山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

夢のうちも移ろふ花に風吹けば‥‥

2007-12-31 17:56:51 | 文化・芸術
Kiyookamarronnier1

-表象の森- イサドラ・ダンカンの死

大晦日、今年最期の、年初から数えて161回目の言挙げである。
第一次と第二次の両大戦間のパリに花開いた芸術家たちの青春のすべて、藤田嗣治・ユキ夫妻を軸に、岡鹿之助、シュルレアリスム詩人のロベール・デスノス、写真家マン・レイ、哲学の九鬼周造や、金子光晴と森三千代夫妻、etc.‥‥、若き芸術家群像の青春の日々、その熱き交流を著者ならではの優しさに溢れた詩魂を通奏低音に響かせ、詳細なまでに描ききったEpisodeの数々、清岡卓行畢生の渾身の長編は上下巻1200頁におよぶ大作だが、長い日々を折にふれ読み継いでこのほどやっと上巻を読了。これほどに読む者の想像を掻きたて心愉しませてくれる書は稀有といっていいだろう。
さしあたりは、上巻の後半P476以降に登場する、20世紀モダンダンスの草分け的存在「裸足のイサドラ」ことイサドラ・ダンカンの悲惨な事故死にまつわる20頁余りの叙述からあらましを引いておきたい。

1927年、夏の休暇をドーヴィルで過ごした藤田嗣治・ユキの夫妻は、その後、美術評論家のジャン・セルツとその家族が待つ、ブルターニュの北岸からわずかに離れたブレア島に渡り、美しい風景を堪能しながら静かに落ち着いた日々をおくったので、パリに帰ってきたのはすでに9月になっていた。
「1927年の9月14日、ニースにおいて、イサドラは新しく知った青年が運転するスポーツカー・ブガッティに同乗したが、自動車が動きはじめるとすぐ、彼女が首に巻いてとても長いスカーフの端が車輪の心棒に巻き取られた。彼女の首は極度に強く締められ、その首は折れ、咽喉は砕けた。自動車は急停止されたが、もう間に合わない。彼女は倒れたまま死んでいた。」
イサドラと旧知の間であった嗣治とユキは、この報せに驚愕、二人に深い衝撃を与えた。
「彼らがすぐ思い浮かべたのは、ジャン・コクトーがときどきイサドラに向かって、その風にひるがえる長いスカーフは使わないほうがいいと、なにかを心配するように言っていたことである。コクトーはどんな審美にもとづいていたのか、このスカーフはイサドラを嫌っている、彼女を後ろからひっぱったり、よろめかせようとしたりすると感じていた。」
「それにしても、イサドラにとって、自動車は悲運をもたらすものであった。彼女は14年前に、二人の愛児を自動車事故で失っていた。」
「古代ギリシャの貴頭衣(トウニカ)風の寛やかな、ときに透明な衣を着て裸足で動くなど、革新的な恰好をし、自由で奔放きわまる創作、たとえば、踊りのために作られていない音楽と情熱的に合体する踊りなどで、おのれの清新のかたちを、いいかえれば新しい人間の悩みや喜びを語ってやまなかったイサドラ。」
「彼女はまた恋多き女でもあったが、27歳のときに結ばれたエドワード・クレーグとのあいだには娘があった。」
クレーグは俳優をしたのち、舞台演出・装置で活躍したイギリス人で、彼の演劇論は、フランスの類。ジューヴェやジャン=ルイ・バローなどにも影響を与えたとされる。
「イサドラは32歳のときには、ミシン王の跡継ぎで富裕なイギリス人のパリス・シンガーと結ばれたが、そのあいだには息子ができた。」
「1913年初夏のある日パリで、イサドラは6歳の娘、2歳の息子、シンガーと昼食をした。その後大人二人は仕事に出かけ、子どもたちは家庭教師と自動車で家に戻った。この車のエンジンが途中で止まったので、運転手が外に降りて操作したとき、車は急に後退し、慌てた運転手が飛びついたドアの取っ手ははずれ、車はセーヌ川に落ちて、内部の三人は溺死した。
そんな異常な事故が先に起こっていたのである。」

