山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

僧ものいはず款冬を呑

2008-09-30 23:23:16 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― かしこくも御名御璽‥

昨日の麻生首相、その所信表明の演説を、夕刊で読んだ時は、冒頭から吃驚、ブッ魂消て、「なんだ、これは!」と一瞬新聞を放り出してしまった。

ずいぶんと物議をかもしている「かしこくも、御名御璽をいただき」と時代錯誤の言表が挿入されていたことだ。

「わたくし麻生太郎」にはじまり、その前後の文体がまあ通常範囲のものであるだけに、きわだって異和を放つ一句が無理にも挿入されたとしか思えぬ、時代錯誤のとんでもない言語感覚、思想などとはほど遠い、ただのイカレポンチの宰相だ。

もう一つ、とんでもねえ野郎だと思ったのは、明るい日本を掲げて論陣をはった件り、
「幕末、我が国を訪れた外国人が、驚嘆とともに書きつけた記録の数々を通じて、わたしども日本人とは、けっして豊かでないにもかかわらず、実によく笑い、ほほ笑む国民だったこと」云々である。

これはどうみても渡辺京二の名著「逝きし世の面影」に描かれた数々のエピソードを背景にしていること間違いなかろうが、こんな御仁の論理に歪曲引用されたのでは、渡辺京二も迷惑千万で、さぞ聞くに耐えられないだろうと、いたく同情する。

政治家の節操のなさ、恥も外聞もない豹変ぶりなど、枚挙に暇もないほど見てきているが、安倍、福田と続いた突然の総理辞任に、危急存亡の自民党にあって、圧倒的多数で総裁を託されたこの御仁、奮い立ち舞い上がるあまりに、これはもう狂人の世界にあと一歩、としか思われぬ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-18

  はなに泣桜の黴とすてにける  

   僧ものいはず款冬を呑  羽笠

次男曰く、款冬は、冬を款-叩-く。款凍・款東ともしるし、厳寒氷雪を凌いで生ずる意とされる。転じて蕗のとうのこと、款冬花という。

ところが日本では、公任が「和漢朗詠集」春の部に、山吹の歌二首とともに、款冬の詩を選入したあたりから、款冬を山吹とする奇妙な風習が生まれた。下って連・俳でも欵冬を山吹に当てているものが多い。

貞の「御傘」には、「薬の名に款冬と云は蕗のとうの事也。‥、款冬の字をやまぶきと読は日本のあやまちなり。され共、上代よりの義なれば、今更あらためずしておく也」と云い、季吟の「増山の井」は「山吹、款冬。貞、欵冬は蕗のとうをいふといへど、和名抄に順-源順-の山吹といひ、朗詠にも公任卿の山吹に用給へば、我朝にては只やまぶきの事なり」と云う。

そのフキノトウの方の款冬を、風邪咳・喘息の良薬として用いたことは、人見必大の「本朝食鑑」や貝原益軒の「大和本草」にも録している。

以上のようなあらましを知って羽笠の句を読めば、いろいろな興が見えてくる。まず、款冬-冬を叩く-という語の思付は、野水句の「冬まつナツトウを叩く」春季に奪った、軽妙な工夫らしい。

款冬の読はカントウでもよいが、花屑を「桜の黴」と云うなら、蕗の薹をヤマブキと云ってこそ面白みになる。季は前に合せて晩春、つまり薹は薹でも、茎が伸び花もほうけた蕗の姑の季節である。フキノトウと承知していてヤマブキという伝統の言葉を呑む、と作るしかなさそうである。

句にはなお若干の趣向がある。「三体詩」に、「僧坊ニ逢着ス款冬花」ではじまる七絶があり、また「古今集」には「山吹の花色ごろも主やたれ問へど答へずくちなしにして」-素性法師-というこれまた知られた俳諧歌がある。

「僧ものいはず」とは、それやこれやにも思いをめぐらした転合な仕立らしい。陽春の候、賈島ならぬ喘息もちの僧を訪ねてみたら、花にそむいて黙々と款冬を呑みながら黴ばかり気にしていた、という滑稽の付である。用辞と云い前句への見込と云い、凝りに凝った句だがやはりうまい、と。


