山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

つゝみかねて月とり落とす霽かな

2008-02-29 20:25:23 | 文化・芸術
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―表象の森― 尾張五哥仙

芭蕉は、「野ざらし紀行-甲子吟行-」の旅で、貞享元(1684)年八月江戸を立ち、伊勢を経て、亡母追善のためにひとまず伊賀上野に帰郷、九月大和・吉野をめぐって、近江から美濃に入る。大垣の谷木因を訪い、十月初、同道して桑名に遊ぶ。別れて海路熱田に渡り、林桐葉の許に逗留、十月中・下旬名古屋に入った。
この芭蕉を迎えて、荷兮を中心に名古屋の蕉風連衆と興行されたのが「狂句こがらしの巻」を初めにおいた「冬の日-尾張五哥仙」-荷兮編、貞享2年春刊-で、「霽-しぐれ-の巻」はその第三の巻にあたる。

先の「狂句こがらしの巻」において、連衆については年齢を記したのみであったので、各々の略伝を参考までに記載しておく。
杜国-坪井氏、通称庄兵衛、御園町の米商。貞享2年8月、空米売買の罪に問われて領内追放となり、三河国保美村に謫居。同5年2月から4月末まで、芭蕉に随行して吉野・高野から須磨・明石に遊び、京で別れて保美に帰る。元禄3(1690)年歿、享年不詳-34歳説有り-。当時28、9歳か。「猿蓑」-元禄4年刊-に、「亡人杜国」として随行中の一句を入集。
重五-加藤氏、通称川方屋善右衛門、上材木町の材木商。享保2(1717)年64歳で歿。当時31歳か。
野水-岡田氏、通称備前屋佐次右衛門、大和町の呉服商。宜斎のちに転幽と号し、名古屋に町方茶道-表千家-をひろめた先覚者の一人である。元禄13年から享保元年まで、惣町代-今でいえば市助役-をつとめた。寛保3(1743)年86歳で歿。俳諧は「阿羅野」-荷兮編、元禄2、3年刊-を盛りとし、「猿蓑」に入集3句・歌仙出座1。当時27歳。
荷兮-山本氏、通称橿木堂武右衛門、桑名町の医にして業俳。「冬の日」に続いて「春の日」-貞享3年刊-、「阿羅野」と、所謂「七部集」の初三集を編んだ、尾張蕉門の中心人物。「猿蓑」入集2句。元禄5、6年頃から古風への志向著しく、一門とも離れ、晩年は連歌師となった。号、昌達。享保元年69歳で歿。当時37歳。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-01

  つゝみかねて月とり落とす霽かな  杜国

前書に「つえをひく事僅に十歩」と。
次男曰く、しぐれのひまに月の光がこぼれる、もしくは今にも零れ落ちそうなまるい月がしぐれの雲間からのぞいた、ということを発句に云い回せばこういう姿になる。「つゝみかねて」と字余りに理を立てたところや「月とり落とす」と作った見立の誇張に談林臭はのこるが、小夜しぐれに「霽」を当てたところに一工夫があり、加えて前書がよい。

「七歩ノ詩」「十歩ノ詩」という喩がある。早速の詩才について云うことばだが、「十歩ノ内」という、瞬時の変を表す含のある喩もよく遣われる。杜国の「つえをひく事僅に十歩」は、かつ降りかつ晴れるしぐれの迅速に適った吟興の催しを伝えんがためのものに相違なく、右の喩は二つとも合せて踏まえたものだろう。

霽はハレル、空合のはれることで降物の意味はないが、降りながらすでに霽れているのが晩秋・初冬に特徴的な雨の印象だと考えれば、「霽」は気転の当字である。尤も、小夜しぐれに目を付けたところはこの句の手柄だが、霽-シグレは杜国の発明ではない。芭蕉がまだ桃青と号していた延宝8年頃の句に「いづく霽傘を手にさげて帰る僧」が見られ、霽-シグレは、もみじを栬、ちどりを鵆、こがらしを凩と表記する類で、連俳好みの新在家文字の工夫と考えてよく、それもその頃に限って芭蕉が遣った字のようだ。

杜国は4年前江戸でのそれを目ざとく見覚えていて、さっそく裁入れ、以て江戸の珍客其人への挨拶としたものらしい。既に初巻-狂句こがらし-の興行で「野ざらしを心に」にと告げられて「しらしらと砕けしは人の骨か何」と作り、「秋水一斗もりつくす夜ぞ」-漏刻-と誘われれば「綾ひとへ居湯に志賀の花漉て」-大津京-と応じた男の機転は、霽月の取出しにも心憎いまでに顕れているだろう。