-ロダンはイサドラを「私が知っているかぎりで最も偉大な女性」とまで言っている。
-ブルデルは「彼女によって、一つのえもいわれぬフリーズが生命を得たようであった」と言っている。
-とりわけ、イサドラ・ダンカンの異常な死に強い衝撃を受け、そのことを戯曲や小説のなかの重要な部分において深く形象化している作家がジャン・コクトーである。
彼は「わが青春記」(1935年)のなかでイサドラを追悼しているが、そのなかで彼女を「このイオカステ」と呼ぶ。ギリシャ神話あるいは悲劇のオイディプスの実母になぞらえるのである。

「イサドラ! ぼくの夢想がしばし彼女のうえにとどまらんことを。彼女こそは嘆賞すべき女性であった。お上品な趣味のしきたりに収まらず、それを覆し、それを超える現代とその都会にふさわしい女性であった。ぼくはニーチェとワイルドの言葉を合わせてもじり、「彼女は自分のダンスの最高の形を生きた」と書きたい。-略- それはロダンの流儀であった。私たちの舞踊家である彼女は、着衣がずり落ちて不完全な姿を曝そうと、裸体に見える部分が震えようと、また、汗が流れ出そうと、そんなことには無頓着である。そうしたことはすべて躍動の背後に残される。恋人たちの子供を産むことを求め、その子供たちを得てうまく育て、しかも、たった一度の凶暴な不運によってその子供たちを喪い、パリのトロカデロ劇場でコロンヌ管弦楽団の伴奏で踊ったり、あるいは、アテネやモスクワの大きな劇場前の広場で蓄音機の伴奏によって踊ったりして、――このイオカステはその生きかたに似た死にかたをした、競走用の自動車と赤いショールの凶暴の犠牲者となって。ショール、それは彼女を嫌い、彼女を脅迫し、彼女に警告していたが、彼女はそれに勇ましく挑み、あくまでそれを身に着けていたのであった。」

つづいて、「ジャン・コクトー、彼の傑作の一つとされる「恐るべき子供たち」(1929年)。彼はこの作品を阿片中毒の治療中にわずか半月あまりで書いたと伝えられているが、たしかにそんな回復期の集中性にふさわしい主題の熱気がある。ギリシャ悲劇ふうの現代小説といわれるこの中編において、スカーフと自動車の車輪による偶然の事故死は、いわば登場人物たちを設定したときすでに必然であったような主人公たちの運命に先駆する傍らのある人物の最期として用いられている」とし、その視点からこれを分析詳述してくれている。

さらに、「コクトーは古代ギリシャのソフォクレスの悲劇を、自分の詩意識に深く合わせながら現代化するという仕事を行っていた。その一応の帰結のように思われる戯曲「地獄の機械(4幕)」(1934年上演・刊行)を書いたとき、それにふたたびイサドラの最期を」、彼女が身に着けていたスカーフを重要なマチエールとして、序幕から終幕にいたるまで、シンボリックに活かしきっているのを、場面を追って詳細に論じつつドラマの核心に迫っている。

のちに藤田嗣治は、日本に戻っていた第二次大戦後の1946(S21)年から48(S23)年にかけて、彼にしてみれば珍しく長い時間をかけた油彩の大作「三人の美の女神」を描いているが、この絵の動機について著者・清岡卓行は、嗣治の内面の奥深くに分け入って、「東京において苦渋に満ちた、しかしまた明るく輝く希望を秘めた自分の再出発を、どのように表現しようかという峨峨の意欲が生じたとき、30数年も前にベルヴュの舞踊学校で眺めたイサドラの「三人の美の女神」が、記憶の底から鮮やかに甦ってくる」と推量し、描かれた「そのうちの一人はイサドラがモデルであると言われるが、裸体である三人それぞれにイサドラの容姿は投影されているかもしれない」とも、この遠い昔のイサドラの「この踊りは、第二次大戦直後の、東京での3年間ほどを、嗣治の頭のなかではたぶん執拗に明滅を繰り返し、油彩の大きなキャンバスのうえでその美しい生命の躍動を揺るぎなく造型するまで消えないのである」と書かせる。

