふる一人一人ゆく

2004-12-31 17:06:09 | 文化・芸術
ichibun98-1127-082-3

申酉騒ぐ‥‥。

イラク情勢の混迷化とともに
幕を開けた2004年
十を数えた台風襲来や中越地震に加えて
暮も押迫ってスマトラ沖大地震の津波被害が
未曾有の規模でひろがっている
2004年は天変地異による災害の年として
記憶に残る年となってしまったようだ
鳥インフルエンザやBSE牛肉など
食をめぐる騒ぎや
いつまでも解決の見えない拉致問題も
記憶に残るだろう
スト騒ぎで野球界が大揺れした再編問題などは
寧ろ明るい話題に属するというのが
この年の特徴か


明くる年も酉年なれば
なおも騒擾として波乱の年か‥‥。

 平成16年甲申師走大晦日
                   四方館亭主

凩に吹かれつゝ光る星なりし

2004-12-27 14:08:29 | 文化・芸術
「花はたださく、ただひたすらに」と、
国語教諭の発言問題




<花はたださく、ただひたすらに-の世界>


まず、
① 花はさく、ただひたすらに -上5音、下7音
② 花はたださく、ひたすらに -上7音、下5音
③ 花はたださく、ただひたすらに -上7音、下7音
この三つを比較してもらいたい。
三つとも日本語の伝統的な音数比率で構成されているが、
「ただ」という強調の意味をもつ副詞の用法が異なり、
その用法によって微妙な違いを生み出している。
①では-ひたすらに-を修飾強調、
②では-さく-を修飾強調、
③では-さく-と-ひたすらに-の両者を修飾強調するのに、-ただ-を繰り返し用いている。
①の五七調と②の七五調の場合、なんとなくおさまりがよいように感じられはしないか。
要するに「。」でおわる感じがするはずである。もちろん三者とも連用止めだから、完全なおさまり「。」ではなく、ずっと続いていくような余情はそこはかとなくあるのだが。
③の場合、ただの畳重ねがくどい感もあるが、おさまり感を希薄にして、それだけに余情を強める効果を持たせているといえる。
要約すれば、①②に比べて、③は-ただ-の繰り返しによって余情を強めているのだ、ということになる。
①②③ともに鑑賞とすれば、
だれかれに干渉されようがされまいが、時の移ろいのなかで、花は花として、ただ、ひたすらに、咲くのだ、それが花の宿命といえばそうだろうし、役割といえばそれもそうだろうし、花は花として自分の命を生きるのだ、ただ、ひたすらに。さらに、自分自身に照らせば、そんな花のように、人としての自分もまた、おのが生きる道を運命のようにして生きようよ、ただ、ひたすらに。
と、そんなところだろうが、
③では余情をさらに強めているのだから、花が花として生きるという覚悟にある、意志と情感のバランスが、情感により傾く。
私は、花が花として生きる覚悟-と言った、覚悟とはつねに意志と感情の両面から彩られているものだ。その意志と感情は、どちらが優越するでもなく、過不足なく折り合っている。どちらかが過剰になると、そこに凝りがたが生じるというもの。
情感により傾く、情感により訴えることは、意志よりも情感により彩られ、謳いあげたことになる。他方、情感が強くなることは、より濡れることでもあり、執着もまた強くなることである。
③の相田みつをの表現は、そういう特徴をもっている。
この表現を、深いと見るかどうかは、個々人の観方に委ねられる。
唯、ここで私見を述べれば、相田みつをの世界は、ここでも見たように情感性により傾斜する。その詩句の内容はといえば、つねに人生訓の域をでるものではない。人生訓的世界をより情感性を強めて表現しているのが彼の詩といわれる世界であり、その詩句が書の造型として一般に流布されているのが「相田みつをの世界」である。
人生訓的世界が新しい様式性をもって華々しく登場し、世にあまねく受け容れられてきた、というのが私の受けとめ方だ。それ以上でも以下でもない。



<国語教諭の発言に関して>

さて、書初めの宿題として、女子生徒から「花はたださく、ただひたすらに」を提出されたとき、件の国語教諭は、なぜ「やくざの世界の人たちが使うような言葉だ」と感じ、女子生徒にそんな反応をしたのか。
先に記したように、この言葉の「ただ」が繰り返し挿入されたことによる、情感により訴えかけた表現に、その謳いあげられ方に、感情の過剰な濡れを感じたろうし、過剰な執着を感じたろう。そのことが、任侠とか、義理と人情とか、やくざ世界の美学に通じるものと見てとってしまうことは、あながち飛躍とはいえないだろう、というのが私の思うところだ。
そこへ、さらに、この中三になる女子生徒が、普段からこの教師にどう見えていたか、どう見られていたかという事情が加担するのである。
これはもう私の推測の域を出ないことでしかないのだが、
中学三年生といえば、もう半分大人だ。しかも女子生徒だから、身体はもう成長期の盛りはすぎてすでに大人のそれだろう。仮に、今時の中三の女子生徒として、普段から彼女がやや派手目のタイプに属するとしたら、その要素が加担して国語教諭の「やくざ世界」の連想を生み出しかねない危険を孕んでいる、とみるのは飛躍しすぎているだろうか。
53歳にもなる分別盛りの国語教諭が、「とんでもない発言をした」という背景をできるだけリアルに捉えていこうするなら、私には少なくともそれくらいのことは言えそうだと思えるのだが。

