山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

うぐひすうぐひす、和尚さん掃いてござる

2005-03-31 12:05:26 | 文化・芸術
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<世間虚仮>


<愛知博-弁当持込解禁へ>

「当然だ」の一語につきる。

愛知万博への弁当持込が解禁へ」という記事が眼に飛び込んできた、その第一感。
ところが関連記事に、小泉首相じきじき「不便だから、検討を」と指示したという記事がある。
別段、我が国の最高首脳殿がわざわざ言及するほどのこともなかろうに、総理とはかほどの閑職なのかと苦笑とともに嘆息しきり。
そもそも、食中毒防止の為、弁当持込禁止なんて転倒した理由を付けて、
単なる業者への諂い、過保護の遣り口を、このまま会期中通そうものなら、
とことん不人気をかこち、閑古鳥が鳴き続ける結果をみること必定で、
早晩、こんなバカげた禁止は破棄せざるを得なかったのだ。


まあ、解禁になろうとなるまいと、観にゆく気もさらさらない私にとっては関わりないことだが、
多くの庶民が懐はたいてでも行きたいと考えておられるだろうから、大きな関門が一つ払われたことになる。
ゴールデンウィークまでにと言わず、直ちに解禁すべし。


思い返せば、70年の大阪万博も一度も足を運ばなかった。
85年だったか、筑波博ももちろん運ばなかった。
94年の大阪花博も、やっぱり行かずじまい。
この愛知博へも足を運ぶことなく、年を一つ重ねることになるだろう。



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仕立てを嗜めとは、懸かりをよく見せんとなり

2005-03-29 12:46:15 | 文化・芸術
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風姿花伝にまねぶ-<11>


物学(ものまね)条々-女


 およそ、女懸かり、若き為手の嗜みに似合ふ事なり。さりながら、これ一大事也。
 先、仕立見苦しければ、更に見所なし。
 女御・更衣など似事は、輙(たやす)く其御振舞を見る事なければ、よくよく伺ふべし。
 衣・袴の着様、すべて私ならず。尋ぬべし。-(略)-
 舞・白拍子、又は物狂などの女懸かり、扇にてもあれ、挿頭(かざし)にてもあれ、いかにもいかにも弱々(よわよわ)と、持ち定めずして、持つべし。
 衣、袴などをも、長々と含みて、腰膝は直ぐに、身はたおやかなるべし。
 顔の持ち様、仰けば、見目悪く見ゆ。俯けば、後姿悪し。
 さて、首持を強く持てば、女に似ず。いかにもいかにも袖の長き物を着て、手先をも見すべからず。帯などをも、弱々とすべし。
 されば、仕立を嗜めとは、懸かりをよく見せんとなり。
 いづれの物まねなりとも、仕立悪くてはよかるべきかなれども、殊更、女懸かり、仕立をもて本とす。


世阿弥は物学条々の第一に「女」の物まねを説く。
先ずは、徹底的に「仕立」つまりは「扮装」にこだわれ、という。
とりわけ、高貴の女人などについては、「すべて私ならず、尋ぬべし」である。
これは見かけだけの上でなく、きちんとした着衣や作法が演者の心に及ぼす働きを求めたものといえよう。
ただ、「舞・白拍子」以下、「帯などをも、弱々とすべし」と結ばれる段にて浮かび上がる仕立の姿は、現在の能楽における女のそれとは隔たりがあるのではないだろうか。
世阿弥の時代から今日までの600年の積重ねは、仕立の過剰を削りゝゝして、世阿弥が理想とした幽玄の美学へと結晶させてきた。


本文の急所は、「仕立を嗜めとは、懸かりをよく見せんとなり」
懸かりとは、風情や情緒と受け止めればそう遠くはないだろう。


世阿弥晩年の能作の書「三道」において、
「女体の能姿、風体を飾りて書くべし。是、舞歌の本風たり」
さらに「女御・更衣・葵・夕顔・浮船」などを言挙げ、
「貴人の女体、気高き風姿の、世の常ならぬ懸り、装ひを、心得て書くべし」と述べ、
その「世の常ならぬ懸り」とは「たけたる懸りの、美しくて、幽玄無上の位、曲も妙声、振り・風情も此上はあるべからず」ものであり、
それらを代表するものとして「六条御息所の葵の上に憑き祟り」、「夕顔の上の物の怪に取られ」や「浮船の憑物」など、「源氏物語」の世界から材を取った曲をあげる。
幽玄の美としての女体風姿の極意は
「梅が香を桜の花に匂はせて、柳が枝に咲かせてしがな」というのだが、
写実の精神からは到底及ばぬ、意(こころ)付けの妙味に奥ゆかしき美を見出す精神は、蕉風俳諧にも受け継がれ、現代の文芸精神にも脈々と生きつづけているだろう。


 -参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫


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窓あけて窓いつぱいの春

2005-03-28 01:13:08 | 文化・芸術
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<四方の風だより>


追記 <虚ろな王子・王女-松石俊夫の個展>

昨日、紹介した松石俊夫展について追記。
29日(火)PM6:00から、個展会場にてささやかなパーティ開催の予定。
ゲストイベントとして交友の音楽家たちによる演奏会もある由。
絵画と音楽のコラボレーションのひとときとして楽しめます。
どなたでも参加自由の無料。


勿論、私も参っておりますので、お出での節はお声掛けください。


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お天気よすぎる独りぼつち

2005-03-27 08:44:54 | 文化・芸術
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<四方の風だより>


<虚ろな王子・王女-松石俊夫の個展>

昨年9月、大阪府立現代美術センターで個展をした松石俊夫君が
今度は会場を中之島の
アクサンギャラリーに移して、
虚ろな王子・王女と題した連作シリーズ個展を
今週、3月28日(月)~4月2日(日)の間、開催する。

