山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

腹底のしくしくいたむ大声で歩く

2010-08-31 23:55:51 | 文化・芸術
Santouka081130047

―日々余話― もう、うんざり‥

とうとう8月も晦日というに記録破りの猛暑は続く。真夏日も熱帯夜も、94年の過去記録を各地で更新しているという。この分だと9月半ばあたりまで続きそうな気配さえして、ほとほとうんざり‥。

酷暑に、不況と円高、二重苦三重苦のわが列島だというのに、参院選をしくじった管直人に政局の嵐は避けられず、民主党はとうとう代表選突入というお粗末に、これまたうんざり‥。

ところで「うんざり」の「うん」は「倦む」からきているのだろうが、どうして「うんざり」と成ったのか、語源がよくわからない。広辞苑などではそんなことは教えてくれない。

で、netで検索してみたら、「倦むずあり」が略されて「うんざり」と変化してきた、という説が多く散見される。
しかし、この説だと、なんだか「倦むず」と「あり」の合成語にもみえ、動詞句のようなことになってしまうから不味いのではないか。「うんざり」とはどう見ても副詞であって、「うんざり+する」となって動詞句となるからだ。

もう一つ、この説とは似て非なるものが見つかった。Wiktionary-ウィクショナリー日本語版-によれば、古語の「うさ(当時の発音はunsa, unza)」+副詞語尾「り」が語源であると。名詞の「倦さ」に副詞語尾の「り」が接合されて副詞「うさり」が「うんざり」へと表記変化してきたとの説に、どうやら軍配があがりそうだ。

―山頭火の一句― 行乞記再び -98
4月8日、雨後の春景色はことさらに美しい、今日は花祭である、7年前の味取生活をしぜんに思ひだしてなつがしかつたことである。

今日は辛かつた、行乞したくないよりも行乞できないのを、むりやり行乞したのである、しなければならなかつたのである、先日来毎日毎日の食込で、文字通りその日ぐらしとなつてしまつたから詮方ない。

やつと2里歩いて此町へ着いた-途中二度上厠-、そして3時間ばかり行乞した、おかげで飯と屋根代だけは出来た、一浴したが一杯はやらない、此宿は清潔第一で、それがために客が却つて泊らないらしい、昨夜の宿とは雲泥の差だ、叶屋。

旅に病んで、つくづく練れてゐない自分、磨かれてゐない自分、そしてしかも天真を失ひ純情を無くした自分、野性味もなく修養価値もない自分を見出ださざるを得なかつた。

-略-、街上所見の一―これはまた、うどんやが硝子戸をはめてカフェー日輪となつてゐる、立看板に美々しく「スマートな女給、モダーンな設備、サーピス-セーピスぢやない-百パーセント」さぞさぞ非スマートな姐さんが非モダーなチヤブ台の間をよたよたすることだらう-カフエー全盛時代には山奥や浦辺にもカフエーと名だけつけたものがうようよしてゐた、駄菓子がカフエーベニスだつたりして、もつともそこは入川に臨んでゐたから、万更縁がないでもなかつたが-。

もう蕨を触れ歩く声が聞える、季節のうつりかはりの早いのには今更のやうに驚かされる。
同宿5人、私はひとりを守つて勉強した。

※表題句の外、2句を記す

楠久の町から2里ばかり歩いたというから、現伊万里市の中心部あたりだろう。

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Photo/楠久から伊万里市中心部へと向かう道中、東山代の明星桜

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Photo/伊万里市郊外の秘窯の里大川内山は、嘗ての鍋島藩御用窯だった

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Photo/大川内山の町並みにそびえ立つ巨大な焼きもの


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お地蔵さんもあたたかい涎かけ

2010-08-19 11:45:32 | 文化・芸術
Santouka081130046


―表象の森― 古里の香り匂い立つ

「今月の」ならぬ、月もとっくに変わって、7月の購入本などのご紹介。
「100年前の女の子」は佳品。
私の父母の田舎は徳島県南部や高知県の山里で、北関東の片田舎とはまた趣は異なるが、古里の香り匂い立つ田舎暮しの片々が、中学を卒業する頃まで毎年のように夏休みに帰参しては過ごした田舎の光景や風情が喚起され、ひととき懐かしい郷愁に誘われては、心地よき時間を堪能させてもくれた。

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―先月-7月-の購入本―

・S.モアレム「迷惑な進化」NHK出版
副題に「病気の遺伝子はどこから来たのか」とあるように、適者生存として進化してきた生物としての人類が、糖尿病や皮膚がんなど、現代社会で「病気」として遺伝子資産をもてあましている様子が明快に説明される。

・船曳由美「100年前の女の子」講談社
関東平野、群馬県館林の北西、県境の矢場川を越えると栃木県の足利、二つの町のあいだに高松という小さな村があった。明治42-1909-年、そこに寺崎テイという女の子が生れた。里帰りしてテイを産んだ実母は、姑と折合いが悪かったか、生後1ヶ月のテイだけを嫁ぎ先へと送り返した。
実母に見捨てられるという数奇な運命を背負わされた乳飲み子の、健気で勝気で賢い女の子として成長を遂げていく姿が心に沁みるが、大正頃の風俗や習慣が詳細に活写されており、民俗学的な関心からもたのしく読める。

・内田百「百鬼園随筆」新潮文庫
漱石門下の異才・内田百の昭和8年に上梓されたという代表的随筆。

―図書館からの借本―
・C.レヴィ・ストロース「パロール・ドネ」講談社メチエ
40年代前半から70年代半ばまでの32年間を、コレージュ・ド・フランスで行った講義と研究指導の、その年々の詳細で生々しい報告書を一冊に束ねたのが本書「パロール・ドネ」だそうだ。訳者は中沢新一。