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はなに泣桜の黴とすてにける

2008-09-29 22:34:23 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― 昨日、今日、明日

秋とは名ばかりで真夏日が執拗に続いた残暑も彼岸が過ぎて、このところぐんと気温が下がり本格的な秋の到来だが、この季節の変わり目は小児喘息とアレルギー疾患を併症するKAORUKOにとっては鬼門の時季となる。

一昨々日から喘息の発作症状が少し表れていたようだったが、Dance Café本番の昨日は、朝からいよいよひどくなってきた。
だがこの日ばかりは出かけないわけにはいかない。彼女の様子では、午後2時集合の会場へ地下鉄を乗り継いで行くなど、到底無理だろうというので、タクシーを拾ったが、車の中でも咳は止まらず息苦しくなってきたもようで、急遽、母親と共に西九条の休日急病診療所へとそのまま駈け込ませた。

吸入などの応急手当で少しは効があったようで、終演の7時まではなんとか平静を保ったものの、帰宅して後、就寝の頃になってまたぞろ発作がひどくなった。この日二度目、またしても休日急病診療所へ駈け込む仕儀となったのだが、こんどは夜間診療の中央急病診療所で場所は西長堀近く。

吸入、点滴、そしてまた吸入と、症状を悪化させたぶん応急の手当も時間がかかって、やっと親子3人帰宅したのは午前2時頃になっていた。
急病診療所では、薬剤投与を一日分しかしない。だから今朝もまた、かかりつけの小児科へと受診にいって、KAORUKOはもちろん連合い殿も今日一日休暇となって、親子でゆるりと過ごしていらっしゃる。

さて、ひさしぶりのDance Caféについても書きとめなければならない。
ありさというBallet少女を得て、おまけにDecalco Marieの出演もあって、さらに演奏陣は、常連の杉谷君に加えて、violaの大竹徹氏、percussionの田中康之氏、Voiceの松波敦子嬢と、踊り手4人に演奏者4人の豪華さ?なのだから、メンバーの豊かさと充実は内容に反映しない筈がない。

やはり地の利の問題か、客席は思ったほど入らなかったのがいかにも口惜しいが、出来のほうは予想内の上の部といったところでほぼ納得のいくものであった。

だが、会場中央にでんと佇立する白木の太い4本柱の存在感は如何ともしがたいものがある。踊り手の形象する空間のフォルム、その造型力を阻んであまりある存在感なのだから、これら4本の木柱をよく取り込んだ表象世界を志向していく以外にないのだが、これがたんにドラマティックなだけのありきたりの手法では、これまた既視感に満ちたありきたりの世界しか生みださない。やはりどんな場合も課題は残るものである。

話は変わるが、このところずっと、新聞は読めても、本を読み進むことはできない日々が続いていた。読書にはやはり相応の気力が要る。著者の思考をそれなりに追い肉薄するには、自身の心に集中と持続が把持されねばならない。9日の不幸事出来から、心の動揺と拘束からとても自由になどなれる筈もなかったから、それも自然の理で無理はないかとうち過ごしてきたが、昨夜を経て今日は、ほんの一時間余りだが、打棄ってきた読みかけの書の残りをやっと読み通すことができた。どうやら心の内が少しばかり軽くなっているようである。

そして最後に「たより」らしい本題、
Mulasiaを利用しての次の企画を、昨年は神戸学院グリーンフェスティバルでの機会を得たものの、大阪では4年ぶりとなる山頭火を上演することにした。私自身生まれ育った九条界隈である、その地縁をよすがに一度はやってみたくもなるのは、これまた自然の理であろう。

はじめは10月中にもと思ったのだが、些か忙しないとも思い直し、会場との調整で11月29日、30日の両日とした。
詳細は斯くの如し、である。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-17

