山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

焼き捨てて日記の灰のこれだけか

2009-05-31 22:42:19 | 文化・芸術
Ichiokaob090530

山頭火の一句-昭和5年9月

私はまた旅に出た。――
所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だった。愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だった、浮き草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。
水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、――
旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのままに写さう。
私は今、私の過去一切を清算しなければならなくなってゐるのである。ただ捨てても捨てても捨てきれないものに涙が流れるのである。私もやうやく「行乞記」を書きだすことが出来るやうになった。――

ほぼ3ヶ月のこの九州行乞、第1日目の足跡は9月9日の八代町にはじまる。そして人吉・都城・宮崎・志布志・高鍋・延岡・竹田・由布院・中津・八幡・糸田・門司・下関・後藤寺・福岡・大牟田と廻って、12月15日に熊本へと戻った。

―四方のたより― 市岡OB美術展

とうとう第10回を迎えたOB美術展、昨夕はその千秋楽、打上げの会。

高校時代より畏兄と仰いだ辻正宏が逝って、その一周忌に彼を偲ぶ会が「いまふたたびの’98市岡文化祭」と名づけられ故人有縁の輩が集ったのを機縁に、’00年の1月だったか第1回が開催されたのが、回を重ね、いつしか歳月はめぐってはや10回目を数えるに至った訳だが、こうして年に一度の逢瀬をたび重ねてきた来し方をふりかえれば、去来することさまざま輻輳してなんとも言葉にしがたいものがある。

ただ明瞭に云えることは、流れた歳月だけおのおの年老いてきたという動かしがたい事実が、お互い五十路、六十路を歩いてきた輩だけに、強い感触をもって迫ってくるのだ。

写真は第10回を迎えた記念誌としての作品集、表紙・裏表紙に配されているのは3年前に逝かれた中原喜郎兄の作品。

―表象の森―「群島-世界論」-07-

2005年10月下旬、ガラパゴス群島最大のイサベラ島でシエラネグラ火山が噴火したというニュースは、記憶のなかに眠っていた火山群島の鮮烈なイメージをあらたに喚びだすきっかけを私に与えた。溶岩がゆっくりと島の野生をなぎ倒して流れ進み、水蒸気雲が上空20キロまで立ち上るその映像のなかに、私はあらためて<島>というものの誕生にかかわる

神話的な光景を透視した。「群島」を想像する人間の脳裡にとりわけ深く刻まれているもっとも始原的で原型-model-的な火山群島として、ガラパゴス群島を挙げることに異論を持つ人は少ないだろう。

南米、エクアドルの西方沖約1000キロの大洋上、赤道直下に点在する大小19の島といくつもの岩礁からなるガラパゴス群島は、その立地、景観、生物相、そして太平洋探検史における特別の経緯も相俟って、すでにある意味で「始原の島」としての神話的原型をさまざまな大衆的・文化的創造力に提供しつづけてきた。とりわけこの群島は「種」-species-という生物学的概念を進化論の射程のもとに確立したダーウィンの理論の啓示的「発見」をもたらした特権的な場所としてなによりも知られている。

 -今福龍太「群島-世界論」/7.種の起源、<私>の起源/より


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春は三月曙のそら

2009-05-30 14:12:28 | 文化・芸術
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―表象の森― 神の出遊

遊とは、この隠れたる神の出遊をいうのが原義である。それは彷徨する神を意味した。
遊、その字形は、旗をもつ人の形にしるされているが、旗は氏族の標識であり、氏族の霊の宿るもの。
旗を掲げて行動するは、その氏族神とともに行動することであり、あるいは氏族神そのものの出行とも考えられる。それが遊であり、遊とは神の出行である。

旗棹上部に、吹き流しとして添えられているものを、偃遊-えんゆう-という。わが国の「ひれ」というものに近いと思われるが、神の宿るところはこの吹き流しの部分にあったようだ。中国では旒-リュウ-という。この垂れ衣に、日月交竜、熊虎鳥隼亀蛇などの画文を加えた。