貞享4年冬、芭蕉が伊良湖にわざわざ彼の謫居を慰め、翌5年には吉野・須磨の行脚に伴い、「嵯峨日記」の元禄4年4月28日の条で「夢に杜国が事をいひ出して、悌泣して覚む」と慟哭の筆を以てその死を傷んだ人物の面目が躍如とする、と。


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廊下は藤のかげつたふ也

2008-02-28 17:45:54 | 文化・芸術
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<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-36

  綾ひとへ居湯に志賀の花漉て   
   廊下は藤のかげつたふ也    重五

次男曰く、挙句、一巻の祝言であるから、其の場に臨んでよどむことなく、浅々と付けるのが良いとされるが、言葉の骨組のない綺麗事でもこまる。

前句が落花を「漉」と作ったから、廊下に沿って藤の花の「影」がつたうと応じている。「つたふ」は湯上りの香を移したうまいことばだが-影映る、伸ばすなどではつまらぬ-、廊下沿いに藤棚を設ける作庭の面白さも予め知っていなければ出て来ない。因みに、一条兼良が編んだ付合手引「連珠合壁集」-文明8(1476)年頃成-には、「藤とあらば」として「廊をめぐる」も挙げている。藤は晩春の季だが、初夏にわたって咲く。前句を花じまいと読み取った、適切なうつりの付だろう。猶、匂の花から起す春は二句続きでよい、と。

「狂句こがらしの巻」全句-芭蕉七部集「冬の日」所収

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉  -冬 初折-一ノ折-表
 たそやとばしるかさの山茶花   野水  -冬
有明の主水に酒屋つくらせて     荷兮  -月・雑・秋
 かしらの露をふるふあかむま   重五  -秋
朝鮮のほそりすゝきのにほひなき  杜国  -秋
 日のちりちりに野に米を刈    正平  -雑・秋
わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水  -雑 初折-一ノ折-裏
 髪はやすまをしのぶ身のほど   芭蕉  -雑
いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五  -雑
 きえぬそとばにすごすごとなく  荷兮  -雑
影法のあかつきさむく火を焼いて  芭蕉  -冬
 あるじはひんにたえし虚家    杜国  -雑 
田中なるこまんが柳落るころ    荷兮  -秋
 霧にふね引く人はちんばか    野水  -秋
たそがれを横にながむる月ほそし  杜国  -月・秋
 となりさかしき町に下り居る   重五  -雑
二の尼に近衛の花のさかりきく   野水  -花・春
 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ   芭蕉  -春
のり物に簾透く顔おぼろなる    重五  -雑・春 名残折-二ノ折-表
 いまぞ恨の矢をはなつ声     荷兮  -雑
ぬす人の記念の松の吹おれて    芭蕉  -雑
 しばし宗祇の名を付し水     杜国  -雑
笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   荷兮  -冬
 冬がれわけてひとり唐苣     野水  -冬 
しらしらと砕けしは人の骨か何   杜国  -雑
 烏賊はゑびすの国のうらかた   重五  -雑
あはれさの謎にもとけし郭公    野水  -夏
 秋水一斗もりつくす夜ぞ     芭蕉  -秋
日東の李白が坊に月を見て     重五  -月・秋
 巾に木槿をはさむ琵琶打     荷兮  -秋
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに   芭蕉  -雑  名残折-二ノ折-裏
 箕に鮗の魚をいたゞき      杜国  -雑
わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮  -雑 
 けふはいもとのまゆかきにゆき  野水  -雑
綾ひとへ居湯に志賀の花漉て    杜国  -花・春
 廊下は藤のかげつたふ也     重五  -春


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綾ひとへ居湯に志賀の花漉て

2008-02-27 21:21:47 | 文化・芸術
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<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-35

   けふはいもとのまゆかきにゆき  
  綾ひとへ居湯に志賀の花漉て   杜国

綾ひとへ居湯-おりゆ-に志賀の花漉て-こして-

次男曰く、名残ノ折の花の定座、「匂の花」とも呼ぶ。
居り湯は釜で沸かした湯を、浴槽に樋で引きまたは汲移して遣うもので、下り湯とも云う。江戸時代に習俗化された行水は、さしずめ居り湯の一形態と見なせる。