枝をさしのべてゐる冬木

2004-12-26 03:46:29 | 文化・芸術
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<国語教諭>相田みつをの詩知らず、女子生徒けなす

このニュース、私も読んだけれど、第一感、マスコミの過剰反応の見出しが躍りすぎているのではないかということ、
この見出しではまたぞろ教師批判が必要以上に過熱するであろう事態が充分予測できること、また、すでにブログなどではその反応がかなりでており、
それら過剰反応の現象に対する警鐘として、大方の捉え方とは異なる視点から物申してみたい。

まず、報道による事実関係を列記すれば、
1. 慰謝料請求をした側は、当時中学三年生女生徒、被告側は横浜市だが、事件当該者は原告の国語担当教諭および担任女性教諭ら。
2. 事件の発端は、2001年1月、三学期の初め、国語の時間に冬休みの宿題の書初めの提出時、女生徒は相田みつを氏の書から採った「花はたださく、ただひたすらにさく」を提出。
3. その際、国語教諭は、女生徒に対し、頬に指を当て傷跡をなぞるような仕草をしながら「こういう人たちが書く言葉だね」と言った。
4. それを見ていたクラスメートたちは笑い、その後、女生徒は「やくざ」とからかわれるようになった。
5. その後、卒業文集で生徒たち互いの10年後を想像して似顔絵を描きあった際に、女生徒は頬に傷のある絵を描かれた。
6. 担任の女性教諭は、その絵を見ていながら修正することなく生徒たちに配布した。
7. その後、女生徒の母親が学校側へ抗議し、学校側は問題の文集を回収し、印刷し直した文集を配布した。
8. 女生徒側は、別件-女生徒が他の男性教諭から女生徒が腰を蹴られたこと-も含めて、学校の監督官庁である横浜市を相手どり、350万円の慰謝料請求の訴訟を起した。
9. 地裁判決は、国語教諭の発言を「嫌がらせを受けるのは当然予想され、不適切で軽率」と批判。文集についても「担任教諭が訂正の必要性を認識すべきだった」とし、別件に対する慰謝料5万円を含み、計25万円の支払を横浜市に命じた。
となっている。

このあらましを通覧する限り、成程、当該国語教諭の不適切な言動及び担任教諭の適性を欠いた文集への処理に対し、教諭らの過失責任を認め、監督官庁の横浜市に慰謝料支払を命じたものの、その額は、請求の350万円を大きく減額し、別件5万円もふくめての25万円であることを見る限り、マスコミがこれほどの騒ぎを起すほどの事件とも思えぬし、また教諭らの過失責任が重過失というほどのものではない、といえそうだということをまず述べておきたい。

そのうえで、以下は、私の常識的範囲内での推論による発言であるが、
見出しに踊る文言、「国語教諭相田みつをの詩知らず」や、「相田みつをの詩やくざ」などが、果たして事件の実態に即しているものか、ということ。
過剰な騒ぎ過ぎの見出しとなっていないかということ、について。

件の53歳の国語教諭が相田みつをの世界をまったく知らなかったとは、まず考えられない。ただ、このフレーズ「花はたださく、ただひたすらに」が相田みつをに結びつかなかったのではないか、「相田みつを」の世界は知っているが、「このフレーズ」が相田みつをのものだったとは、その時、気がつかなかっただけだろう、というのが真相だろうということ。
事実だけで云えばそのあたりがもっとも妥当なところだと思う。
冷静に考えてみていただきたい。相田みつを本といえば、少し大型の書店ともなれば、何冊もの類本が、入口付近の目立つところに平積みにされて並べられているのが実態ではないか。そんな状態がもう十数年近く続いているではないか。相田みつをの世界がどんなものであるかくらい、53歳にもなるベテランの国語教諭が知らない筈はない、と思うのがまず常識的なものだろう。
さらに云えば、相田みつをは詩人であり書家であるとされているが、彼を彼たらしめているのは、人生訓めいたごく簡潔な言葉を書で表したスタイル、あくまで書画のような世界として特徴だてられており、言葉の世界そのものに彼の独創があるのではないことを思えば、相田みつをの世界を知っていても、一女生徒が書初めの宿題として出してきた、この単純な詩句ともいえないようなありきたりのフレーズを相田みつをと気がつかないのも、国語教諭としてなんの恥にもならないだろう。