不慮の事故死を遂げたイサドラ・ダンカンには生前に書き残した「わが生涯」という自伝があるが、これに基づいたであろう彼女の伝記的映画が、1968(S43)年、その名も「裸足のイサドラ」として製作され、日本でも公開されている。もちろん私はこれを観ており、彼女にまつわる遠い記憶の彼方とはいえ、この著者が紡ぎだしてくれた彼女へのオマージュに満ちた一章のおかげで、いま鮮やかにいくつかのシーンが甦ってくる。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-96>
 泊瀬川凍らぬ水に降る雪や花吹きおくる山おろしの風  細川幽斎

衆妙集、春。
邦雄曰く、落花雪の如しの景を歌ったものも、同工異曲、後世になるほど新味を生むのがむずかしくなるが、幽斎の作は泊瀬川の桜、天正9(1581)年47歳の春、長谷寺参詣の折、実景を見て歌った意味の詞書が添えられている。結句字余りが下句の調べをおおらかにした。「なほざりの花さへ愛でて来しものをまして吉野の春の曙」も現地に赴いての秀れた句、と。

 夢のうちも移ろふ花に風吹けばしづ心なき春のうたたね  式子内親王

邦雄曰く、萱斎院御集では、百首歌第三乃ち後鳥羽院初度百首詠進歌に見える。ほとんど勅撰入集という希有の百首詠だが、殊に新古今集へは4分の1。盛りを過ぎた花にわらわらと風が荒れ、それも夢の中、あたかも黒白の写真のネガ・フィルムを見る心地あり、不吉な華やぎは無類。新古今に洩れ、第十一代集まで採られなかったのが不審である、と。


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言の葉は露もるべくもなかりしを‥‥

2007-12-29 13:37:49 | 文化・芸術
Chaos

-表象の森- カオス入門

J.グリック「カオス-新しい科学をつくる」新潮文庫(1991年初版)
「進化とはフィードバックのあるカオスだよ」-ジョゼフ・フォード
この宇宙は、たしかにでたらめさと散逸の世界であるのかもしれない。
だが「方向」を持ったでたらめさは、驚くべき複雑さをつくることができるのだ。
そして散逸こそは、その昔ローレンツが発見したように、秩序のもとなのである。

「神はたしかに人間相手にサイコロを振っているのだ」とは、
アインシュタインの有名な問いかけに対するフォードの答えである。
「だがそのサイコロには、何かが仕込んである。現在の物理学の主な目的とは、それがどんな法則に従って仕込まれたか、そしてどうすればそれを人間のために利用できるかを突きとめることだ」-P525

現代科学の「相対論」「量子論」発見につづいた「カオス」論の展開をバタフライ効果にはじまり解き明かしてくれる非線形科学の入門書として、文系人間にとってはかなりの良書といえるだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-95>
 百千鳥声のかぎりは鳴き古りぬまだ訪れぬものは君のみ  恵慶

恵慶法師集。
邦雄曰く、百千鳥は春の諸鳥の囀りや群がり遊ぶさまを指す。曙から黄昏まで、梅の匂い初める頃から桜の散る三月盡まで、軒近く訪れて鳴き、今は聞き古りた。それほどまで春も更けたが、尋ねて来ないのはただ一人、愛する人のみ。この歌、年が変わって春二月になるまで顔を見せぬ人への贈歌。軽い諧謔を交えた淡泊な調べが微笑ましく、印象的な春歌、と。

 言の葉は露もるべくもなかりしを風に散りかふ花を聞くかな  清少納言

清少納言集。
邦雄曰く、清麗な言語感覚は結句「花を聞くかな」にも躍如。清少納言も紫式部同様「歌詠みのほどよりも物書く筆は殊勝」と言われてもやむを得ない歌人だが、秀作に乏しい家集の中で、この一首はともかく出色の調べだ。「言の葉」も縁語として自然、しかも第二句に、いかにも清女らしい理智のきらめきが見える。なお、清少納言集はこの歌に始まる、と。