句は「志賀の花漉て」と云っているが、志賀の宮-大津京-があったのは、天智天皇6年から弘文天皇元年までのの5年間で、壬申の乱によって廃都と化した。人麿や高市古人などの歌にも偲ばれ、後世、俊成がよみ人しらずとして「千載集」に選入した平忠度の歌、故郷花といへる心をよみ侍りける、「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな」-「平家物語-忠度都落」に話がある-によって、巷間さらに知られるようになった。云うなれば、志賀は旧都の代名詞のようなものである。

「志賀の花漉て」が事実であろう筈きはない、と気付くと俳言の趣向が見えてくる。居り湯には良水を遣うわけではないから、わかし湯を舟に移す前に塵を漉すが、「花」という季には「花の塵-花屑-」という遣方がある。花の座なら、只の塵も「花」に見える、という思付は俳になる。そしていま一つ、「志賀」と冠したのには、先に芭蕉が「秋水一斗もりつくす夜ぞ」と作ったからに相違ない。唐から日本に漏刻の法が伝えられた翌年、大津京は亡んだ。「志賀の花漉て」は、正客に対する、名残の花のみごとな挨拶だ。忠度の歌のことも、むろん、思い泛べていたろう。「綾ひとへ」は、いきなり読んでも何の用を暗示しているのかわからぬが、以下の部分が解ければ、湯帷子か漉布かのどちらからしいとわかる。前者と解しておく。そのほうが句にふくらみが出る。

はこびに即して云えば、妹が後宮に上ったのだと読んでもよいが、平凡な町家の姉妹でもよい。眉描きから戻り、肌着姿で簡単な行水を遣った、というごく日常的な暮しの一齣をたねに、夢はどのようにでも華麗に描ける。言葉の節々に染む女心が、かえってよく現れるだろう。空想裡の付に、人物や場所の特定は必要ではない。名残の花の座に及んで猶も謎めいた趣向を弄ぶなど、連句とは云えぬ。匂の花の座に典型的な「付」を以てした作りである。


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けふはいもとのまゆかきにゆき

2008-02-26 23:42:10 | 文化・芸術
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―表象の森― Turbulent Flow -乱流-

「大きな渦は、その勢いに力を得て
 ぐるぐるまわる小さな渦を含み
 その小さな渦の中には、これまた
 ひとまわり小さな渦がある。
 こうしてこれが遂には
 粘度となっていくのだ」 ――ルイス・F・リチャードソン

量子力学学者W・K・ハイゼンベルクは死の床で「あの世に行ったら、神にぜひとも聞きたいことが二つある。その一つは相対性のわけ、第二は乱流の理由だ」と。そして「神のことだからまあ第一の質問のほうには答えてくれるだろうと思うね」と結んだそうである。
乱流の理由など、神様のほうでも取るに足らぬと思し召して相手にはしてくれまい、とでもH氏は考えたか。
ことほどさように、20世紀前半の物理学者たち、その大多数にとって乱流などに時間をとられるのは剣呑にすぎると思われていた。

それにしても乱流とはいったい何だろうか?
大きな渦のなかに小さい渦が含まれているように、乱流とはあらゆる規模―Scale-を通じて起こる混乱のことだ。乱流は不安定であり非常に散逸的だが、散逸的とはエネルギーを消耗させ、抗力を生じるということである。
その乱流の起こりはじめ、つまり遷移のところが科学の重大な謎だった。

Strange・Attractor
これは現代科学の最も強力な発明の一つである位相空間という場所に住んでいる。
系のエネルギーは摩擦によって散逸するが、位相空間ではその散逸はエネルギーの外域から低エネルギーの内域へと、軌道を中心にひきつける「ひきこみ」となって現れる。
エドワード・ローレンツが作った骨組だけの流体対流の系は三次元だったが、それは流体が三次元の空間の中を動いていくからではなく、どんな瞬間の流体の状態をも正確に決定するためには、三つの異なった数-変数-が必要だったからである。
  ――参照:J.グリック「カオス-新しい科学をつくる」第5章-ストレンジ・アトラクタ p209~

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-34

  わがいのりあけがたの星孕むべく  
   けふはいもとのまゆかきにゆき  野水

次男曰く、一巻満尾まで二句をのこすのみで、次は名残の花の定座だ。あばれた句を作るわけにもゆかぬ。その女の行為を付伸ばして、表記も全部ひらがな書とし、やさしげに作っているが、妹の眉を描きにゆくという介添の思付が、話をけっこう面白くする。