   冬まつ納豆たたくなるべし 

  はなに泣桜の黴とすてにける  芭蕉

次男曰く、花の塵、花屑と云えば落花の傍題である。それを「桜の黴-かび-」と云い替えたところが工夫だ。

むろん、花と桜は違う。花に黴は生えないが、桜なら生えておかしくない、と躱して花の座の凌ぎとしたわけだが、作意は不易と流行は一であって同じではないいうところまで及ぶ。納豆の黴を見咎めて、したたかに応じている。

冬から秋への季移りに続けて花の句を求められ、しかも「ふゆまつ」などと後ろ髪を引く体に挑まれれば、誰しも投げ出したくなるが、芭蕉は、困ったと云いながらじつはたいして困った様子でもない。連衆の転合には泣かされるが、「はなに泣」のは風月賞翫の揺るぎない伝統、というところへつなぎ替えている。泣の一字栽入が千鈞の重みだろう。談林と正風の微妙な接点を臨かせる句作りだ。

「ふゆまつ」を見逃した評家は、いろいろこじつけてこの句を解釈する。「秘注」は「老人などを思ひやりテ、よの人の観想也。花も桜も黴たる衣類の如しと也」と、無茶なことを云う。漁潜の「冬の日附合考」や「七部集大鏡」-何丸著、文政年間成-は、「黴」を懲-こり-の誤記とする。ことほどさように解釈に手を焼いている、ということだ。

升六もまた「月に花に執する心は是即ち五欲六塵の境をまぬがれざるものから、さらに業障の媒-なかだち-なるべしと悟りて、其有為の塵欲を捨て,無為の道に入んとの意にやあらん」、と。


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冬まつ納豆たたくなるべし

2008-09-28 08:53:04 | 文化・芸術
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Information<四方館 Dance Cafe>

「KASANE 2008 –襲Vol.Ⅲ-」
  愈々本日夕、Free Space MULASIA, Kujyo

 匂ふより春は暮れゆく山吹の
   花こそ花のなかにつらけれ  定家

  春ならば、桜萌黄や山吹か
      藤や桜や牡丹花

  秋や秋、月に桔梗や女郎花
      紅葉、白菊、萩重

  夏は、卯の花、葵とや
      百合や撫子、花菖蒲

  冬は、枯野に松重
      椿氷るや雪の下

―世間虚仮― Soulful days -10-

昨日-9/27-、RYOUKOの二七日。

AM11時前に波除の家に行く。生前の寝室だった部屋に祭壇が設えられ、遺骨が置かれている。
まだ誰も居ないその部屋で、そっと骨壺を開けてみた。これでもかというほどに詰め込まれた骨片の上に頭骨が乗っていた。その頭を指で触れてみる‥、カラカラに乾いた感触以外、なにもない。
蝋燭を灯し、線香を立てて、ベッドに凭れるように座っていると、まもなく麻生和尚がやってきた。

その麻生さんが帰りがけに階下で言い残していった謂い「脇見運転だって、新聞に出ていたって?」に、ひととき一座は騒いだ。新聞に出ていたのならその記事、どうでも探さなくちゃ、記者の予断としても西署から漏れ出た情報がある筈。何人かに尋ね合わせてみたが、記事を知る人はいなかった。
はたして記事はあったのか、或いはなにかの勘違いか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-16

  霧下りて本郷の鐘七つきく  

   冬まつ納豆たたくなるべし  野水

次男曰く、秋三句目、霧は兼三秋の季だが、晩秋と見定めれば「鐘七つきく」に夜の明けるのを待兼ねる姿がある。それを「冬まつ」と、合せたか。

「冬まつ」は冬近しである。一句、姿良く、初冬に入る生活の情がよく現れる。七点鐘を力ぐさに、納豆叩きの小刻みな音を面白く絡ませている。

尤も、納豆といえば寺、僧家の連想がある。「本郷」を寺町と見ているのだろう。但し、この句の作りについていえば、町家の未明の営みと読んで趣が深い。

叩き納豆は、江戸初め頃商売にすることも江戸初め頃既に商売にすることも珍しくなかったらしいが、納豆を季語とするのは下って江戸中期以降で、「納豆造る」を晩夏に分類する季寄せが多い。