それをマスコミは、相田みつをの詩を知らず、と書き立てているのはあまりに軽率にも教師叩きのお先棒担ぎで、付和雷同の騒ぎの元凶ではないか。

この国語教諭が、現に裁かれている点も、「花はたださく、ただひたすらに」と認めた書初めを出した女生徒に対し、頬に指を当て傷跡をなぞるような仕草をしながら「こういう人たちが書く言葉だね」と云った、教師としてまことに不適切な行為だけだ。
もちろん、これだけでも到底見過ごしにはできない許されざる行為なのだが。
この点については、現場の実態、国語教諭の人柄や気質、女生徒の日常的な行動及びそれに対する教諭たちの評価など、卒業を控えた三年生なのだから、中学生活全般にわたる既存の関係模様の在り様によって、咎めだてるべき温度差も違ってこようというもので、報道されている表面だけを捉えては一概に判断し難いというのが、私の考えだ。

月も水底に旅空がある

2004-12-25 03:15:20 | 文化・芸術
ichibun98-1127-093

<言の葉の記>

棟方志功-篇

<白と黒の絶対性で>

 ‥‥能のもっている幽玄さを、白と黒の絶対性でつかみたい。
 ‥‥この頃から、白と黒の世界というものが、大切なものと思い、
 この点を本当に板画でつらぬいてゆこうと思い立ったのです。


 白と黒を生かすためには、自分のからだに墨をたっぷり含ませて、
 紙の上をごろごろ転げまわって生み出すような、
 からだごとぶつけてゆく板画をつくってゆくほかはない、と思ったのでした。
 指先だけの仕事では何もない。板業は板行であって、からだごとぶつかる行なので、
 よろこんで行につこう、心肉に自答決心したのでした。



<能のもっている幽玄さを、白と黒の絶対性でつかみたい>
と発願し、
<白と黒を生かすためには、
自分のからだに墨をたっぷり含ませて、
紙の上をごろごろ転げまわって生み出すような、
からだごとぶつけてゆく板画をつくってゆくほかない、と思った>
へと連なりゆく境地が、
その発意が、どうにも把みきれないまま、
しばし、ただ反芻する‥‥。


白と黒の-絶対性、
絶対的-距離、
天と地、
宇宙の縁のごとき、
有-無、‥‥
空虚としての-あらゆる仮象世界、
森羅万象、
世界-内-存在、‥‥
‥‥
‥‥


-棟方志功「ヨロコビノウタ」二玄社より

一期の芸能の定まる始めなり

2004-12-22 12:04:22 | 文化・芸術
Dojyoji_06-1

風姿花伝にまねぶ-<6>

二十四、五

「この比、一期の芸能の、定まる始めなり。
 さる程に、稽古の堺なり。声も既に直り、体も定まる時分なり。
 されば、この道に、二の果報あり。声と身形(みなり)也。
 これ二は、この時分に定まるなり。年盛りに向ふ芸能の、生ずる所なり。
 さる程に、よそ目にも、すは、上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。
 もと、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立会勝負にも、一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひ染むるなり。
 是、返々(かへすがへす)、主のため仇(あだ)なり。これも、まことの花にはあらず。
 年の盛りと、見る人の一旦の心の珍しき花なり。まことの目利(めきき)は、見分くべし。
 -略―
 されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花に猶遠ざかる心也。
 たゞ、人毎に、この時分の花に逢ひて、やがて花の失するをも知らず。
 初心と申すは、この比の事也。
 一、公案して思ふべし。我が位のほどを、能々(よくよく)心得ぬれば、
 それほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、元ありつる位の花も失する也。
 よくよく心得べし。


この時期、一生が決まる出発点ともいうべき、初心の花である。
新人と注目される24.5歳の頃は、「すは、上手出で来たり」と脚光を浴びる。
世間の注目も浴び、実力以上の評価を受けることもしばしばだが、
そこに慢心に陥り易い陥穽がある。才ある者の大きな落とし穴がある。
初心の花も、また当座の花、時分の花に過ぎないのだ、と知るべし。
「まことの目利は、見分くべし」と、
よく見える人には見えている。この一語は重い。
「我が位のほどを能々心得ぬれば、それほどの花は、一期失せず」
自身の到達点を、とことん客観視しろ、と。
たえず謙虚さを忘れず、自分の技を反省検証すること怠らなければ、
その花はつねに新しく保たれてゆくものだ、と。


参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