ひれは領巾、肩衣としるすように、肩や襟元に着ける長いきれである。もとより呪符として用いるもので、松浦佐用姫の領巾麾-ひれふり-の伝説-佐用姫が、朝命を奉じて海を越えて使する佐提比古-サデヒコ-との別れを惜しんで山に登り、離れゆく船を望んで、領巾を脱ぎこれを麾-まね-いた-も呪布としての信仰にその運命を托したことを示している。

 松浦懸佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつをらむ -万葉集868
 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫 -万葉集874

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「灰汁桶の巻」-36

  糸桜腹いつぱいに咲にけり  

   春は三月曙のそら  野水

次男曰く、挙句。段々と白んでくる空の景色に目を付けたところ、枝垂れ桜の花の色にも、裾拡がりの風情にもよく映る。

匂の花から起す春は二句続でよい。巡では去来に当るが、花の座を譲り、入替って野水がつとめている、と。

「灰汁桶の巻」全句

灰汁桶の雫やみけりきりぎりす   凡兆 -秋  初折-一ノ折-表
 あぶらかすりて宵寝する秋     芭蕉 -秋
新畳敷ならしたる月かげに      野水 -秋・月
 ならべて嬉し十のさかづき     去来 -雑
千代経べき物を様々子日して    芭蕉 -春
 鶯の音にたびら雪降る       凡兆 -春
乗出して肱に余る春の駒       去来 -春  初折-一ノ折-裏
 摩耶が高根に雲のかゝれる    野水 -雑
ゆふめしにかますご喰へば風薫る 凡兆 -夏
 蛭の口処をかきて気味よき     芭蕉 -夏
ものおもひけふは忘れて休む日に  野水 -雑
 迎せはしき殿よりのふみ      去来 -雑
金鍔と人によばるゝ身のやすさ   芭蕉 -雑
 あつ風呂ずきの宵々の月     凡兆 -秋・月
町内の秋も更行明やしき      去来 -秋
 何を見るにも露ばかり也      野水 -秋
花とちる身は西念が衣着て     芭蕉 -春・花
 木曽の酢茎に春もくれつゝ     凡兆 -春
かへるやら山陰伝ふ四十から    野水 -雑・春 名残折-二ノ折-表
 柴さす家のむねをからげる     去来 -雑
冬空のあれに成たる北颪       凡兆 -冬
 旅の馳走に有明しをく        芭蕉 -雑
すさまじき女の智慧もはかなくて   去来 -雑・秋
 何おもひ草狼のなく          野水 -秋
夕月夜岡の萱ねの御廟守る     芭蕉 -秋・月
 人もわすれしあかそぶの水     凡兆 -雑
うそつきに自慢いはせて遊ぶらん  野水 -雑
 又も大事の鮓を取出す        去来 -夏
堤より田の青やぎていさぎよき    凡兆 -夏
 加茂のやしろは能き社なり     芭蕉 -雑
物うりの尻声高く名乗すて      去来 -雑  名残折-二ノ折-裏
 雨のやどりの無常迅速       野水 -雑
昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ   芭蕉 -雑
 しよろしよろ水に藺のそよぐらん  凡兆 -雑
糸桜腹いつぱいに咲にけり      去来 -春・花
 春は三月曙のそら          野水 -春


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しづけさは死ぬるばかりの水が流れて

2009-05-29 22:24:50 | 文化・芸術
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山頭火の一句-昭和5年9月

山頭火の行乞記「あの山越えて」は、熊本での「三八九-さんばく-」居の時期を挟んで二つの旅、前半は昭和5年9月から12月までのほぼ3ヶ月、後半は昭和6年の暮から翌年の4月まで約5ヶ月の旅となっている。
 このみちや
 いくたりゆきし
 われはけふゆく
私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ、と旅のはじまりの一日を書きおこしている。

―表象の森―「群島-世界論」-06-

アルジェで「孤島」-Les Iles-という本をはじめて手にとったとき、アルベール・カミュは二十歳だった。小説を書きたいという欲動が体内からあふれ出さんばかりにみなぎる、痛いほどに幸福な、誰もが記憶するあの若き王国での出来事である。その本は啓示そのものだった。傾倒、そして熱狂的な従順がそのあとにつづいた。太陽、夜、海-そうした自然の与えてくれるむせかえるような美と陶酔の氾濫だけを、ただ享楽として受け入れるだけだった若者の傲慢さに向けて、その本は火山の震動のような衝撃を与え、氷の雨をはげしく降らせた。「自然」の神々を崇拝するだけの野蛮な悦楽の日々にたいし、それは聖なる痛み、不可避の死、愛の不可能といった懐疑と憂鬱の像をつきつけ、カミュにはじめて人間の内部に翳のように巣くう「文化」なるものの存在を発見させた。はじめて覚える「消えやすさ」の感触が、「消え去ることのない」味わいとして、若い感性の襞のなかに深く浸透し永遠にとどまった‥。