―山頭火の一句―
行乞記再び -97
4月7日、曇、憂鬱、倦怠、それでも途中行乞しつつ歩いた、3里あまり来たら、案外早く降り出した、大降りである、痔もいたむので、、見つかった此宿へ飛び込む、楠久、天草屋

-略-、今日は県界を越えた、長崎から佐賀へ。
どこも花ざかりである、杏、梨、桜もちらほら咲いてゐる、草花は道につづいてゐる、食べるだけの米と泊るだけの銭しかない、酒も飲めない、ハガキも買へない、雨の音を聴いてゐる外ない。

此宿はほんたうにわびしい、家も夜具も食物も、何もかも、―しかしそれがために私はしづかなおちついた一日一夜を送ることが出来た、相客はなし-そして電灯だけは明るい-家の人に遠慮はなし、2階1室を独占して、寝ても起きても自由だつた、かういう宿にめつたに泊れるものでない-よい意味に於ても悪い意味に於ても-。

よく雨の音を聴いた、いや雨を観じた、春雨よりも秋雨に近い感じだつた、蕭々として降る、しかしさすがにどこかしめやかなところがある、もうさくら-平仮名かう書くのがふさはしい-が咲きつつあるのに、この冷たさは困る。
雪中行乞で一皮だけ脱落したやうに、腹いたみで句境が一歩深入りしたやうに思ふ。自惚ではあるまいと信じる、先月来の句を推敲しながらかく感じないではゐられなかつた。

友の事がしきりに考へられる、S君、I君、R君、G君、H君、等、等、友としては得難い友ばかりである、肉縁は切つても切れないが、友情は水のやうに融けあふ、私は血よりも水を好いてゐる!

天井がないといふことは、予想以外に旅人をさびしがらせるものであつた。
-略-、今夜も寝つかれない、読んだり考へたりしてゐるうちに、とうとう一番鶏が鳴いた、あれを思ひ、これを考へる、行乞といふことについて一つの考察をまとめた。

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Photo/伊万里湾を望む楠久あたりの風景

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Photo/創業200年という松浦一酒造

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Photo/七福神の弁財天で名高い荒熊稲荷神社


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忘れようとするその顔の泣いている

2010-08-16 11:49:48 | 文化・芸術
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―表象の森― 神尾真由子のPaganiniを踊ってみる
先月の27日以来、なんと20日ぶりの言挙げ。
ブログを始めてかれこれ6年にもなるが、これほどペースダウンしたことはない。これといって特段の事情があった訳でもない。いくつか思いあたる節もあるが、どれも決定的というほどにはあらず、漫然と複合的に作用したのかな、というしかない。
で、今日はとりあえず、今週末予定の「夏の夜の舞と小宴」と題した
6年ぶりか、久しぶりに稽古場で行うイベントの紹介。

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残暑御見舞。
ちょいと沈黙しているあいだに早くも盆の月となってしまいました。
かといってけっして稽古を休んでいた訳じゃありません。
Eric Satieの曲なぞかけて踊ってみると、ぐんと動きの発想がひろがります。
それにしても神尾真由子というViolinistは凄いですネ。音楽は門外漢の身でとても講釈なぞ出来ませんが、Paganiniの「24 Caprici」に脱帽、驚き入ってます。機会があればぜひ生の演奏を聴いてみたいものです。
いつもは稽古でご厄介になっているアソカ学園ですが、Work Shopよろしく即興なぞご覧いただいて、一夕気楽な小宴を得たいと思いますが如何でしょうか。
但し席料1000円也をご喜捨願うことになりますが、お運び願えれば幸甚に存じます。
  初秋とはいえ猛暑の砌   四方館亭主/林田鉄

―山頭火の一句― 行乞記再び -96

4月6日、晴たり曇つたり、風が吹いて肌寒かつた、どうも腹工合がよくない、したがつて痔がよくない、気分が鬱いで、歩行も行乞もやれないのを、むりにここまで来た、行程わづかに2里、行乞1時間あまり、今福町、山代屋
死! 死を考へると、どきりとせずにはゐられない、生をあきらめ死をあきらめてゐないからだ、何のための出離ぞ、何のための行脚ぞ、ああ!

此宿はよい、昨夜の宿とはまた違った意味で、-飲食店だけでは、此不景気にはやってゆけないので安宿をはじめたものらしい、うどん一杯5銭で腹をあたためた、久しぶりのうどんだつた、おいしかつた。-略-
人間の生甲斐は味はふことにある、生きるとは味はふことだともいへよう、そして人間の幸は「なりきる」ことにある、乞食は乞食になりきれ、乞食になりきれなければ乞食の幸は味はへない、人間はその人間になりきるより外に彼の生き方はないのである。

金のある間は行乞などできるものでない、また行乞すべきものでもあるまい、私もとうとう無一物、いや無一文になつてしまつた、SさんGさんに約束した肌身の金もちびりちびり出してゐたら、いつのまにやら空つぽになつてしまつてゐる、これてせよい、これでよいのだ、明日からは本気で行乞しよう、まだまだ袈裟を質入してもに二三日は食べてゐられるが。-略-
今夜も寝つかれなくて、下らない事ばかり考へてゐた、数回目の厠に立つた時はもう5時に近かつた-昨夜は2時-。

※表題句には夢と註記あり、この句の外10句を記す

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Photo/鳴き砂で知られる、その名も所縁のぎぎが浜

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Photo/松浦党水軍の梶谷城趾

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Photo/隣町にある上志佐の棚田


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