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ねやの上に雀の声ぞすだくなる‥‥

2007-12-27 16:42:37 | 文化・芸術
Alti200811_2

-四方のたより- Alti Buyoh Fes.2008

来年2月に行われる「アルティ・ブヨウ・フェスティバル2008」の総合チラシが届いた。
今回は2/9.10.11の3日間で18の演目が並ぶ。地元京阪神を中心に各地から18の団体または個人が参加するわけだ。
その陣容をみれば、東京からSoloistが2組、ひとりはMimeとDanceのあいだに遊ぶ人のようだ。もうひとりは京都出身のようだが東京へと転身、折田克子に師事しているらしい。
そして埼玉からの若松美黄、なんとこの御仁は’99年に紫綬褒章を受賞しているという舞踊家であり振付作家。「自由ダンススタジオ」を主宰して40年という名にし負う超ベテランが、単独名での参加だからSoloを饗されるのであろう。1934年生れというからすでに73歳、暗黒舞踏の大野一雄ならいざ知らず、動きも多いDance系では稀少だろう。
静岡から参加のGroupは美術など他ジャンルとの競演や屋外でのPerformanceに特色を示すようだ。さらに韓国から参加のCompanyが一つあるが、これがどんな踊りを見せるのか情報が取れなくて皆目見当がつかない。
あとはすべて京阪神のGroupだが、その13のうち神澤つながりが、私とはほぼ同時代から師事してきた浜口慶子、80年代前後の中村冬樹、そして神澤が近大芸術学部に奉職してからの阿比留修一と4人を数えるのには、ひとしきり微かな感慨がさざ波立つ。これを多いとみるか少ないとみるべきか別にして、神澤舞踊の精髄がそれぞれの表象に心身にどのように流れ、影を落としているのかいないのか。そのあたりを見定めてみるのも一興であるにはちがいない。
いずれにせよ3日のあいだで20分内外の小宇宙ながらさまざまなものを見られるというのは、自分たちが出品すること以上に貴重な機会とて、私などのように他者の作品を観るに腰の重すぎる者にとってはまことにありがたい企画である。
この催し、京都府の厚い援助あっての長年にわたる継続である。さらなる長寿を期したいと思う。

フェスティバル詳細については<此方>を覗いていただければ幸い。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-94>
 ねやの上に雀の声ぞすだくなる出で立ちがたに子やなりぬらむ  曾祢好忠

好忠集、毎月集、春、三月中。
邦雄曰く、やっと巣立ちできるまでに雀の子が生いた。集(スダ)く雀の愛すべきかつ騒がしい囀りが響いてくるようだ。古歌に歌われる鳥は限られ、雀はめずらしい。西行が歌った男童(オワラワ)なども稀少例の一つ。三月下にも浅茅生に雀が隠れるさまを歌った作があり、野趣と俗調はまことに清新だ。10世紀後半、丹後掾の身分で歌合に出ていた記録等があるのみ、と。

 初瀬女の嶺の桜のはなかづら空さへかけて匂ふ春風  藤原為家

続古今集、春下、洞院摂政の家の百首の歌に。
邦雄曰く、万葉に泊瀬女が造る木綿花の歌あり、その白木綿花の代わりに花鬘にしたいような山桜の盛り、序詞的な用法だがこの初瀬女、従三位頼政卿集の桂女の歌と共にめずらしくかつ愉しく、作品が躍動する。闊達な為家の個性が匂い出た精彩ある春の歌だ。貞永元(1232)年、作者34歳の壮年の作。この年、作者の父定家は、新勅撰集選進の命を受けた、と。


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うらうらに照れる春日に雲雀あがり‥‥

2007-12-25 21:01:42 | 文化・芸術
Kinoinochi

―表象の森― 西岡常一に学べ

今日は気分転換とばかり気楽に読める書を手にした。
最後の法隆寺宮大工棟梁、名匠西岡常一のイキのいい語り口が愉しめる新潮文庫「木のいのち木のこころ」の天の章(146p迄)だ。
以前、同じ西岡常一の聞き語り本「木に学べ」(小学館文庫)を紹介(05/06/27)したことがあり、かなり重複するところもあるが、いつ読んでも小気味よく心に響く。
なかでとりわけ胸打たれた一件は、現在「鵤工舎」を主宰し宮大工を束ねる小川三夫を内弟子として迎え入れた折のことだ。