「孤島」の著者ジャン・グルニエ、1930年、パリから新任哲学教授として赴任してきた彼をアルジェ高等学校で迎えたカミュは、この師とのあいだにすでに張られていた見えざる共感の糸を直観し、師の人と作品を通じて、その硬質の糸を自らの内部で豊かに紡いでいったのだった。
 -今福龍太「群島-世界論」/6.メランコリーの孤島/より-


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糸桜腹いつぱいに咲にけり

2009-05-28 23:10:08 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 寒冷渦

夜は雨、二日続きの荒れ模様。この時期にしてめずらしいことだが、その原因は四国沖の寒冷渦とか。気象衛星の図を見れば、列島に大きな渦模様がかかっている。上空の偏西風から切り離された低気圧が動かず停滞したままなそうな。別名「切離低気圧」、英語ではCutoff Lowだと、まるで表記のそのままじゃないか。この寒冷渦、どうやら発達のピークは過ぎたようだが、30日までは四国沖でノロノロ、31日にようやく東へ動き出すだろうと。
週末の外出は傘が要るようだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-35

   しよろしよろ水に藺のそよぐらん  

  糸桜腹いつぱいに咲にけり  去来

次男曰く、名残の花-匂の花-である。
連・俳で「花」とは、文字どおり賞翫の惣名である。桜の花は代表的なものだが、その名で呼んでは「花」にならない。梅の花、桃の花、菊の花なども、「花の兄」「三日の花」「花の弟」と遣えば花になる。

元禄5年12月末、江戸での六吟歌仙の発句として詠んだ「打よりて花入探れんめつばき」を、芭蕉は「花」の句としている。一座を「花入」に見立てた趣向で-興行そのものが花だ-、早梅や冬椿が代役になるわけではない。

句は、芭蕉連句のなかで、「桜」を「花」代わりに遣った唯一の例で。事の次第は「去来抄」に記している。「予、花を桜に替えんと乞。先師曰、故はいかに。去来曰、凡そ、花はさくらにあらずといへる。一通りはする事にして、花聟・茶の出花なども花やかなるによる。花やかなりといふも、よる所あり。必竟、花は咲節をのがるまじとおもひ侍る也。先師曰、‥ともかくも作すべし。されど尋常の桜にて替たるは詮なからんと也。予、糸桜はら一ぱいに咲にけり、と吟じければ、句我儘也、と笑ひ給ひけり」。

糸桜に固執した訳も、「我儘」な句を認めた訳もこれではよくわからぬが、去来の句作りは、たぶん前二句の景の見立に、西行らしい遁世者の姿をからませたものだろう。しょろしょろと流れる小水に藺草がそよぎ、かたわらに青鷺が一羽、佇立して眠っていると云えば、藺田や江汀でなければ山寺か草庵の池泉のさまだ。初折、花の座の作り-「花とちる身は西念が衣着て-芭蕉-に合せて、去来は謡曲「西行桜」の一節を借りたらしい。

「花の名たかきは、まづ初花をいそぐなる、近衛殿の糸ざくら。見わたせば柳・桜をこきまぜて、都は春の錦散乱たり」

葉らしい葉もなく、茶緑の小花もおよそ見映のせぬ、ひょろりと直立した藺草の風情は、柳とは似ても似つかぬ貧相なものだ。洛中の春が「柳・桜をこきまぜて」錦を飾るなら、草庵の春の贅沢は藺草のそよぎに満開の枝垂れ桜だ、と去来は云いたいらしい。

しだれは長寿を祝う縁起物である。矮小な藺草は柳糸に較べるべくもない。ならば、せめて糸桜に「腹いっぱい」しだれてもらおう、と読めばこの句は、俳も祝言もよくわかってくる。そういう興について、俳諧師当人は何一つ語ろうとはせぬものだ、と。