次に花の座を控えて「冬まつ」とは転合なことをする。「捨られて」以下「門守の」まで冬の三句続きは、夏冬の平句は一句で捨ててもよいとする者から見れば異例だが、はこびはさらに雑の句を挟まずいきなり秋へ戻し、その三句目でわざわざ「冬まつ」と念押しに作っている。

「冬まつ」は晩秋の季であって冬ではないとはいえ、これは明らかに連句の約束に背く。敢えてそう作ったのは、次句の花の座-春-に難題を吹っかけているとしか読みようがあるまい。手詰りが生んだ窮余の策だったかもしれぬが、面白くなってきた。意外なところに警策がある、と。


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霧下りて本郷の鐘七つきく

2008-09-27 03:17:59 | 文化・芸術
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Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― 岡田昭三の憤死 Soulful days -9-

岡田昭三君の急死を私が知ったのは8月31日の日曜日だった。通夜がその前の木曜日-8/28-、本葬がその翌日執り行われたというその死は8月26日であった。昭和26年生れの享年57歳、若すぎる死である。惜しまれる死である。思いもよらぬその報に愕然とし胸鬱がれた。

岡田昭三、彼は、私が港へと転身してからの、いわば第二の人生で知己を得た多くの人々のなかで、その直観力や包容力、人としての器量において、私の心に印象深く刻まれた者の一人であった。大いにSympathyを感じうる知友であった。知り合って3年も経った頃か、市従港湾支部の書記長から本部執行委員へと転身、市庁地下1階の市従本部に詰めるようになって、お互いの接点が希薄となりなかなか会える機会もなくなったのには、ときに些かもの侘しいような思いが吹き抜けたものである。

たしか広島出身と聞いた記憶がある。精神の早熟が波乱の立身を求めたか、高校を出てまもなく大阪へ来たらしく、28歳で港湾局の現業職に就くまでのほぼ10年、いろいろな職に就き、昼も夜も働いてきたという。接客業のバーテンなども経てきていると聞いたから、身一つの苦労をよく知っている人とみえた。

浄光寺の麻生さんも、彼の二児がアソカ学園に通っていたことから知り合い、よく気脈の通じる人と感じていたようで、彼と膝を交えると岡田君の噂がたびたび出てきたものであった。その麻生さんは、彼の急死を私が話題にするまで耳に入っておらず、彼もまた驚き歎じ入っていた。

岡田昭三の死は、憤死であろう、あるいは爆死ともいえよう。

彼は2005年の夏から、大阪市従業員労働組合のトップ、執行委員長になっていた。それ以前、99年からの3期を書記長として奔走してきたから、大阪市の財政破綻を機に、ヤミ専・ヤミ給与やらのさまざまな職員厚遇問題が、逆風の嵐となって組合攻撃に集中してくるほぼこの10年を、労組中枢のトップとして辛酸を舐め尽くすような闘いの渦中に居つづけたことになる。

その陰で、もうずっと、数年も前から彼は激しい腰痛に悩まされていたと聞く。松葉杖に頼り、車椅子での移動生活が常態であったという。何年前だったか、私もまた彼の松葉杖姿に二度三度と出会したことがあった。腰痛とガンの転移、とくに骨髄ガンとの相関はよく知られるところだが、彼の身体内部でガンの転移が進行し、もはや自分の命は時間の問題、末期ガンであることを、彼も内心はよく承知していた筈だ。

彼の急死を聞いてから何日か経った夜、私はネットの大阪市従労組サイトを開いて、飽かず眺めてみた。どうやらこのサイト、彼の委員長就任から新しくレイアウトされたようで、彼の肝煎りで作られているというのが、いくつかの頁からよく伝わってきた。ブログもあったので、月に二度か三度ばかり言挙げしている3年前からの記事を追って読んでいくと、なんとほとんどのものが委員長自身、彼みずからの書き込みであった。

これには驚かされた。激務と闘病の日々のなかで、彼自身なにを考えどう動いてきたか、具体的には書けないことが多かろう筈の組合業務のなかで、彼の思いの強さ、誠実さと直向きさが匂い立ってくる感があった。