小川の弟子入り志願を両三度聞き入れず断ってきた西岡だが、小川のひとかたならぬ覚悟のほどを知って内弟子を承諾したのは1968(S43)年のこと、小川21歳、西岡はすでに61歳になっていた。
棟梁の常一には4人の子がおり、うち二人は男子であった。祖父・父と三代にわたった宮大工棟梁の職を、常一は自分の息子たちに継がせることにはあまり拘泥しなかった。いや心の底では自分と同じように我が子へと継承を願っていたのだが、自身の恣意に拘りこれを強いるには時代の流れがあまりに悪すぎた。
そもそも法隆寺の宮大工棟梁と聞こえはいいが、百姓大工である。改修工事などの大仕事は何百年に一度と滅多にあるものではないから、寺から与えられたわずかな田畑で百姓をし、最低限の食扶持をみずから獲ながらというのが代々の暮し向きなのである。常一が26歳で棟梁となってすぐ法隆寺における昭和の大修理(1934-S09)が始まったから、彼の場合、まさに時の利に恵まれたといえようが、なにしろ終戦の年が長男10歳になったばかりというめぐり合わせである。子育ての真っ只中が仕事とてまったく途絶えた敗戦の混乱期であったから、家族を養うため代々継いできた山や畑を売ってはしのいできたという。おまけに常一は結核を病んで1950(S25)年から丸2年間床に臥していた。
こんな悪状況下では常一とて子どもらに後継を強いることは到底できなかったろう。また子どものほうでもいくらまっとうに親の背中を見て育ったとしても宮大工になることを望むはずはなかろうとは容易に想像がつく。
さて、小川を内弟子として受け入れた時、常一の家では他所へ勤めていた子どもらもまだ同居していた。その我が子らに向かって常一は小川を引き合わせた際、棟梁のあとを継ぐ者として内弟子としたのだから、これからはおまえたちの上座に座ることになる、それがこの家の定法だと言い聞かせたというのである。
少なくとも彼の息子たちは内弟子となった小川より11.2歳は年長であったろうが、職人の家としての徹底したこの遇しようには、然もありなんかと胸打たれた次第。

西岡常一は1908(M41)年生れというから、尋常小学校を卆え、祖父・常吉の言に従って農業学校へ入ったのは大正の半ば。
この進学については、父は工業学校を薦め、めずらしく祖父と意見の対立があったというが、当時まだ現役の棟梁であった祖父がその意を通した。
「とにかくまじめに一生懸命勉強してこい。百姓をせんと本当の人間ではないさかいにな。土の命をしっかり見てこないかんよ、しっかり学んでこい。」と祖父はよく言ったそうだが、この「土の命」という語がなかなか重い。畑仕事の実習ばかりの3年の授業のあいだに、常一少年はこの語の意味に深く思いあたったようである。

「堂塔建立の用材は、木を買わず山を買え」
「木は生育の方位のままに使え」
「堂塔の木組みは木の癖で組め」
などと、宮大工棟梁には相伝の訓があるという。
法隆寺の檜は樹齢1300年を越えるような木であったから、創建より1300年を経てなお朽ちもしない。
檜といえば我が国で木曽の檜だが、その樹齢は600年というからこれでは1000年保つはずはない。台湾には1000年を越える檜の山があるというので、藥師寺金堂など再建の折には、当然自ら台湾に出かけ、山を見、木を見て、材を買いつけた。