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迷うた道でそのまま泊る

2009-05-27 18:26:23 | 文化・芸術
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山頭火の一句-昭和4年の早春か

これより先、昭和2.3年にかけてのいつ頃か、山頭火ははじめての四国遍歴をしている。その四国遍路のあと小豆島へと渡り、念願の放哉墓参を果たしている。暑い夏の盛りであったという。

昭和4年の正月は広島で迎えたようだが、この宿先から彼は、福岡の木村緑平宛に金策無心のハガキを出している。「新年早々不吉な事を申し上げてすみませんが、ゲルト五円貸して戴けますまいか、宿銭がたまつて立つに立たれないで困つてゐるのです」と。

この無心に緑平はすぐにも応じたのだろう、まもなく山頭火は田川郡糸田村-現・糸田町-の緑平宅を訪ね、何泊かしたかと見える。緑平宅を辞してから飯塚へ向かったのは、日鉄二瀬炭鉱に勤めていた息子の健-当時19歳-に会うためだったようだ。その飯塚から緑平に宛てた礼状のハガキに、この句が添えられていた。

―今月の購入本―
5月は、今福龍太の「群島-世界論」と白川静の世界に、ふと迷い込んだかのように茫漠と過ごしてきた感がある。
ひとまずは「群島-」を読み終えたところで、一日、気分転換とばかり、積み晒しのままにしていた多田富雄の「生命の意味論」を手にしたが、これが一服の清涼剤のごとくはたらいたか、茫とした脳も少しはすっきり。
とりわけ第1章「あいまいな私の成り立ち」で、免疫系あるいは脳神経系の詳説から、超システム-Super System-としての生命体を論じたすえ、「この超システム-Super System-に目的はあるかというと、ないのではないかと私は考えている」と記しているの出会し、一瞬この身が洗われるような爽快感が走ったものである。

・白川静「字訓」-新訂普及版-平凡社
先月に続き白川静の字書三部作の一、’07年に出版された普及版の中古書。

・白川静「文字逍遥」平凡社ライブラリー
漢字は線によって構成される、とはじまる書中「漢字の諸問題」の小題「線の思想」に、「すなわち横画は分断的であり、否定的であり、消極的な意味を持つ。これに対して縦画は、異次元の世界をも貫通するものである。それは統一であり、肯定であり、自己開示的である」と。

・松岡正剛「白川静 -漢字の世界観-」平凡社新書
広大無比、鬱蒼と樹海のようにひろがる白川静の世界、その生涯を尋ねつつ、学問・思想の全体像を描いてみせる

・今福龍太「クレオール主義」ちくま学芸文庫
クレオール主義とは、なによりもまず、言語・民族・国家に対する自明の帰属関係を解除し、自分という主体のなかに四つの方位、一日のあらゆる時間、四季、砂漠と密林と海とを等しく呼び込むこと-。混血の理念を実践し、複数の言葉を選択し、意志的な移民となることによって立ち現れる冒険的Vision‥。

・山田芳裕「へうげもの 1-4巻」講談社
千利休の連想から古田織部をモデルにした変わった面白い劇画があると聞きつけ珍しくも手を出してみた
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」5月号、シルヴィ・ギエムのDVD「エヴィダンシア」

―図書館からの借本―
・今福龍太「群島-世界論」岩波書店
群島とは、大陸的なるもの-近代国家や国語-の対極にある思考の一つの原理であり、制度的支配秩序の外部または裏面としての、時間・政治・言語の混淆した多様性を意味する。著者は、大陸的なるものに根ざすのではなく、海の潮流に身を委ねるように、群島的想像力により世界のVisionを反転させてみせる、独創的な文学論であり、J.ジョイスや島尾敏雄、D.ウォルコット、或いはカリブ海のクレオール詩人やゲール語で書くアイルランドの詩人たち、それらの文芸作品、遠く隔たった地で語られ書かれた言葉同士が、縦横に結ばれ共振する。

・諸川春樹「西洋絵画の主題物語 Ⅱ 神話編」美術出版社
・諸川春樹「西洋絵画の主題物語 Ⅰ 聖書編」美術出版社


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