ブログの記述は3月4日が最後となったままである。8月26日の急死にいたるまでの5ヶ月あまり、死に直面しつつ彼はどう生きたのだったか。

そのブログの最後に、今夜、といってもすでに27日未明に近く、ほんの恣意にすぎない門外漢の弁だが、コメントを付せさせていただいた。

岡田昭三君、ほんとうにごくろうさんだったネ。
港湾支部から本部執行委員へと転じてのち、
書記長から委員長のほぼ10年、冬の嵐が猛り狂うなかを、
自身、病魔に襲われ苦しみぬきながら、さらにいえば、いつ襲いかかるともしれぬ、死の恐怖と向き合いながら、
よく闘いぬいてきたものと、
棲む世界をたがえる者ながら、感じ入っています。

どうやら、ほとんどが君自身の手で書き継いできたとみられるこのブログ、夜を徹して初めから走り読みさせて貰いました。
君の、最後の2年間の日々を、此処からさまざま追想させていただきました。

いつか、もっと年がいってから、闘いの職務から解放されて、ひとりの自由人となった君と、さまざま接点をもてるものと、心に期すものがあったのだけれど‥。
残念だ、無念だ。

それにしても、組合員1万を率いるという大阪市従労組委員長の死を、新聞各紙は報道しないものなんだネ。
社会においてその影響は大なるものがあろう労組幹部という存在は、日蔭に咲く花か、この世間というやつはそんな扱いをしているんだということに、いまさら気づかされて驚かされたようなしだいだ。

心より哀悼の意を捧げます。合掌。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-15

   血刀かくす月の暗きに  

  霧下りて本郷の鐘七つきく  杜国

次男曰く、月を冬から秋に奪い、場と刻を設けた付である。

本郷は一郷の中心地、あるいは生れ故郷の意だが、なぜ「本郷」などという詞をここに持ち出したかわからない。とすると、これは江戸本郷のことか。

「越人注」「秘注」をはじめ、多くはそう解している。それでも納得できるわけではないが、「鐘七つきく」は申の刻-午後4時頃-ではなく、寅の刻-午前4時頃-だろう。折からの七点鐘をたよりに有明空の方をうかがうと、霧につつまれて本郷の杜があったという句作りで、こういう視点は新吉原からの帰り道なら相応しかろうか、というようなことを何となく想像させる。

「血刀かくす」を刃傷沙汰とでも読取り、世話物の趣向の一つもそこに嵌めれば、筋書きはたやすく思い浮ぶ。杜国の狙いは、できるだけ通俗の仕立てによって、陰々滅々の鐘の音を聞かせるつもりだったか。そうとでも読まなければ、こんな句は解釈の仕様もない。二句、恐怖のだましをたのしむ即興のやりとりであろうと思う。深く考えるには及ぶまい、と。


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血刀かくす月の暗きに

2008-09-25 10:58:22 | 文化・芸術
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Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -8-

交通事故というもの、どんな場合も偶然に満ちたものであり、僅かなスキ、ほんの些細なミスから起こるもので、運転手双方に故意はまったくないものだから、事故当初から、その甲乙いずれに対しても責めたり恨んだりの気持はもつまいと思ってきた。

それぞれほんの小さな過失で、第三者-この場合搭乗者-に瀕死の重傷を負わせたり、死に至らしめたりすれば、常人なら良心の呵責はとても大きく深いものがある筈で、その負い目は生涯にも及ぶものになろう。それが人としての自然な心だろうし、またその呵責は当事者にしか計り知れぬものでもあろう。
そう考えれば、家族として責めることも恨むこともあるまい、自身の痛みや悲しみを他のものに転化してしまっては、自分自身をも見失ってしまうことになるのだ、と。

ところが、事故の相手方の運転手は、まだ29歳の若者だが、14日の夜、西警察署からRYOUKOの死を伝えられるまで、病院に来ることもなく、連絡もしてこなかったのである。