また相伝の訓にいう、
「百工あれば百念あり、これを一つに統(ス)ぶる。これ匠長の器量なり。百論一つに止まる、これ正なり」
「百論を一つに止めるの器量なき者は慎み惧(オソ)れて匠長の座を去れ」
一つに止まる、「一」の下に「止」を書けば、まさに「正」そのものとなる、などと常一は洒落のめしてもいるが、この訓などは世間万般に通じよう。
今の世の政・官・業、どんな場面においても、斯くありたいものだが、耳の痛い御仁もまた多かろう。イヤ、そんな自覚があればまだ救われようか、痛くも痒くなく、身に覚えなどまったく感じない不感症が覆いつくさんばかりの現世だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-93>
 うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りし思へば  大伴家持

万葉集、巻十九、天平勝宝五年二月二十五日、作る歌一首。
邦雄曰く、夕かげに鳴く鶯と共に家持の代表作の一つ。巻十九掉尾にこの歌は飾られた。「宇良宇良尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里志於母倍婆」の万葉仮名表記が天平勝宝5年、8世紀中葉に引き戻してくれる。「春日遅々にして鶬鶊正仁啼く。悽惆の意、歌にあらずは撥ひ難し。よりてこの歌を作り、式ちて締を展ぶ」の高名な後期あり、と。

 蛙鳴く神名火川に影見えて今か咲くらむ山吹の花  厚見王

万葉集、巻八、春の雑歌。
邦雄曰く、上句の五・七・五の頭韻を揃えたのは思案の他の効果であろうが明るく乾いた響は、鮮黄に照る岸の山吹と、鳴き澄ます河鹿らの、視・聴両様の感覚にまことに快い。もっともこの景、眼前のものではなくて想像。ゆえになお活写を迫られたのだ。作者は8世紀中葉の歌人。伊勢神宮奉幣使を務めたことがある。この「蛙鳴く」は代表歌になっている、と。


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しるべとや越の白根に向かふらむ‥‥

2007-12-23 05:04:30 | 文化・芸術
Kudakaretakami

―表象の森― ヒロヒト無慚「砕かれた神」

昨日(21日)は、J.グリックの「カオス-新しい科学をつくる」(新潮文庫)をようやく読了、今日(22日)はこれと併行しつつ読んでいた渡辺清・著「砕かれた神」(岩波現代文庫)を読み終えた。
「カオス-」についての所感をひとまとめに記すにはいささか気骨が折れようとて、「砕かれた神」について記しておきたい。

本書は「ある復員兵の手記」と副題されているように、著者・渡辺清は、高等小学校を卒業してまもなく海軍少年兵として志願、昭和19(1944)年10月24日、レイテ沖海戦で沈没した戦艦武蔵の数少ない生き残りの乗員兵であり、翌年の終戦詔勅によって8月30日故郷へと復員してから翌年4月までの7ヶ月、絶対的信から180度反転し不信・否定へといたる天皇観、必ず死ぬはずであったわが身の荒廃と空虚に満ちた精神の彷徨と葛藤、さらには自己否定を通しての再生、新たな闘争への旅立ちにいたる心の遍歴を、日記形式で綴ったもの。
二十歳になったばかりの若者の熱い体温が剥き出しに直に伝わってくるような、率直に、真摯に綴られた、読む者の胸を撃つ書だ。
富士山の裾野に近い静岡県の山里の、自作農とはいえわずかな耕地ばかりの貧しい農家の次男坊であったれば、日本左衛門と揶揄され、日本中何処なりと行きたいところへ行きうる勝手放題の自由の身とはいえ、戦前・戦中の大日本帝国下であれば、海軍か陸軍にみずから志願し現人神ヒロヒトの赤子として戦場に花と散ることこそ男子の本懐と思い定めての16歳の志願であり、無垢の少年の出兵であったから、奇跡に近い無事生還は生き恥さらしの虚脱した干涸らびたような日々でしかなく、自己喪失以外のなにものでもなかったのだ。