荷兮の句はただちに恋句とは云えぬが、恋を呼び出す誘いがある。とすると、妹の方に恋の姿情が現れなければ、付が付になるまい。「わがいのり」とは、姉が自分ではなく妹の懐胎の兆を喜ぶ表現らしい、と野水の付は気付かせる。そう解釈すれば、太白の文才を欲しいという姉側の願、つまり荷兮の志も奪われずに済むわけだ。


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わがいのりあけがたの星孕むべく

2008-02-25 23:29:55 | 文化・芸術
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―表象の森― 伝承芸の型

奥村旭翠さんの筑前琵琶を初めて聴いてからすでに8年ほどを経ようとしているが、年に二度か三度、毎年のように聴いてきて、その弾き語りに耳慣れてしまった私には、このところどうしても一抹の不満を感じざるをえず、些かもどかしいような思いを抱いてきている。
昨日もまた一門の琵琶の会で聴いたのだが、その印象から自分なりに一つの結論めいたことをいえば、一昨年100歳の天寿を全うして逝去した山崎旭萃の場合には、明治末から大正期の筑前琵琶最盛期に修業したとはいえ、戦争を挟む昭和前半の冬の時代をくぐり、むしろ後半生に至って詩吟との融合を図るなど新生面を拓くといった試行を重ねたことを思えば、彼女にとって客観的な教科書-完全なる型-というものはなく、おのが感性を頼りに弾き語りの独自な世界を創りあげねばならなかった一面があったのではないかと想像しているのだが、その彼女のすでに晩年にさしかかった時期に師事した奥村旭翠は、筑前琵琶のあるべき教科書ともいうべきもの-語りと奏法の完全なる型-を思い描き、追い求めているのでなかろうかということであり、両者の生きた時代の違いとともに伝承芸の型に対する両者の姿勢に、微妙な、とはいえ無視できない、ズレがあるのではないかと思われてならないのだ。

たとえば歌舞伎なら、その伝承芸としての所作事や口跡の型は、それぞれ固有の肉体に宿っているとしかいいようがないだろう。ならばこうだああだといっても、なにがしかはその固有の肉体の刻印を帯びざるを得ないのだから、客観的な教科書-完全なる型-は存在し得ず、一定の公約数的なもの、もっと乱暴にいえば「あたり」のようなものともいえようか。
所作であれ口跡であれ、また唱法であれ奏法であれ、その型とは所詮約束事にすぎない。生きた肉体はその型に則りつつ芸の華を咲かせるもの。むろん小さな針の孔に細い糸を通すほどの精緻を極める型へのあくなき追究など要らぬではないかというつもりはさらさらない。ないが、おのれの感性を閉ざしてまで型に嵌め込むより、その型を破ってでも、逸脱してでも、おのが感性を解き放とうとすることも、また大切なことだろう。
むしろ伝承芸に生きようとする者にとって修業とは、時に型への執着と、時に型の破調へと、双方をたえず行きつ戻りつしながら、その芸が鍛えぬかれてゆくものであり、そうあってこそ固有の華がひらいてゆくものの筈だ。

奥村旭翠さんの現在-おそらくこの10年ほどの時期-は、自身の芸の錬磨と良き弟子を育てることが、表裏一体の作業として自覚しているのだろうと思われるが、その要請に対する過大な意識が客観的な教科書-完全なる型-への些か偏った傾斜となっているのではないか、とこれは門外漢の愚にもつかぬ杞憂にすぎないのかもしれないが‥‥。


<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>


「狂句こがらしの巻」-33

   箕に鮗の魚をいたゞき    
  わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮

次男曰く、前句の人の性別を知らせるために「わが」と冠し、仔牛を子宝祈願に引き移して作っている。コノシロは鮗の和訓で、もともと神饌魚である。また厄除の呪としては、夜間、覚られぬように明の方角へ-恵方-へ埋める風習がある。

コノシロならぬ「あけがたの星」を頭上に頂いて神仏に祈らせたのは、右の理由によるが、「わがいのり太白の星孕むべく」とは、作りたくても、作れぬところが味噌である。金星は宵の明星でもある。加えて太白は李白の字-あざな-だ。重出はできぬが-先に「日東の李白」と遣っている-、玉のような子を生ませたい本音は、李白にあやかりたい荷兮自身の願でもあるとは、連衆は容易に気付いた筈だ。個々の四季発句を切り捨て、歌仙五巻のみを以て、貞享蕉風の旗を尾張に挙げた男なら、さもありなんと肯かせる述志の句である、と。


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