私の推測では、保険屋などがいうところの「交差点での事故は、右折車7割、直進車3割の過失割合」の常識から、自分にはほとんど過失がなく、自分もまたむしろ被害者なのだというすりかえの論理で、RYOUKOの悲劇を直視せず、おのが眼と心を閉ざしてきたものと思われる。

近頃の若者に特有のジコチュー論理とでもいうか、僅かなミスであれ、それが惹き起こした悲惨な現実から眼を背ける、とんでもない甘えの構造だが、これをそのまま黙って見逃すわけにはいかない。
そこでひとまずは、彼に対し、次のような一文を書面で送り付けた。

君はいったい、なにを考えているのか。
君はどうして、RYOUKOが死ぬまで、西署からその報を聞くまで、なんら動こうとしなかったのか。

事故当初の夜、私は、君と、君の身元引受人と覚しき伯父ご夫婦とから、挨拶を受けた。
その時点では、私もRYOUKOの容態についてなにも知らず、なにも判らないのだから、「今日のところはお引き取りください。判ったらお知らせします。」と言って、帰ってもらった。
翌日、その容態について、医師から聞かされたことを、あらまし君に電話で伝えた。
その肝心なキーワード「硬膜下血腫」を言い忘れたから、再度電話をして伝えおいた。
この語を調べさえすれば、ほぼ容態について、また今後の推移について、およそ見当がつくものと思われたからだ。

然るに、君はなんの行動も起こさなかった。
いや、厳密に言うなら、その日の午後、一度だけ私の携帯に電話を寄越している。
だが、私は電話に出なかった。というのも、その時、携帯を持ち忘れたまま、病院に行っていたからだ。
着歴を見て、君から電話があったのを知ったが、とくに留守電に伝言が入っているわけでもない。私に用があるならあらためて掛けてくるはずだから、私から応答する必要はない。これが9月10日の午後のことだ。

それから、4日のあいだ、RYOUKOが死んだのは9月14日の午後7時14分、それまでのあいだ、事の重大さを知りながら、見舞にすら来ず、家族への一言の挨拶もなく、ただ打棄ってきた。
こんなことは常人のなすことだろうか。
事故は、当該運転手の僅かなミス、些細な不注意で起こるものだ。だれも故意に起こそうとして起きるものではない。その意味では、偶然性に満ちている。だがその小さな過失が、多大な、とんでもない不幸を招く。一人の無辜の人間をこの世から抹殺してしまうこともある。

小さな過失が招いた取り返しのつかない事態を、君は直視せず、4日の間ずっと自分の眼を閉ざし、なにも動かなかった。
事故を引き起こした当事者でありながら、君にはいっさい過失がないとでも、のうのうと言うつもりなのか、そんなことは法においてさえありえないというのに。

その挙句、西署から死の報を受けて、ただちに駆けつけるでもなく、電話で「通夜、葬儀の日時を」とはなんたる挨拶、なんたる言い草か。
そんな君に、「どうぞ焼香のひとつもあげてやってください」と、遺族が応えてくれるとでも思っていたのか。
君は、人として為すべきこと、すべてを打棄ってきた。

どう思っているのか、いったいなにを考えてきたのか。
君には、良心の呵責というものがないのか。
法は法、人倫は人倫、
君が、倫に外れた、このままであるかぎり、私たち遺族は、君を許すことはできない、ありえない。
  2008/09/23  RYOUKO父記す。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-14

  門守の翁に帋子かりて寝る  

   血刀かくす月の暗きに  荷兮

次男曰く、一度の宿りを請うた男の素性はただの旅人ではなかった、と外して付けている。

添付に違いないが、月の座につけこんで、このすさまじさの演出ぶりはいかにも荷兮らしい。月は四季通用ということを利用したとはいえ、いきなり冬-秋の季戻りに仕立たのも力業である。

「一句明らかに解を要せず。前句とのかかりも亦おのづから明らかなり。家中の若者なんどか、徒士若党の類なるべし、と旧註の云へるはよろし。例の演劇ぶりの着想なり」-露伴-、と。


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