9月30日付の冒頭は、天皇自らがマッカーサー元帥を訪問した際(9/27)の、身なりも容貌も奇異で滑稽なほどに対照的な二人が並んだ例の写真が一面五段抜きで載った新聞をその日の朝見た、そのショックから彼は書きおこしているのだが、
「天皇は、元首としての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭を垂れてしまったのだ。敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。それを思うと無念でならぬ。天皇に対する泡だつような怒りを抑えることができない。」
「日本はやはり敗けたのだ。天皇ともども本当に敗けてしまったのだ。おれにとっての“天皇陛下”はこの日に死んだ。そうとでも思わないことにはこの衝撃はおさまらぬ。」
などと書きつけているが、この日を境にして彼の天皇観は180度の転回をなし、心のなかで欺瞞に満ちた天皇ヒロヒトへの忿怒の炎を燃やし、詔書や視察など天皇に関する報道を眼に耳にするたび激しく心を震わせ、直情径行のままに批判と痛罵の言葉を書きつけずにいられない。それは彼自身の内面の傷みの深さをあらわすものであり、救いがたいまでに病んだ心の叫びでもあるのだ。

そんな今となっては“逆縁”の天皇ヒロヒトに対し、怨恨や憤懣先行からやっと脱けだしてきて、まっとうな論理として天皇ヒロヒトの戦争責任の追究や天皇制そのものの批判へと形成されてくるのは、戦中横須賀から彼の実家近くに疎開してきていた8歳年上の淑子やその弟郁男との情の通った交わり、彼への思慮深い親身な思いやりが大きい。
この淑子らとの付き合いが遠縁にあたるゆえのなのか、あるいは疎開一家と彼の家が偶々近隣ゆえにはじまった家族ぐるみのそれなのかは、文中なにも触れられておらずよく判らないが、淑子は東京の女子大出で鎌倉の女学校で5年ほど数学を教えていた才媛というし、4.5歳上であろう郁男も大学は美学専攻とかで勤務もニュース映画会社と、少なくともこの家族は中産階級のインテリエリート層で、何代か続いた山里の小さな貧しい自作農の一家とは、当時としては明らかに階層的身分が異なる。
ある夜その郁男が、彼のために横須賀からわざわざ持ってきて「ぜひ読んでごらん」と呉れたのが、河上肇の「近世経済思想史論」と「貧乏物語」であった。
家では居候の身でしかない彼は、父や兄の野良仕事を日々手伝うかたわら、夜ともなれば疲れ切った身体に鞭打ち、河上肇の二書を貪るように読み継いでいくが、そんななかで自己への内省と客観的批判的思考に目覚めていく。
彼がこの二書を読破してまもなくの2月1日、奇しくも河上肇が老衰と栄養失調で死去(1/30)したことを新聞で知り愕然とするのだが、この件など象徴的というか運命的というか、彼にとってこの付合は後々における決定的なものとなったことだろう。

本書の魅力、その良さは、彼自身の心情や思考を剥き出しのまま率直に綴る裸形の語り口にあるが、それを支えているのが、復員してからの数ヶ月の日々の暮らしのなかでたずさわる農作業や炭焼きのこまごまとした営みが活写され、その飾り気のない細部の描写がベースとなっていることだ。
根っからの百姓である父と兄のその実直なばかりの働きぶり、仮名しか読めない無学の母だが意外に肝の据わった彼女の他者への優しい思いやり、そして兄想いの控え目な妹と5人の家族だが、海軍少年兵だった帰り新参の彼には、日々の農作業の一々も炭焼きのあれこれも、手慣れた父や兄を見習いつつの身体にきつい堪える作業でありまた身体で覚えるしかないものでものであるから、その描写は細部が活き活きとしてくるのだ。
彼と同じように出征して、支那に満州にと散っていた同級生だった何人かの友も無事復員してきていたりする。そのうちの一人は、結核を病んで死期も迫っている。
もちろん戦場の露となった者も多く、紙切れ一枚きりの遺骨帰参があるたび、ひっそりとしたその迎えに出向いていく。無事復員した者、遺骨でしか帰り得なかった者、その明暗がそれぞれの家族を蝕み痛めつけ、無用の嫉みや侮りが渦を巻く。
近隣には淑子たちばかりでなく、他に何組かの疎開家族も住んでおり、食料を求めて彼の家を頼りに衣類などを携えて買い出し(物々交換)に来る一家もある。
少し離れた寺には集団疎開の子どもらの一群が、都会の食糧難の所為でまだなお帰れずに居着いたままだったりする。
そんな疎開の人たちの群れと村在住のそれぞれの百姓たち、異界の者たちの互のあいだに潜む妬みや蔑みが、さまざまな形となって露わになったりもする。
日本中のどこにでもあるありふれた山村の、敗戦直後に繰りひろげられたであろう悲しくも厳しい再生への歩み出しの風景がくっきりとモノクロトーンで迫りくるようだ。