インク、色鉛筆、パステル、モノプリントなどの混合技法を駆使しているという平面は
具象的なフォルムを媒介にしつつ独特の幻想世界を現出する。
人間の遥かな記憶や無意識へと遡行し、重畳する時間の迷宮へと誘う観がある。

松石君は私と同じ高校同窓、5年後輩にあたる。
以前に触れたことのある、先年物故した、私にとって友であり先達でもあった辻正宏君との機縁に結ばれる人たちの一人。



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しぐるるや犬と向き合つてゐる

2005-03-26 21:17:41 | 文化・芸術
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<エコログのなかのある対話から-その6>


四方館

食は人間のみならずあらゆる生命体にとっての本源的な欲求であり、
すべての欲望の原基とも云えるものだろう。
貴女のこの一文は、そのことに基づきつつ、食への欲求から、愛や知の高度な精神的欲求までをも、<欲望>の連続性で捉えているところが、とてもいいと思う。
おそらくは、貴女自身が、自分の心の病について、その病因のよってきたるところが、
この<欲望>の並外れた過剰さゆえなのだと、うすうす気づいているに違いない。
愛の力といい、生きる力といい、喧嘩に強いといい、人間力という。
あるいは反転して、ぎりぎりの状態といい、守りきるという。
これら一語一語に、貴女の<欲望>が奔流し溢れかえっている。
貴女は、自分自身の内部から溢れ出す<欲望>のままに、正直に、ひたむきに<生き>たいと挑み続けてきた。
だが、どんな場合でもそうだが、その前にはつねに大きな高い<壁>が立ちはだかる。
人がみな通過してくる思春期におけるアイデンティティーの確立は、その相克の結果とも云えるものだ。
おのれの<欲望>と立ちはだかる<壁>のあいだでなんとか折り合いをつけることだ。
貴女は、どうやらこの折り合いをつけることを、徹底的に嫌ったらしい。
自分の<欲望>にどこまでも正直に生ききるためには、いわゆる<正常>と<異常>の境界を越え出てしまうしかなかったのだ。


と、非常に雑駁な物言いだけれど、このように考えれば、私自身、貴女の心の病について、少しく腑に落ちてもくるのだが‥‥。
(2004/12/07 21:40)




私は過食症(摂食障害)歴12年でもありましたし、食行動に始まるこのエコログは、私にとって非常に、それこそ本源的なものを示す文章であったかもしれませんね。

「生まれる」という受動形としてよく取り上げられるように、人間が生まれることそれ自体は「欲望」ではありえませんが、その後は、ひたすら様々な「欲望」と自己をかかわらせていくのが人生だともいえますね。

「欲望」の過剰さでいえば、何より仕事について、「大いなる勘違い」というか、「壮大な計画・目標」をもっていて、もちろん今から考えれば到底実現不可能なことばかりでした。ボランティアに明け暮れて、研究と現場(臨床)、それを出身である人文系とまったく畑違いの社会福祉学研究に出来れば持ち込みたいなど、もちろん福祉にとって必要と見たからではありますが、専門分野だけでも3つ以上はあるのは、単なる「気が多かった」だけでは説明できない「欲望」の過剰ですね。何もかもをやろうとした・・。

正直に、ひたむきに生きたいと挑み続けてきた、そうです。ただし、今は、挑戦、という行為が出来る力は、もう私にはありません。その意味でも目標は、ありません。精神障害を負った以上、仕方ないのです。

折り合いがつけることができない、ごまかしもできない、そして、たえず自分のしていること、自分自身の「正当性」を問い続けてきた、その意味では非常に「倫理的」な人間であったことも確かです。

そうです、だから、上記列挙しただけでも、人間的にも「正常」と「異常」の境界を踏み越えるしかなかったのだと思います。でも、どう考えても、勘違い人生の期間は長かったけれども、「失って形成された今の『私』という心」という「今」は勘違い人生ではないし、そして、悪い人間だった、ということもどう考えて も考えられないですね。

とにかく、16歳時から、大変色んな症状の出た(もちろん身体症状も)14年間の闘病であり、健常者世界で対等(以上)にやってきた12年ほどでしたが、
今 に至って固定化したのは、一にも二にも「不安障害」という、心の頭痛を耐えに耐えるような毎日の我慢大会、究極、もう耐えられないと思うのは、それだけですので。これが病の落ち着き方として、まだましだったほうなのか、やはりこれだけ悪化しているのだからましとは言えないのか・・。


私は今ももちろん多趣味・多関心な人間ですが、非常に「倫理的」な生き方をずっと考えている人間でもあるんですよ。今ならそう言語表現することを知った、ということで、昔からずっとそうだったと思います。倫理学はきちんとはまるでやったことがないです、カント『実践理性批判』を読み続けたくて、いつも目の前にお いているのですが(最近になって、カントの素晴らしさが実にわかってきた、文章にしてもなんにしても)。

ごまかしもだいぶできるようになったのですが、まだまだですね。でも上記の「倫理的な」人間性を持った以上、ごまかしがこれ以上できにくいのは致し方ないでしょう。

処方箋のない心の病、「この先」が大変厳しいと思っています。治らないんですからね。我慢大会と頑張れない病気であるのを無理して努力すること(日常生活に しても仕事への努力にしても)、何より、実は不安の我慢大会がきついんですね。身体障害と同じだと、今になって実感します。

どうもありがとう。今回も適切なコメントいただけて、また私自身をよりお話できたと思い、嬉しいです。
(2004/12/08 08:59)


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