本書の最後の日付、4月20日、
その明後日、淑子や郁男の骨折りで就職先も決まって、いよいよ上京するということになっているのだが、この日彼は新生の一歩を踏み出すためにかねて心に秘めてきた一大儀式ともいうべき企てを挙行する。
それは天皇ヒロヒトへの決別の私信であった。
彼の海軍生活4年3ヶ月と29日の間、天皇ヒロヒトの一兵卒として授けた俸給や手当にはじまり、食費や兵服等一切のものを金員に換算し直し、金4,282円也を為替にて同封、返却する旨の申し状を添えて、送ったのである。
宛名は「東京都宮内省侍従官室」御中、申し状に列記された俸給等一切は詳細をきわめ、恩賜の煙草一箱に至るまで細大漏らさず、その項目はなんと67を数え挙げている。
4000円は父に無理を頼んで借りたという。もちろん今後働いて返すという約束で。
その長い申し状の最後の一行は、
「私は、これでアナタにはもうなんの借りもありません。」と結ばれている。

この大胆かつ不遜きわまる決別の私信を、侍従らに守られ奥津城に居る天皇ヒロヒトが直かに眼にすることなどあり得るはずもなかったろうが、たとえ万に一つ眼にしたとしても、ぼそりと「人というものは悲しいものだネ」と呟いてみせるくらいがオチで、どうにも交叉のしようもない彼我の認識の、涯もない距離の遠さに、なんの疼きも痛みも感じることなどあるまいけれど、一介の無辜の民草である彼・渡辺清が、ヒロヒトへと放った直球勝負は、無辜の民であればこその、まこと稀なるものであろうし、その剣先の孤影は中天あざやかに鋭い光を放っているものとみえる。

彼・渡辺清は、後に鶴見俊輔や丸山真男ら同人による「思想の科学」誌発行の思想の科学研究会の研究員となったという。さらには、「きけ、わだつみの声」や機関誌「わだつみのこえ」を発刊しつづけたわだつみ会(日本戦没学生記念会)の事務局長を1970(S45)年より務めているが、おそらくは’81(S56)年56歳で死に至るその直前までその任をまっとうしたのだろう。
本書「砕かれた神」の初版は1977年の評論社版、
他に「海の城-海軍少年兵の手記」1969年、「私の天皇観」1981年、「戦艦武蔵の最後」1982年の著書がある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-92>
 しるべとや越の白根に向かふらむ霞めど雁の行くすゑの空  飛鳥井雅親

亞槐集、春、帰雁。
邦雄曰く、雁は越路の空を通って常世の国へ帰って行くと伝えられていた。「しるべ・白根」「霞めど・雁」と音韻の重なりが、帰雁の羽遣いをすら感じさせる。同題で「絶えず思ふ故郷なれや春の雁時しもよただ帰る声々」と、鳴き声を活写した珍しい作も見える。15世紀末宮廷歌壇の第一人者で、第二十二代集選集の勅命を受けたが実現に至らなかった、と。

 野べ見れば弥生の月のはつるまでまだうら若きさいたづまかな  藤原義孝

後拾遺集、春下、洞院摂政の家の百首の歌に。
邦雄曰く、「さいたづま」は虎杖(イタドリ)の異称であり、また春若草の総称でもあるが、詞書に従えば後者であろう。古歌でも稀用例の一つで、古今和歌六帖にも見えない。珍しい植物名は古今集の物名歌くらいで、八代集は春秋に十か二十の草木名のみ。夭折の貴公子、有数の天才歌人が、殊更にこの名を歌ったのが嬉しい。襲色目にもこのなあり。青朽葉の淡色、と。


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